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Cafe & Magazine 「旅遊亭」 of エセ男爵

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気儘な旅人の「三文オペラ」創作ノート

ほりえもん!ガンバレ!・・・

2006-01-19 09:25:36 | 教養・文化・歴史

 ”ほりえもん”君の会社"Live-Door"が、危機に瀕している。

 合わせて、日本国内のみならず世界中の金融市場に多大なる影響を及ぼしている。このことから、金融市場の世界性と反応の速さに感心し、あらためて21世紀ビジネスの現実のあり方を目の当たりに見ながら、何某かを痛感する。

 気になるので、下記、昨日の一連の「気になる記事」に目を通した。

 東証の社長を始め、日本の経済界の主だったところは、皆さん「ほりえもん批判」に集中している。しかし(冒頭に掲げた)Financial Timesの社説には、皮肉にも周囲の批判がなされているから面白い。ここで肝心な事は、英国のフィナンシャル・タイムスは、全ヨーロッパをカヴァーする権威ある経済新聞であること、我々は銘記しなければならない。この見解、全ヨーロッパ金融界及び財界の見解と考えてよかろう。日本で「型破り」のほりえもんの存在は、円熟した欧州金融市場では「歓迎」の意を以って評価されており、”ほりえもん”に対するこの採点こそが、世界基準ではないのか。
(合わせて「東京ロイター」の切り口が、面白い、、、)

 東証のシステムが、取引件数のオーヴァーフローにより、数十分早めに取引停止をするなど基礎的な部分での東証取引システムの脆弱性を指したく、何ら、Live door株の云々は、直接の原因ではない。と、我輩は考える。
 この度の「椿事(東証の取引混乱)」の根源は、むしろ東証のシステム構築の未熟さであり、世界を舞台にする21世紀の金融取引の実態に即していない「古き体勢」が暴露・露呈したという単純な事実が発覚しただけである。

なんとも、まあ~
情けない話である。

ほりえもんの会社は、これでお仕舞いになるかもしれない。
しかし、襟を正さなければならないのは、日本の金融システムと旧態依然とした財界と、報道のありかたであろう。

いずれにしろ近々の内に、答えは出る。

ほりえもん!がんばれ・・・・

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「ライブドアに主流派の「報復」=型破りな人材必要-英紙社説」

 英紙フィナンシャル・タイムズ(アジア版)は18日付の社説で、ライブドアが東京地検の強制捜査を受けたことに関連して、企業の主流派(エスタブリッシュメント)が、これまでの厚かましいまでの行動で頭痛の種となっていた同社と堀江貴文社長に対して、「報復」を加えていると論評した。一方で同紙は、日本は自由で開放的な金融市場を受け入れる必要があり、捜査の結果にかかわらず、今後も堀江社長のような型破りな人材が増えることが必要だと指摘している。 
(時事通信) - 1月18日11時1分更新

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<東証>全銘柄の株式や社債売買を全面停止

 東京証券取引所は18日午後2時40分、東証1部、2部と新興企業向け株式市場のマザーズなど全銘柄の株式や社債の売買を全面停止した。東証の開設以来初の措置。「ライブドアショック」を受け、投資家の売り注文が殺到し、システムへの負荷が高まったことが一因とみられる。東証の売買システムが処理できる1日当たりの取引件数は450万件だが、午後2時25分に400万件を超えた。取引が450万件を超えれば、売買された株式の決済ができなくなるため緊急措置に踏み切った。

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[焦点]信用取引の投げで連鎖安、東証システム問題も加わり予断許さず

 [東京 18日 ロイター] 東京株式市場は日経平均が前日比700円を超す大幅続落となった。きのうの高値から、わずか2日間で1000円超の下落となった背景には、“ライブドアショック”を引き金にIT関連株が急落、それが信用取引で買った投資家の投げを誘い、連鎖的な下げを引き起こしたことがある。さらに東証のシステム問題も不透明となってきたことから、海外勢の一部には、「日本売り」に傾く動きも出始めており、予断を許さない情勢になってきた。
 東京株式市場は全面安商状。ライブドア<4753.T>問題の行方が引き続き気にされるほか、ヒューザー小嶋社長の証言で安倍官房長官の名前が出た点、米半導体大手インテル<INTC.O>が17日発表した第4・四半期決算が市場予想を下回ったことなど悪材料が重なり、朝方から幅広く売られる展開になった。
 加えて、後場に入り、東証が注文・約定件数が増加でシステムの処理可能件数を超える可能性が出てきたため、株式の全銘柄について取引停止する緊急措置を実施することもあると発表したことも、下げ幅を拡大させる要因となった。
 <信用取引の投げが活発化、下げを増幅>
 こうした中、下げのスピードを加速させた背景に、信用取引で買い建てた玉の投げが活発化したことが挙げられている。東京証券取引所がまとめた1月13日申し込み現在の3市場信用取引現在高(概算)によると、金額ベースで買いが5兆7662億4400万円(同3120億7100万円増)と最近のピーク水準を更新中とあって、「株価的に伸び切った銘柄が多かったため、いつ需給面で整理が起きても不思議ではなかった」(岡地証券・投資情報室長の森裕恭氏)という。
 ライブドアだけでなく、個人投資家の人気が高いソフトバンク<9984.T>をはじめ、最近の相場で信用買い残を積み上げた銘柄を中心に、ここ一両日で見切り売りが目立った。
 市場では「追い証がかかっているので、投げざるを得ない状況。品薄の株は少しの株で下げがきつくなる」(東洋証券・ディーリング部の児玉克彦氏)との声もあるなど、株価急落─追い証の発生─投げ売り─さらなる下落──といった連鎖安の構図が浮かび上がっている。
 <東証システムのぜい弱さ、日本売りの動きも>
 さらに、追い討ちをかけたのが、約定件数が400万株を超えた場合に株式全銘柄の取引を停止するとの東証の発表だ。大和証券SMBC・エクイティ企画部部長の高橋和宏氏は「東証の発表をきっかけとし、売り急ぎの展開になっている。外為市場でも円売りが膨らみ、日本売りの様相だ」と指摘する。
 ある外資系証券の関係者は「小泉改革を買い材料に日本株を買ってきた欧米勢は、投げてくる可能性がある」と話す。ある邦銀関係者は「株価の下げ止まりが期待できないと、景気のモメンタムに影響が出てきて、金融政策にもこれまでと違った展開が出てくる可能性がある」と影響の大きさを懸念する。
 <マネックス・ショックの余震も継続>
 一部の証券会社が17日にライブドアの株券について、信用取引の担保掛目をゼロとする措置を実施したことも、影響が継続している。マネックス・ビーンズ・ホールディングス<8698.T>傘下のマネックス証券は、ライブドア<4753.T>および同社と関連のあるライブドアマーケティング<4759.T>、ライブドアオート<7602.T>、ターボリナックス<3777.OJ>、ダイナシティ<8901.Q>の計5銘柄の代用有価証券掛目をゼロに引き下げたが、17日の後場に下げが激しさを増したのは、これが要因との見方が出ている。
 17日の朝方は“ライブドア・ショック”だが、17日後場からの下げを“マネックス・ショック”と呼ぶ関係者も少なくない。
 同グループ5銘柄を担保に信用取引を行っている投資家は、18日以降、担保価値に見合う現金を差し入れるか、建玉の整理を迫られることになる。
 市場では、この措置がマネックス1社であれば影響は限定されるが、広がった場合は需給面での大きな懸念要因になるとみられ、それを見越した売りも出ているという。
 この措置で最も影響を受けたのがソフトバンクだ。ある中堅証券の影響担当者は、「ソフトバンクを買うために、ライブドアの株券を担保にした投資家がいたようだ。また、ソフトバンクを担保にソフトバンクを買う信用取引の『二階建て』を行う投資家も多いと推定される」としたうえで、「ソフトバンク自体も担保に利用されれば、担保価値の下落で他の銘柄の投げ売りを呼ぶことも考えられ、ライブドア問題を引き金に需給が完全に崩れた」とコメントしていた。
 もっとも、今回の急落に関して市場では、「ファンダメンタルズが変化したわけではなく、過去の相場がそうだったように、投げが一巡した後は、鋭角的な切り返しを演じる可能性もある」(エース証券・専務の子幡建二氏)とみる向きが多い。しかし、東証のシステム問題が加わり、より地合いが悪化しただけに、相場は予断を許さない状況が続きそうだ。
(ロイター) - 1月18日15時4分更新

