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拝啓櫻井よしこ様(終章)・読書感想「何があっても大丈夫」(日本人の語学学習について・・)

2006-05-28 13:23:11 | 趣味の話&本と雑学メモ
<第二章>

かくして、再び、櫻井さんの話に戻る。
さて、上記「この一冊:何があっても大丈夫」からの抜粋により、櫻井さんの学歴過程と英語の接点、社会人となった時点の就職先は(図らずも)「ジャーナリスト」への道、そして現在あること、その過程を辿ってみた。
昭和40年代前半、大学進学を目的として英語学習をされていた。
当時の高校生として一流私学の入試に合格する程度の英語の学力とは、現在の高等学校英語教育及び学力と比較した場合、どうなのか?等という「野暮な対比」は一切無視してみたい。
しかし、けっして見過ごせない観点がある。
当時、日本での大学進学を放棄され、進学を目的とせずにハワイに渡航された。レストラン従業員として現地で仕事を始められた櫻井さんにとって、仕事をこなす為の「日常英会話」の必要性に、困惑されたに違いない。まず、英語を学問としてではなく、生活の為、生きる為、英語をサヴァイヴァルの道具として使うことから入られたのだ。しかし英語を(会話として)使う場所は、たかだかハワイの日本人経営のレストランであった。ハワイの場合、白人社会の真っ只中に放り投げられた状況とは違い、スムーズに英語会話生活に入れた可能性は高い。(なぜならば、想像の枠内であるが、当時の日系レストラン従業員のほとんどは、日系2世ないし日本人により従業員構成されていたはず。したがって、英語と日本語をごった混ぜにした職場環境であったと考える)
しかし、問題は大学に進学された時点である。
「その一冊」につぶさに記されている如く、大学における一般教養の講義についていける英語の力量は構築されていなく、「そうとう苦労した」と、記されている。しかもその苦労の中、(Bクラスといえども)奨学金を取得されたとも記されてある。学力なくして奨学金の交付許可は、ない。したがって大学進学後、日々の講義に追いつくために、日々の英語学習には、砂を噛む如くに無味乾燥なる努力を、ひたすら続けられたにちがいない。専門課程の専攻は東洋史。と、ある。東洋史を学ぶには、世界中のいずれの大学を探しても見当たらないほどに、ハワイ大学における東洋史研究は格好の場所であったと考える。(実は我輩、ハワイ大学の背景につき、なんら予備知識皆無であること、断っておきたい)

アメリカの研究者から見た「東洋史」、(今現在の自分自身にして勝手に思うに)なんとも魅力的である。当時、いや今もそうであろうが、いかなるアジアの国々を駆け巡り捜査探索にあたろうと、アジアの歴史即ち東洋史を紐解くにあたり、民族的偏見なくして適確に正視し、左右のぶれなく、真っ当に「見聞判断」可能なるは、アジアに於いてではなく米国を含む西欧諸国のいずれかに存在するはず。ならば当然、今尚、米国ハワイ州にして、アジアの歴史全体を見回すこと可能なる「物見の塔」があっても不思議ではない。

いまや、櫻井さんと同年代の日本人の歴史認識は如何なものか?

多くの日本史研究者は存在する。
その全てとは云わないが、イデオロギーの色眼鏡なく、民族主義的国粋主義的な偏見なくして「日本史」を含む「東洋史」を研究した学者は、果たしていずこに存在するか。まして、日本を含む東洋史に於ける「近代史」を紐解いた研究者は稀であろう。櫻井よしこ先生をして、そのお一人。と、考えるが如何。確たる歴史認識から、我国に於ける全てのジャーナリズム正義は始まる。と、思うが如何?
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何があっても大丈夫

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話戻って、
ハワイ大学で学ぶ学生諸君は広くアジア諸国から参集し、学生生活を営む。その合間、必ずや英語を駆使する。教授陣にいたっては、深き愛情と真剣な態度で東洋を研究する人材を必要とし、洋の東西を問わず広く世界中から集積しているはず。英語を母国語としている学生と、母国語としていない学生、さらに学生と教授の間における、「英語によるディヴェート(議論・論戦)」、日常の学生生活における英会話を通しての交流。教授陣との公私共に渡るコミュニケーション。奨学金を得ているといえども、「生活費」にゆとりのない櫻井さんは、学業の合間にアルバイトによる現金収入を計り、アルバイトにも時間を割かれている。が、おのずとアルバイトを通して「学業・研究」以外の場面を体験されている。
そのような環境にて、東洋史を専攻された櫻井さんの「先見の明」に、先ずは拍手!
最大にして最高の敬意を表したい。
かくして、社会人となってからも、「米国人女性ジャーナリスト」の秘書として就職し、これまた英語と日本語の狭間で格闘する日々、言い換えれば、生活のために英語を道具として仕事をされ、現在の桜井さんが存在する。
フリージャーナリストとして独立されて今日に至るまで、日々の英字新聞はもとより、英文誌の購読通読は日常茶飯事、ジャーナリストの使命を果たされる目的にて、情報収集のために語学を駆使されているに違いない。
見事なり。見事に、英語を駆使されている。

タイミング的に、ここで補完しておきたいことがある。
なにも、英語を使える日本人が、優秀で立派だということではない。はからずも櫻井さんのご職業は、ジャーナリスト。かの職業の第一の活動は「正確なる情報収集」のはず。ならば、日本語のみに限定された「情報収集範囲」では真に不十分であり、少なくとも英文により発信された情報誌を解読できないようでは、まともなジャーナリストとはいえない。ということ、櫻井さんの場合に限らず、ジャーナリストたる人種の仕事道具として、語学は必須である。と、断言したいだけのことである。

何度も云う。

尊敬に値する『日本人女性』、その「お一人」なり。

教育が拓く未来―変わり始めた現場からの提言

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<第三章・結論>

今、小学校高学年からの英語教育が叫ばれている。
賛成か?
否か?
と、問われれば、そのどちらでもない。
すべからく「初等教育」に必須事項なるは、

* 読み、

* 書き、

* そろばん、、、

以上3点、あるのみ。

これ、小学校で上記3点セットの基礎ができているのかどうか?
しつこく云うが、
まず、上記の『3点セット』を完璧にすること、肝要。
若し、
本気で外国語教育をやるとするなら、英語のみならず第2外国語まで義務教育で実行したらどうか?いまや、(母国語とあわせて)3ヶ国語以上を運用可能とならねば、グローバル時代は乗り切れない。

あらためて、
英語は必須かどうか?
小学校教育にとらわれず、大人の日本人として捉えた場合を論ずるならば、
論外なり!
英語ができて「当たり前」の時代に、とっくに突入している。

  <・・完・・>

(前章(第一章)をご参照になりたい方は、こちらから入れます)


<表題イメージ画像>:ショーンコネリー卿「ウエブサイト」より、抜粋。(こちらから入れます・・)
* ミシェル・コネリー(ショーンコネリー夫人)の絵画より。我々日本人も、本気で子供を大切に育て上げねばならぬ!等と、当記事を書いている最中に突如として「少子高齢化問題」も、頭に浮かんだ。ミシェル夫人、心温まる絵画をご紹介下さり、たいへんありがとうございます。)考えれば、頭の痛い「問題だらけの我国」日本なのだ!「そろそろ、社会問題考えるの止めて「ダンディーシリーズ」でも投稿して、気分転換しましょうか?・・・」