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株式市場大混乱(1)ライブド売れず、換金売り続く

 18日の東京株式市場は軟調な展開となり、日経平均は連日の大幅安、前日の462円安に続いて464円安となった。一時下げ幅が700円以上となって、1万5000円割れ寸前まで下げたが、その後はやや下げ渋った。TOPIXは一時92ポイント下げた後、56ポイント安で引けた。
 前日からの「ライブドアショック」が尾を引いた。本日は一部でライブドア  <4753>  が粉飾決算をしていたと報じられた。東証は事実確認のため、寄り付きからライブドアの売買取引を停止した。ライブドアは前日にストップ安比例配分となり、2億5934万株に及ぶ大量の売り物を残していた。ライブドアの前週末13日申込み現在の信用買い残は8732万株。信用買いを入れていた投資家の中には一刻も早く売却したいと思う投資家も多いと見られるが、売りたくても容易に売れない状況が続く。
 ライブドア株式を容易に売却できない状態が続いたため、ライブドア以外の株式に対して換金売りが広がる状態が続いた。ライブドアと同様に信用取引を活用した投資家から活発な売買がなされているソフトバンク  <9984>  あたりに引き続き換金売りが流れ出ている。(S.K)
[ラジオNIKKEI2006年01月18日]
(ラジオNIKKEI) - 1月18日17時32分更新

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ライブドア上場廃止を示唆-東証社長
ライブドア事件で株価が急落、前例のない取引全面停止に踏み切って緊急会見する東京証券取引所の西室泰三社長。ライブドア側の対応いかんでは独自に上場廃止などを検討する方針も示唆した(18日午後、東証)(時事通信社)19時48分更新

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ライブドア入会承認はミス-経団連会長
都内で講演する日本経団連の奥田碩会長。ライブドアを先月の理事会で全員一致で入会させたことに関し「ミスだったというか、早まった」と述べ、今後の推移いかんでは処分に踏み切る可能性を示唆した(18日)(時事通信社)19時48分更新

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007JamesBond役!何代目?南仏に現わる!(悠さんからの贈り物)2/3

2006-01-18 09:06:25 | 研究:「ダンディズム」
<写真提供:悠先輩より>

   瞬間?

 何代目かのジェームスボンド役が現われたか?等と、お思いになった読者も多いであろう。(どっこい、チョイト違うのである・・・)

  言わずもがな、悠々さんの写真である。

 昨年の秋、約一ヶ月かけてドライヴ旅行されたとき、南仏の知人のご自宅を訪ねられた時の一枚は、すばらしい。 我輩好みの「すてきな写真」の一つ、これもお願いしてお送りいただいた。その主なる理由は他に有。実は、お手元の拳銃の詳細を拝見したかったのである。

 この写真に撮り込まれている、いかにも南仏を彷彿させる部屋のレイアウト、さりげなさの素晴らしいことこの上ない。

 それにもまして、いかんなく表現されたさりげない悠々さんのダンディズムをご覧あれ!とてもおしゃれな御仁である。

 外のテラスから照射される太陽光線を取り込んだダイニングルーム。いかにもフランスっぽい紅色と白のテーブルクロスに、そろいの飾り皿に付けられた絵模様のバランス。この色彩感覚と太陽光線の取り込み方は、さすがに南仏に育ったフランス人のなせる技なのか。印象派画家を生み出したセンスと素地は、今も尚、この土地柄に育まれた気風に息つき、伝承されているのだろうか。

 こうして、おしゃれなフランス人家族と交友をもてる「悠々さんのお人柄」を覗うならば、行き付く所はただ一つ、いかにも「粋」にして「ダンディー」。こうしてピストルなぞ握れば、今流な日本のサムライか。
(憧れます・・・)

*注:(いっときますが、これはホンモノの拳銃であるぞ!)

(写真提供:「悠々さんblog」2006年1月1日付は、こちらから入れます。記事詳細、是非ご覧下さい)

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「ボケの花」:悠々さんからの贈り物 (1/3)

2006-01-17 00:58:28 | つれずれ紀行
<画像:悠悠さんより寄贈>(悠々さんのブログは、こちらから・・・)

 悠々さんからの「贈り物」である。

昨年より幾たびか「お願い」し、つい先日になってお送り下さった悠々さん御直筆の水彩画。さっそく悠先輩のご許可を頂き、本日、不肖「エセ男爵ブログ」に記事掲載できますこと、まことに光栄の至りであります。

一言、先に申し上げておきたい事あり、、。
この作品、我輩の大好きなタイプの水彩画である。

さて、
創作活動をなさる方に対し、「鑑賞感想文」をしるして御礼の意を現すのが筋である。
しかし、我輩にして「絵画を鑑賞する能力」たるもの、果たしてあるのだろうか?自らにして疑問に思う。単純に「好き嫌い」はあるが、果たして鑑賞能力ありや?となると、あまり自信はない。

「・・・!」

「なんですって?」

「・・・?」

「ハ、ハイ。自信がなければ、四の五の下らないことばかり書き連ねるな!と?」

「オ、仰せの通りであります!」

いずれにしろ通算3回(本日1月17日より1月19日迄)にて、悠先輩関連記事を掲載致したく考えており、

本日は先ず、
悠先輩の作品、とくとご覧頂きたい。


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<ダンディズム研究:まずは「Sir Sean Connery=007ジェームスボンド」シリーズより、悠先輩記事掲載終了次第連載開始します・・・>

ダンディズム研究:緊急のお願い!・・・

2006-01-16 06:10:45 | 研究:「ダンディズム」
(from America's Cup Yacht Race by Wikipedia)
 ・・・?
・・・・・・スタートしました!

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こちら、久しぶりの禁じ手、「エセ男爵ブログ」の風評・批判・非難や下馬評・その他、情勢チェックは、こちらから入れます・・・

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ダンディズム研究(2) 「ショーンコネリー卿」(2/4) "007 James Bond"

2006-01-15 10:25:57 | 研究:「ダンディズム」
(from Wikipedia's "James Bond" Web-Site)

この画像、ボンドフアンなら、全員ご存知のシーン!
あえて説明すれば、ボンド映画には必ず出てくる最初の字幕が終わってストーリーに入っていく繋ぎのカットである。

正面の丸枠の中の人物は、諜報部員007ジェームスボンドという設定であろう。周囲の螺旋は、まぎれもなく拳銃の銃身内のライフル(螺旋)を意味する。となればこの拳銃は敵方の持つ拳銃の銃身であり、敵方はボンドを狙ったものの「返り討ち」にあい、拳銃の銃身は赤く血に染まり、あえなくボンドの銃弾に倒れる。といった意味合いがある。分かりきっている事柄であるけれども、解らない読者(女性読者?年少男性読者?)のために解説する。
ナヌ?
(女性読者の少ないエセ男爵Blogには、あまり意味のない解説か?)

この画面。
敵方の持つ拳銃の銃身の中から狙った『目線』で描かれた、面白い発想である。この発想、我輩にとっては奇想天外にしてかけがえのない「粋(ダンディズム」を感じるものであり、この画像あえて冒頭に掲載した事、ご承知於き願いたい。

本日の本論に入る。

 ダンディズムを語るに際し、イアンフレミングの小説「ジェームス・ボンド」なる架空の人物、すなわち英国諜報部員の物語は外せない。

60年代後半から70年代にかけて一世を風靡した映画「007ジェームス・ボンド」リーズを語らずして、Sirショーンコネリーは語れない。
Sir Sean Connery は1930年の生まれ。
ボンド役初演、ドクターNOの撮影は32歳。Diamonds Are Forever (1971)出演のとき、すでに41歳。
Never Say Never Again (1983 unofficial)に至れば、53歳である。
作品の中のジェームスボンドは歳をとらないが、ショーン卿は歳をとるから同じ役者の役柄には、おのずと限界がある。この年齢にして一度、映画俳優としての限界と迷いを感じたはず。筈でなくて実際そうだった、らしい。しかしこの後、「ポスト・ボンド(ボンド以後の役柄)」として再起。ボンド役以後のショーン卿「第3?の人生」がおとずれる。こここらあたりが、Sirショーンコネリーの「男」としての素晴らしさである。
ショーン卿の最初のボンド役は、32歳?
ウイキペディのア年譜によれば(He first appeared as agent 007 in Dr. No (1962) and subsequently played Bond in several sequels.
From Russia with Love (1963)
Goldfinger (1964)
Thunderball (1965)
You Only Live Twice (1967)
Diamonds Are Forever (1971)
Never Say Never Again (1983 unofficial)
等と、、、
これ以後、ボンド役を引き受けることは不可能となった。
しかし、大半の作品は30代前半から40代。男の花が開き円熟する年代時代をボンド役で通した。うらやましいというか、(うらやましがっても始まらないが)男冥利に尽きる役柄を、ショーン卿自ら堪能したのではなかろうか。すでにショーン卿自身、何をやっても形になる男、ダンディズムを地でいっている男。すなわち、ショーン卿の持つ本来の姿、立ち居振る舞いを、そっくりそのまま演技にぶつけても「様(さま)」になったはず、、、。

さて、
なにが、どこが、ボンド役ショーン卿のダンディズムなのか?
については、次回にゆずる。
なにしろ、もう一回、「007ジェームスボンド」を記事にするからその時に「語り」たい。

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さて、
シリーズ中、我輩の個人的見解による最高傑作は、やはり「ロシアより愛を込めて」である。それから、確かショーンコネリー演ずるボンド役の初回作品「ドクターNO」もよい。

ロシアより愛をこめて〈特別編〉

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ソ連KGB女性諜報部員の役を演ずる『初老のオバちゃん』の女優がすばらしい。物語の最期までボンドを追い詰め、一件落着と思いきや、隠し持った最期の武器(靴の先に短剣が飛び出す)を以ってして、ホテルの部屋の中にいたボンドを蹴りまくる。滑稽にして恐ろしいシーンを演じきっている名脇役の中年女優の印象が強く残っている。ストーリー展開は、このシリーズの中でも1~2位にランクされる面白い展開が「ロシアより愛を込めて」である。もちろんもちろん、映画主題歌(主題曲)『フローム・ラッシャ・ウイズ・ラヴ=from Russia with Love』、なにしろよく聞いた。
いかにも、ロシア風の哀調ただようブルース調のメロディー、「パンチ・力」あるリズム感の凄み等々、迫力あるBGMの芸術性完成度も高く、歴史に残る名曲である。そして、日本でも良く流行った。今尚、夜の巷に繰り出して、仲間と一杯やって「ご機嫌」になれば、この歌をカラオケで歌う馬鹿シニアがいる。(その実、この名曲、声質的にぴったりくるエルヴィスプレスリーにでも歌わせてやりたい。晩年のエルヴィスには、良い持ち歌が巡ってこなく、"エルヴィスらしさ"を活かし切る新曲が生まれなかった。でも、もうこの世にいないから「わかなわぬ話」、お願いしても不可能だ・・・)

007 ドクター・ノオ 特別編

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 ボンドガール役のドイツ系(人)女優「アーシュラ・アンドレス」が好い。軽快なカリプソソングをBGMに、ベージュ色のセパレート水着姿にマリンナイフを腰に下げ、真っ白な海辺から登場する。化粧化は全くなく、ついぞ飾り気のない金髪女性のイメージは野性味溢れ、欧州人種(おそらく彼女はゲルマン系?)独特の野蛮にして凶暴な「凄み」を露わにし、且つ妖艶にして端麗であった。当時の日本人男性金髪フアンを魅了したに違いない。なぜかその後の映画界に姿を現さないから、ここいらが何故か好ましい。
あえて欲を云えば、そして今となれば、当時の日焼けしたアーシュラではなく、白人独特の透き通るような「肌の白い状態」の彼女を見ておきたかった。
(ダンディズムから外れた趣旨になるか?この議論、ここいらで止めておこう・・・)

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<以下、ウイキペディア百科事典より、引用>

"JAMES BOND"

Connery in Never Say Never AgainConnery is well known to audiences around the world for his role as James Bond. He first appeared as agent 007 in Dr. No (1962) and subsequently played Bond in several sequels.

From Russia with Love (1963)
Goldfinger (1964)
Thunderball (1965)
You Only Live Twice (1967)
Diamonds Are Forever (1971)
Never Say Never Again (1983 unofficial)

Connery was discovered by Harry Saltzman after numerous names as possible contenders for Bond were thrown or ruled out, including Roger Moore, David Niven, Cary Grant, and many others. Ian Fleming, the creator of James Bond pays tribute to Connery in his 1963 novel, On Her Majesty's Secret Service by stating that 007's surname as well as his father, was Scottish. Ironically, Fleming reportedly did not like the casting of Connery on the grounds that the stocky, 6'2" Scotsman was too "unrefined", but with some tutelage from director Terence Young, Connery won Fleming over. Young helped to smooth over Connery's rough and tumble edges while utilizing his imposing physicality yet amazingly graceful, cat like movements during action sequences.

Connery's favorite Bond was From Russia with Love, one of the most critically acclaimed films in the series. He confirmed it in a 2002 interview with Sam Donaldson for ABCNews.com. (American Movie Classics erroneously listed Thunderball as Connery's favorite during its recent Bond retrospectives.)

In 1967 Connery quit the role of Bond, having grown tired of the repetitive plots, lack of character development and the general public's demands on him and his privacy (as well as fearing typecasting), which led to Albert R. Broccoli hiring George Lazenby to continue the film franchise in 1969's On Her Majesty's Secret Service. After the film's release, however, Lazenby backed out of a seven film contract. Broccoli again asked Connery to return to the role and paid him $1.25 million plus 12.5% of the film's profits, or about $6 million total to do so, at the time the highest salary of any actor. Connery returned one final official time in 1971's Diamonds Are Forever, quitting the role shortly after release.

Due to, and at the height of an ongoing legal battle between Broccoli's EON Productions and Kevin McClory (co-writer of Thunderball), McClory was allowed to create a remake of Thunderball after a 10 year span after the release of Thunderball. In the late 1970s McClory teamed with Connery to write an original James Bond film. The project never got off the ground due to further lawsuits brought about by United Artists; however, in 1983 Connery teamed with McClory again to play the role of secret agent James Bond 007 for the seventh and final time in the unofficial film and remake Never Say Never Again. The title of the film has long believed to have derived from Connery's comments after the release of Diamonds Are Forever who after filming it, claimed he would never play James Bond again. (For the legal battle see the controversy of Thunderball)

Connery returned to the role once more in 2005, providing the voice and likeness of James Bond for the video game adaptation of From Russia with Love.

Over 40 years since he first played the role, Connery is still widely regarded as the definitive cinematic incarnation of James Bond, despite credible interpretations of the character by the likes of Roger Moore, Pierce Brosnan, and what many believe to be a more authentic literary performance by Timothy Dalton. Connery's own feelings on Bond in interviews has run the gamut from bitter resentment to great fondness. At one point he joked he hated Bond so much that he'd have killed him, but he has also stated that he never hated Bond, he merely wanted to pursue other roles.Certainly,when Bondmania was at it's peak in the mid-1960's,his association with the 007 image was so intense that fine performances in his non-Bond films,such as Alfred Hitchcock's Marnie,and Sidney Lumet's The Hill, were being virtually ignored at the time. When asked if he'd ever escape the identification, he replied "It's with me till I go in the box." (coffin) At another point, he stated that he still cared about the future of the character and franchise, having been associated with the icon for too long not to care, and that all Bond films had their good points.

ダンディズム研究(1) 「ショーン・コネリー卿」(1/4)

2006-01-13 10:25:11 | 研究:「ダンディズム」
(画像:Sean Connery Home Pageより)

たいへんお待たせしました。
世界のダンディーたち。本日、初投稿!

まずは「ショーンコネリー卿」を挙げなければなるまい。
ショーンコネリー卿に関する記事は、3~4回に及んで取り上げたい。
彼に関連する記事は、すでに数回取り上げているが、本日は「ダンディズム研究」の研究対象として初めての記事となる。
ショーンコネリー卿の人物描写、何故にダンディーか?これらの蘊蓄(うんちく)を書けば限がなく、とりあえず本日は、既成のプロファイルを引用するのみで終わりたい。

一言だけ、付け加えたい。
往年のヒット作「007ジェームスボンド」シリーズ以降、映画俳優としてのショーンコネリーは大きく変化する。年齢と共に『男の渋さ』を活かし役柄を演じている数少ない有能な俳優。と、観る。先に紹介した「風とライオン」はもちろんのこと、下記に紹介する「レッドオクトーバーを追え」に於けるロシア原子力潜水艦ラミウス艦長役はショーンコネリーの適役であり、カリスマ的な高級軍人を演ずれば彼の右に出る人物はいなく、見事にロシア海軍軍人を演じている。
レッド・オクトーバーを追え!

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そして言わずもがな、この映画の原作が良い。
当時現役、日々のビジネスに勤しむ傍ら足掛け3年かけて原作を読破したが、この原作はおもしろい。
映画では描ききれていないこの物語(事件)の背景。さらにラミウス艦長を始めとるすソ連海軍将校&高級士官&乗組員ならびに米国海軍将校&士官、CIA諜報部員及び米ソ首脳陣「心理面」と「人物背景」などなど、映画では描ききれない人間の内面描写は、トム・クランシーの「小説」の中の活字により、見事に描かれている。

The Hunt for Red October

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「映画」という画像表現に対し、あらためて「小説」のもつ文字表現力は、その文字を読む読者の「想像力」を画像と比較し、いっそう掻き立てられるものがある。あらためて小説の底力と深遠さを、再認識させられる。
さて、原作を読むにあたっての参考事項、、、。
筆者トム・クランシーの書き連ねる英語は、決して美文ではない。しかし安易で平坦、即ち、けっして難解な英語ではない。(変に修飾していないから読みやすい・・・)
問題は、小説のあらゆるところに軍事用語が出て来る。これがトム・クランシー流であり、最初はとっつきにくいと思われるかもしれない。読み進めていくうちに、慣れる。軍事用語イコール経営学用語であり、現役のビジネスマンにとっては平素使い慣れた単語が続発するから、面白い。いわば、経営学即ちビジネス世界は、戦争世界の用語と同じ用語を使っているのである。したがって経営学専門用語は、全て軍事用語と共通する事が明らかとなる。現役ビジネスマンはもちろんのこと、同経営学専攻の現役学生、ビジネス経営をかじっている人間にとって、即、役に立つ用語がちりばめられている。(等々という読み方もできる)
原作は、すでに出版されて20数年の歳月を経ており、いささか時代めいてきたが、トム・クランシーの表現力と含蓄あるストーリーは、今でも活き活きと光り輝いている。数あるトム・クランシー作品のなかでも、心理描写がふんだんにちりばめられているという点では、小説としての芸術性は高く、他のトムクランシー作品よりもより、秀でたもの思う。
そして、軍事小説としては、すでに古典になりつつある。

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『プロファイル』(引用資料:Yahooムービー)はこちらから・・・

本名はThomas Sean Connery。中学から働きに出て卒業後はトラック運転手に。18歳で海軍に入隊。病気のため除隊してから新聞社など職を転々としていたが、友人の勧めで『南太平洋』の舞台に立ったのをきっかけに本格的に俳優を志し、“No Road Back”で映画デビュー。が、その後もあまり陽のあたることは無かった。そんな折、57年の「虎の行動」出演をきっかけに「007/ドクター・ノオ」でボンド役を得てから人気上昇。以後、ボンド役を引退してからも数々の映画に出演。87年、「アンタッチャブル」でアカデミー助演男優賞を獲得。最近ではセクシーというより渋みある初老男性を魅力的に演じている。最初の妻、女優ダイアン・シレントとは73年に離婚(二人の間に生まれたジェイソンは俳優になった)。その翌年、画家のシシェリン・ルクブルンと再婚している。99年、ナイトの称号も得た。

生年月日 1930年8月25日
出身地 イギリス/スコットランド州エジンバラ

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Sean Connery
From Wikipedia, the free encyclopedia.

Sean Connery as James Bond 007 in Goldfinger.Sir Thomas Sean Connery (born 25 August 1930) is an Oscar winning Scottish actor who has starred in many films and is best known as the original cinematic James Bond. His birth name was Thomas Connery. The name "Sean" was added later as a stage name.

Connery is known for his trademark Scottish accent and his good looks, repeatedly mentioned as one of the most attractive men alive by magazines even after he was considerably older than more conventional sex symbols. Some consider him more handsome now than when he was younger.

“CONTENTS”
1 Personal life
2 James Bond
3 Post-James Bond career
4 Filmography
5 Trivia
6 External links


1. “PERSONAL LIFE”
Connery was born in Fountainbridge in Edinburgh, Scotland, to a Christian mixed-denomination couple. His father, Joseph Connery, was a Catholic of Irish descent with roots in County Wexford, Ireland and his mother, Euphamia "Effie" Maclean, was Protestant. Neither Tommy (Sean) nor his brother, Neil, were raised Catholic. He claims that he was called by his middle name of Sean long before he became an actor, explaining that he had an Irish friend named Seamus and those who knew them decided to call him by his middle name, which started with an "S", whenever he was with Seamus, and it stuck. He joined the Royal Navy after leaving school, and after being discharged on medical grounds went on to a succession of jobs, including truck driver, labourer and lifeguard. He competed for Scotland in the Mr. Universe competition in 1950, which led to work on the stage, TV, and eventually film. As a weight lifter, his nickname was "Big Tam".

He has long advocated Scottish independence, and has supported the Scottish National Party, a political party campaigning for Scottish self-government, financially and through personal appearances. This support is illustrated by a comment from his official website:

"While it is generally accepted that his support of Scotland's independence and the Scottish National Party delayed his knighthood for many years, his commitment to Scotland has never wavered. Politics in the United Kingdom often has more intrigue than a James Bond plot. While Scotland is not yet independent, she does have a new parliament. Sir Sean campaigned hard for the yes vote during the Scottish Referendum that created the new Scottish Parliament. He believes firmly that the Scottish Parliament will grow in power and that Scotland will be independent within his lifetime."
Connery used part of the fees from his work as James Bond to establish a charity to support deprived children in Edinburgh as well as Scottish Film production. These charitable works may have earned him a Knighthood earlier, but it was revealed in 1997 that the award had been declined by the Labour government due to his support for the SNP.

Connery received the Légion d'honneur in 1991. He received Kennedy Center Honors from the United States in 1999, presented to him by President Bill Clinton. He received a knighthood on July 5, 2000, wearing a hunting tartan kilt of the MacLean of Duart clan. Sean Connery received the Orden de Manuel Amador Guerrero from Mireya Moscoso, former president of Panama on 11 March 2003, for his talent and versatility as an actor.

He was married to Australian-born actress Diane Cilento from 1962 until 1973 (he was her second husband). Since 1975, he has been married to French-Moroccan artist Micheline Roquebrune Connery. With Cilento he had a son, Jason Connery, who also became an actor, and was educated at Millfield School in Somerset, England.

In September 2004, media reports indicated that Connery intended to retire after he pulled out of Josiah's Canon, which is to be released in 2005. However, in a December 2004 interview with The Scotsman newspaper from his home in the Bahamas, the then-74 year-old actor denied he was retiring and said he would like to make another movie, but that he is taking a break from acting in order to concentrate on writing his autobiography, but now the book will no longer be written. Just weeks before his 75th birthday, over the weekend of July 30th/31st 2005, it was widely reported in the broadcast media, and again in The Scotsman which credited the source as an interview in an unspecified New Zealand newspaper, that he had decided to retire from film making following disillusionment with the "idiots now in Hollywood" and the turmoil making and box office failure of the 2003 film The League of Extraordinary Gentlemen.

As a personality he has been accused of being an overbearing bully but has also been praised as a highly professional and polite actor courteous and supportive of those around him. He made a big impression on actors such as Harrison Ford, Kevin Costner, and Christopher Lambert, who considered him a great friend during filming.



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エルヴィス・プレスリー「監獄ロック」に寄せて・・・

2006-01-11 10:05:58 | 音楽鑑賞蘊蓄録
<写真資料:Wikipediaより>

 なな、なんと!
おもしろい写真資料、ウイキペディアで見つけてきた。

な、何と、往時のアメリカ合衆国大統領・ニクソン君と、「差し」で撮影された珍しい映像なのである。これ、かの、Wikipedia百科事典から引用したすばらしいショット!
ま~ よくもまあ~ ここまでやってくれるぜ・・・
米合衆国大統領と差しで撮影されたプレスリーのポーズは、ポケットに手を突っ込んでいる。あるいは左手を着流しの上着(舞台衣装)の下で隠れているものの、腰に手をやっているか?ま、せいぜいそんなものだろう。

「若し、日本国首相小泉君と公式会見して、プレス(記者)が来て、そして、こんなの、ありか?」
「・・・」
「そう、着流しなのだ!着流しでニクソンが会ってくれるならば、日本人の中で心当たりがあるぞ」
「若し、かの車寅次郎先生なら、なんとする!」
「・・・!」
「あ、そう・・・ 最初っから、端から、ニクソン君が会わないか・・・」
「・・・!」
「それもそうだ・・・」

ま~何というか、ふてぶてしいというか、モノを知らないというか、無粋というか、田舎モノというか、寝ぼけている!というか、ダサいというか、、、。これで通用するのがアメリカなのか?それともプレスリーだけ、か、、、。自戒しなければならぬ。勘違いしてはいかん!
ま~、何をか言わんや、何もいえない・・・
今尚、言葉を失ったまま、ポカ~ンと、あいた口が塞がらないのである。
ま、こんな画像を引っ張ってこれるウイキペディア百科事典様には、足を向けて寝れないのだ。(引用、転載、問題ないとの事らしい。問題あらば、、また先方から何か云って来るであろう・・・)
まあ、こうしてああして、結局、何から話していいか?うれしくて一人で興奮して、何から書いて良いやらさっぱり分からない支離滅裂状態なり。

要は、
1月9日、BS2(午後8時から)放映された「エルビスプレスリー」の映画、『監獄ロック』を、我輩、生まれて初めて観た。
監獄ロック

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 音楽評論家(軽音楽評論家)の大御所?かの有名な湯川れいこ先生(失礼!名前の漢字?わからなくなった)がお出ましになり、なにやら4~5回連続でエルビスの映画を放映するとの事。
昨日は(1月10日)は、今まで全く観ていなかった「ヴィヴァ・ラスベガス」を放映した。十分にレトロっぽさを堪能!古き時代のラスベガスと近郊及びフーヴァーダム観光も兼ね、ほんとうに楽しめた。今週は続けてエルヴィス映画をやるらしい。
ラスベガス万才

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「ヴィヴァ・ラスベガス」の中、エルヴィス兄ちゃんは「アマチュアレーサー」という役柄で出演するから、当然最期の見せ場で「ラスヴェガスGP」と称するカーレースの場面がある。これがすばらしい。ネヴァダ州の砂漠からフーヴァーダムまでの山間部を回り再びラスヴェガスの中心地カジノ街に戻ってチェッカーフラグ。往年のGTカーがこぞって出演するから、クラシックカー・フアンにはたまらない。
女優陣はアンマーグレット姐御ただ一人!
何と、おみ足の綺麗な、そして歌も踊りも出来るオネエサマ。当時、映画月刊誌を定期購読していた我輩は、よく覚えている。しかし、この「Viva Las Vegas」のダンスシーンでは、彼女のヒップを後ろからアップで狙ったシーンが多用され、またそのシーンの長いこと長いこと、、、。おみ足(すねとひざ)の細さの割に(比率的に)しっかりした肉付きの「太もも」と、幅厚み共に「巨大なお尻」をお持ちの事、この歳になってようやく気が付いた。(手遅れだ!もっと若い頃に見ておけば楽しみが倍増していたであろう)ま、とにかく、この映画でここまでアンマーグレットのお尻にこだわったのか?我輩にとって今尚「謎」であり、永遠に解らないであろう・・・
 
話し戻って「監獄ロック」映画。
 プレスリーの初期ヒット曲、『監獄ロック』は、言わずもがな「超有名」!(もう知らない人が多いか?)当時は、ヒット曲が出ればまとめてLPレコードにし、有名歌手が出れば映画にしたものだ。
この映画の製作年度は、何と1957年度!(日本で上映された?のは、それから4~5年後のはず)
当時の我輩、年端もいかぬ幼少?の時代ではないか。
驚いた。白黒映画にて総天然色ではなく、何のへんてつもない音楽映画?であるが、プレスリーの若かりし頃の「勢い」と「泥臭さ」がくまなく表現されており、秀作であった。かの湯川れいこ女史曰く、数あるプレスリー映画の中でも、1or2位にランクされるシロモノとの事。
この映画を観て、我輩は思った。感じた。
やはり、プレスリーは歌が上手い。
その後の、きらびやかなプレスリー歌謡番組作品と違って、この映画のストーリーの肌合いは、いかにも地味である。派手さが無いのが良いのである。駆け出しの無名歌手が1950年代のアメリカで出世していく様が綺麗に描かれる。という純朴なストーリー性があり、筋書きがしっかりしていて、、、
くわえて、今まで聴いたこともないプレスリーの初期の歌が聴けた事、60年代、違う!もっとさかのぼって50年代後半の「レトロ的軽音楽映画」にくまなく触れる事ができ、大満足であった。
ロック歌手の原点?というカテゴリーであろうが、何と、ウィキペディア百科事典によると(以下英文参照)、プレスリーが歌手として頭角を現したことにより、アメリカンPOPミュージックなるもの、すなわち「ポップス」なるものが世に出現したとある。
その通りだと思う。

そして、この映画の中で(個人的に)特によかったのは超有名な曲(歌)『監獄ロック』だけではなく、今まで知らなかった聴いていなかった初期の「スロー・バラード」がすばらしいのである。この時期、まだ変に捻りを加えていない、エルヴィスの若き頃の純朴な高音域のヴォイス!これには驚いた。これ、何と澄み切っていることか!低音域から高音域までのオクターブの幅の広さ、ゆとりのある声量、やはりプレスリーは天才的に歌が上手い事、すでに分かってはいるものの、その事実をまざまざと見せ付けられた古きよき時代の「ハリウッド歌謡映画」である。

とにかくこの映画「監獄ロック」、エルヴィス映画の中でも「不朽の名作」といわねばなるまい。


<参考資料>
以下、Wikipediaより。かなり安易な英語で書かれているから、是非ご一読あれ・・・
もっと詳しい内容は、直接ウィキペディアにアクセスされたし。かなり詳細の『伝記』が書かれてる。

ELVIS PRESLY
From Wikipedia, the free encyclopedia.

Born: January 8, 1935
Tupelo, Mississippi, USA
Died: August 16, 1977
Memphis, Tennessee, USA
Occupation: Singer, song producer and actor

Elvis Aaron Presley (January 8, 1935? August 16, 1977), also known as "The King of Rock 'n' Roll", was an American singer, song producer and actor.

Rolling Stone magazine claimed "Elvis Presley is rock 'n' roll" and called his body of work "acres of perfect material." During an active recording career that spanned more than two decades, Presley set and broke many records for both concert attendance and sales. Some of those records have since been matched and/or broken by other artists, but some of his records will probably remain unbroken and/or unmatched forever. He has had more than 120 singles in the US top 40, across various musical genres, with over 20 reaching number one. Globally, Elvis has sold over one billion records to date [1].


“An American phenomenon”
According to Rolling Stone magazine "it was Elvis who made rock 'n' roll the international language of pop." A PBS documentary once described Presley as "an American music giant of the 20th century who singlehandedly changed the course of music and culture in the mid-1950s." His recordings, dance moves, attitude and clothing came to be seen as embodiments of rock and roll. Presley sang both hard driving rockabilly and rock and roll dance songs and ballads, laying a commercial foundation upon which other rock and roll musicians would build. African-American performers like Little Richard and Chuck Berry came to national prominence after Presley's acceptance among mass audiences of white teenagers. Singers like Jerry Lee Lewis, the Everly Brothers, Buddy Holly, Roy Orbison and others immediately followed in his wake, leading John Lennon to later observe, "Before Elvis, there was nothing."


Elvis Presley at the Mississippi-Alabama State Fair, 1956Teenagers came to Presley's concerts in unprecedented numbers. When he performed at the Mississippi-Alabama Fair in 1956 a hundred National Guardsmen surrounded the stage to control crowds of excited fans. When municipal politicians began denying permits for Presley appearances teens piled into cars and traveled elsewhere to see him perform. It seemed as if the more adults tried to stop it, the more teenagers across North America insisted on having what they wanted. When adult programmers announced they would not play Presley's music on their radio stations (some because God told them it was sexually suggestive Devil music, others saying it was Southern "nigger" music) the economic power of that generation became evident when they tuned in any radio station playing Elvis records. In an industry already shifting to all-music formats in reaction to television, profit-conscious radio station owners learned hard lessons when sponsors bought advertising time on new rock and roll stations reaching enormous markets at night with clear channel signals from AM broadcasts.

During the 1950s post-WWII economic boom in the United States, many parents were able to give their teenaged children much higher weekly allowances, signaling a shift in the buying power and purchasing habits of teens. During the 1940s Bobby Soxers had idolized Frank Sinatra but the buyers of his records were mostly between the ages of eighteen and twenty-two. Presley triggered a juggernaut of demand for his records by near-teens and early teens aged ten and up.

Presley's overwhelming appeal was to girls. Many boys adopted his look to attract them. Along with Elvis' ducktail haircut, the demand for black slacks and loose, open-necked shirts resulted in new lines of clothing for teenaged boys. In 1956 America, birthday and Christmas gifts were often music or even Elvis related. A girl might get a pink portable 45 rpm record player for her bedroom. Meanwhile American teenagers began buying newly available portable transistor radios [3] and listened to rock 'n' roll on them (helping to propel that fledgling industry from an estimated 100,000 units sold in 1955 to 5,000,000 units by the end of 1958). Teens were asserting more independence and Elvis Presley became a national symbol of their parents' consternation.

Presley's impact on the American youth consumer market was noted on the front page of The Wall Street Journal on December 31, 1956 when future Pulitzer Prize-winning business journalist Louis M. Kohlmeier wrote, "Elvis Presley today is a business," and reported on the singer's record and merchandise sales (this may have been the first time a journalist described an entertainer as a business). Half a century later, historian Ian Brailsford (University of Auckland, New Zealand) commented, "The phenomenal success of Elvis Presley in 1956 convinced many doubters of the financial opportunities existing in the youth market."

Elvis Presley's popularity and role in pop culture to this day can only be compared with the likes of The Beatles, Michael Jackson and Madonna.

Dinner Rush 「映画感想文」

2006-01-09 12:07:13 | 趣味の話&本と雑学メモ
 映画「ディナーラッシュ」を真面目に観た。

この映画、動かない動きが、実は動いていて面白い。つまり、同じレストランを定点観察し、レストラン以外からの観察は、皆無。

とにかくレストランというサービス業を背景にした良い映画なので、是非紹介しておきたい。

若手俳優「エドアルドヴァレリーニ」は、ニューヨークの新進気鋭の料理人の役柄を、見事にこなしている。父親の経営するイタリアンレストランのシェフ役で登場。けっこうイタリアンっぽいハンサム青年である。

この映画、一体全体誰が主役で誰が脇役かわからない。敢えて主役といえば、ニューヨークのど真ん中に存在するイタリアンレストランそのものである。

ディナーラッシュ ~スペシャル・エディション~

ハピネット・ピクチャーズ

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レストランの仕組み、キッチン(厨房)とホール(客席)その他倉庫やトイレに至るまで、レストラン内部の仕組みを描ききっており、レストランの仕組みそのものがこの映画の「舞台」。スピードも、音楽も、若手もヴェテランもひっくるめた俳優人の役割分担もしっかり構成されており、世代を超えた老若男女のあらゆるジャンルが楽しめる映画である。(若し、この映画を観て「面白くない!」というシニア諸氏がいたならば、それは老いた証拠である。と我輩は断言する・・・)
レストランという動かない「定点観察」で時間が推移する、一見味気なさそうなストーリーであるが、最終段階で一転二転。かなり奇想天外なシナリオ展開がなされており、レストラン従業員の人間関係はもちろんのこと、レストランの各種来客などの癖や下品さ上品さ、加えてレストランの楽しみ方、詳細な人間模様が描かれているからすばらしい。

1)厨房内部の動きが鮮やかに描かれている。
2)ゲストの注文にあわせた「料理と酒」がキッチンで出来上がりゲストホールで振舞われる様(さま)、画像を見ていて食したくなるくらい「リアル」なイタリアンディッシュが、洗練されたサービススタッフの配膳(サービス)にて我々「映画鑑賞者」の目の前を、みごとなリアルさで、動く。躍動する。
3)ホールスタッフの、来客への「あしらいと対応」が見事に表現されている。レストラン関係者には、多いに参考になる。
4)癖のある客を、そしてそんな顧客に対する対応を、上手く描ききっている。
5)レストラン従業員同士の恋愛描写が生々しく、よく在る出来事を面白く捕らえている。
6)中年男性であるレストランオーナーとその息子である厨房のシェフとの世代間の『ものの考え方』の違いを上手く表現し、その違いそのものがこの映画のストーリーを展開させているから面白い。
7)レストラン内部のWaiting-Barの機能を表現しているから、ウエイティングバーに不慣れな日本人には勉強になる。そのバーに勤務する優秀なバーテンダーの機知に富んだ顧客対応は(実際には不可能に近いであろうが)すばらしく、実務についているプロにも是非一見の価値あり。
8)レストランオーナーの仕掛けにより、同レストランの地下トイレで、町のヤクザが2人殺害される。が、物語はハッピーエンドである。ここら辺りのストーリー展開が実にスピーディーで面白い締めくくりなのである。

おおよそ2時間の映画は、同じ場所、即ち同じレストランの開店から閉店迄の時間帯を切り取り、ある夜の「レストラン内の出来事」のみで全ストーリーを表現しているのが新鮮である。同じホテル、同じ館、同じ場所でストーリーが展開していく手法は、過去の映画で幾度か観たことがある。しかしこの映画で使われた「表現の新鮮さ」と素晴らしさ、定点観察手法の素晴らしさを、あらためて実感した。

某国の「海外食べ歩き特集TV番組」等、下手な、センスのない、気合の入らない「特集」を数十本作ったって、この映画一本とは比べ物にならない。もちろん制作費も脚本も、センスもマネーも「レベル」が違うか、、、。

久しぶりに『胸のスカッ!』とする痛快な映画作品を観た。
求めていた、そして自分に必要な何かを?それに関わる感性に?、多いに影響を及ぼす「名作」である。と、受け取った。

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天満敦子さん「望郷のバラード」に寄せて(3/3)

2006-01-08 01:02:33 | 音楽鑑賞蘊蓄録

  今日は、かなりつらい!

 しかし、約束であるから書かねばならない。
それは、天満敦子さんの名演「望郷のバラード」の音楽鑑賞評論、いよいよ3回連載最終感想文である。

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 総論として、
すばらしいクラシック音楽CDを手に入れた。
多くを語る前に、一にも二にも、天満敦子さんの類い稀なる「感性」に大賛辞を贈りたい。
天満さんの感性とは、音を聞き取りつむぐだけの、単に音楽的感性に秀でていらっしゃるのみならず、その音楽の生まれた背景、すなわち歴史と風俗と習慣と天候と土地の香りの全て、包括的に理解可能なる感性をお持ちの芸術的領域(自然科学と区分けする意味での)に於ける「天賦の才能」の持ち主。加えて、人間と人生をより深く理解しようと執念を燃やし続け、今尚弛まないフィールドワークをなさる努力家でもある。と、観た。
その人間愛をもって演奏会に挑まれるからこそ、天満さんの「生演奏」すなわち演奏会に臨席した鑑賞者の感動たるや「涙」をもって答えねばならぬ状況に陥るのである。
バイオリンの弦から発せられた「音」は、鑑賞者の耳を通って「大脳」に響き、大脳は反応し、「音」から入ってきた刺激は、頭脳の中で反応を繰り返し、騒ぎ沈静し、あらゆる想像を駆り立てる。想像は人さまざま。しかし、たぶん「ある風景」が浮かぶ。ある《歴史》が浮かぶ。さらに、「音」を通して人間像が描き出される。人間が躍動し、語り、影響し合い、そこに一つの物語が生まれる。
かくして、
その音楽、その演奏を聴いている「人それぞれ」に、それぞれの感動が生まれる。

「・・・?」

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さて本日、第3回目の感想、本論に入る。
 今まで、避けて通ってきた「望郷のバラード」について、感想を述べなければならない。

本日までこの曲、すでに十数回も聴いた。

このCDの1曲目に収録された、8分32秒間の吉武雅子さんのピアノ伴奏付き。この伴奏ももちろんのこと、他の収録曲の逐一に於ける吉武さんのピアノ伴奏はすばらしい。

さらに、最終曲15番目に収録された9分59秒間の無伴奏。

どちらかというと、最終15曲目の無伴奏が、我輩の好みである。吉武さんのピアノがどうのこうの?を、言っているのではない。
より天満さんらしい「演奏」がなされているのであろうと、想定する。

しかし、
多いに問題がある。
なぜか、我輩の「聴く耳」をもってして、どうしてもこの曲の旋律やリズムが頭に入ってこないのである。
一回や二回聴いただけで曲の全てをインプット出来る才能なんて「我輩の聴力」には無いこと、音楽的才能のないこと、すでに何度も申し上げている。
しかし、気になる曲ならば、10数回も聴けば、必ずやその曲の中に含まれた数あるポイントは記憶できる。しかし、なぜかこの「望郷のバラード」は記憶できないのである。その理由は何か?なぜか?たびたび考えた。いくつかの理由があるなか、最大の理由は、我輩をもってして、どうしてもこの曲が好きになれないのである。
あまりにも暗い。しかし時に暗さも良い。理解できる。
余りにも悲しい。しかし悲しさも受け止められる。しっかり悲しみたい時もある。
でも、この曲の暗さも悲しさも、これ以上、いやすでに、この手法で、ここまで訴えるのは止してほしい。と、思うのである。
この曲の作者が、牢獄に繋がれていた『時』に作曲したもの。そうか。なるほど。しかし、如何なる絶望の淵に居ようとも、ここまでの恨み辛みをを述べればそれで良いのか?その先は無いのか?夢や希望は?真の望郷とは?この程度の表現で良いのか?まだくい足りないものを感じるのである。〆て作曲そのものに、楽譜そのものに、もっと芸術性が欲しいのである。
何かが、不足してる・・・
他の演奏家の同じ曲の演奏を聴いてみたい。と、一度書いた。しかし、その必要はないであろう。なぜなら、天満敦子さんをもって《この曲》の演奏家のとして、すでに「世界の第一人者」であると信じているからだ。
さて、
今の段階で突き詰めれば、
この曲そのものが、未だ出来損ないの「未完成品」であると考える。
まず、
鑑賞者の勘違いがある。天満さんを取り囲む「評論家」の演出がある。
この曲が「発掘」された背景とは、大使館員を巻き込んだ東欧の香り漂うエキゾティック且つメランコリックな「発掘物語」にふり回され過ぎ、この曲の存在と由縁が余りにも過大評価された「きらい」があるのではないか。
天満さんだからこそ、この凡作をここまで引き上げることが可能なのだろう。
ちなみに、
この同じCDの中に「ルーマニア民族舞踊:6曲」が収録されている。どの曲の演奏にも、天満敦子さんの類い稀なる感性をもって表現された「ルーマニア」の芳しき風土と人間の喜怒哀楽が漂ってくる。6曲いずれも演奏時間は1分前後、一分にも満たない小曲である。しかしこの「望郷のバラード」は、これらルーマニア民族舞曲のいずれの曲にも勝っていない。

締めくくりたい。
天満敦子さんを以って「望郷のバラード」を代表曲とする考えをお持ちの「鑑賞者」がいらっしゃるとすれば、それは大いなる考え違いというものだ。天満さんは、嘆き、怒り、悲しみ、あわせて限りになく「夢と希望と未来」を創造する。そんな躍動的で拡がりのある「人間世界」の感性を表現する才能をお持ちのヴァイオリニストでいらっしゃる。

<感想文:天満敦子さん「望郷のバラード」-(完)>

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PS:
評論とは、何と気楽なものか・・・
ものを創りだすエネルギ-と比較すれば、数千倍数万倍も「創作」の方が難しいこと、すでに承知!
云いたい放題、どうかお許し下さい・・・
あわせて、
ハンガリーしか知らない我輩、一度ルーマニアの地を踏んでみたい。共通性は多いにあると感じつつ、やはり現場を自分の感性と身体で確かめるフィールドワーク有ってこそ、より深く「かの地」の音楽芸術を確かめうるというもの・・・

黄昏をかんじつつ・・・・

2006-01-07 05:26:46 | つれずれ紀行

 まいったまいった、、、。

一昨日(1月5日)の夜半から、もろに丸一日半、毛布をかぶって寝たり起きたり・・・

元日はともかく、昨年末から、ぶっ続けで「もの書」に没頭し、5日の明け方2時半、ようやく一区切りついたので、それから睡眠。そして翌朝(同日)午前9時前、なんら問題なく正常に起床した。
このところ、やたら長い時間を掛けてパソコンに向かう毎日、あまり根を詰めても良くないと考え、めっぽう冷え込む中、昼前から久しぶりに街中に出かけた。図書館で4時間近く過ごし、気がつけば時計は4時30分を回っている。それから約1時間半かけて帰宅した。なぜなら、バスの出発時刻を間違って、約40分間ほど次のバスを待ち、ようやくバスに乗った。その時点で、すでに気分朦朧となるほどに体全体が冷え込んだ。バスに乗って直ぐ、左手の小指の指先の色が変わるくらい血流が悪くなっているのに気付いた。我ながら、びっくりした。いままでに経験したことのない寒さによる疲れ具合であった。帰宅と同時に直ぐに入浴。夕食もとらずにそのまま床に就いた。直ぐに眠れなかった。痛みはさほどないが鈍痛を感じ始め、とにかく夜中に胃腸がやられた。思いのほか体が冷え、腹が冷えたのであろう。
 よほどのことがない限り、風邪を引いたり胃腸をやられる軟弱さは感じなかった普通の身体。それを健康体というのか、あらためて健康管理の大切さを感じつつ、最近はなぜか、少しずつ免疫力や抵抗力がなくなっているのではないか。と、痛烈に感じる。
 肉体的に無理の出来ない「年齢」になったと、あらためて思い知らされた一両日であった。

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