Breathe & Stretch 〜マインドフルネストレーナーのメモ帳〜

縁あって辿りついたマインドフルネストレーナーの仕事。悩みは色々あれど、喜びや楽しみが増えていきますように。

金森俊朗先生の授業2014

2014-07-03 09:22:26 | ちょっと感動
2012年に引き続いて今年も参加してまいりました。
NHKBSでマイケル・サンデルの白熱教室「これからの学校の話をしよう」を見ていて、金森先生が出ていたので、もしかしても今年も公開講座あるかなと思って調べたところ、ありました!

石川県にある北陸学院大学の公開講座「金森俊朗の授業論と模擬授業」



成人教育の領域にいる私が、初等教育から何を学ぼうとしているのか、考えて2年半になります。

そのきっかけは過日ここに記しております→コチラ
そして2012年の授業から考えたことはここに記しております→コチラ

今回考えたことは、なぜこうも授業の中で感情表現を鍛錬するのかということ。
それが情操教育に不可欠と言えば鵜呑みにすることもできるけど、

やっぱり思ったのは、先生も何度か口にされていた
心の鍵は内側からしか開けられない」ということ。

大人になって、「私のことを誰もわかってくれない」なんて言っている時って
自分自身も自分のことを話していないし、わかってほしい気持ちなど言えてるはずもない。
何らかの非言語メッセージを意図的に発信していてもそれは相手に何らかの期待をしている他者依存的なコミュニケーションになっていると思うのです。
どちらかというとそういうメッセージを、相手の立場に立って、相手の心情を理解して、相手に共感して、汲み取りましょうというのが日本の文化。
接客の仕事をしていれば、そんなことの繰り返しだと思うのです。

でも、これを自分で言えたらもっと人との関係をアサーティブにできるし、問題解決の質やスピードだって変えることができるだろうにと思うのです。

アクションラーニングのような対話の場を作っていると、問題解決の拍車が一気にかかる時があります。

それは、問題を抱えた人が「感情そのもの」を語る時です。
周囲のメンバーの共感のボルテージは一気にあがり、問題の当事者としての支援のモードへと容易に切り替わります。

しかし、

われわれ大人は問題解決を見えている現象を中心に考え、その他の原因を頭脳で考えようとするけど、相手の感情を聴くことになかなか目が向かないし、
聞くことそのものに「はばかり」があるのかもしれません。

そして、残念なことに、幼い頃は遠慮なく出せていた感情も、大人社会を生きて行くためには制限をかけなければならないと思い込んで、封印したり嘘をついたりして、
結局うやむやになってしまったり、自分自身がわからなくなったりということがないでしょうか。

金森先生の授業の中で、先生は感情を表す言葉をどんどん引き出していきます。
言葉が尽きるまで、粘り強く。

実際に子供が言葉にする、そして誰かの心の言葉が、自分の言葉になっていく。
教材をもとにしたプロセスの中で、自分のことをわかってもらって、自分もわかろうとする「心の声」を扱いながら、実際の学校生活でもそういう関係にもなっていく。

そんな風に思えました。

じゃ、大人になった今、こんなトレーニングを受けてこなかった大人や、あるいはそういう経験をしながらも、いつしか大人社会で染み付いた垢の下の心の声をどう扱ったらいいのか?

正直、私もそうだったように、思考、感情、身体が日々の問題解決に追われて分離しかねない多忙な日々の中で、自分の感情にさえ気づかなくなってしまう危うさや、

他人の顔色を気にするがあまり、あるがままの感情を偽りの感情が覆い隠し、誤った感情で自他への対処をしようとすること、

悲しいはずなのに、誰かの教えにしたがって、強制的に認知を変え、感謝とかポジティブ感情を生み出すことで満足してしまうこと、

そんなことは私の身の回りではごく普通に起きていたりします。

それで上手くいっている人はいいけど、決してうまくいっていない時は、

行動を止め、思考を沈め、今ここの自分の感情にフォーカシングしながら、あるがままの感情が立ち上がってくることを待つ時間を持つってこともできるはず。

自分自身がなかなかできなかったことであり、やってみて変容が継続的に起きていることもあり、

そういうことが可能になるような場を自分自身で持つことや、
あるいは何かしらの内省支援者が、安心して心の鍵を外せるように場をつくったり、ほどよい関係をつくる(境界線を超えて介入しすぎない)こと

こんなことに私は関わって行きたいんだなと改めて思いました。

そんな時に、同業の先輩の方が、ヘルマン・ヘッセの「幸福論」から下記を紹介してくださいました。

物語るということは、聞き手を前提とし、
語り手から勇気を要求する。
語り手にその勇気が出るのは、語り手と聞き手が共通の
場所や社会や風俗や言語や考え方に囲まれている場合に
限るのである。

感情だけに限ったことではないけれど、私の場合はホントに不都合な事実はそう簡単には開示できませんでした。

でも、1人でなんて生きてこれなかった。
誰かに聞いてもらって、共感してもらって、本当の原因に向き合ったり、中途半端に描けている解決策を明確にし、そして着手する勇気を持つこと、

こんなことが、地域や会社組織の中でごく当たり前にできるようになってほしいし、
それが自分の仕事の動機なんだなと思っています。

感情を問題解決(思考・行動)と切り離してはいけない。
自戒を込めて書き残しておきます。

その他には、教材の選び方について。
授業で使用された教材と比較された実際に教科書で扱われている教材のなんとも薄い感じに驚きました。
何を、何のためになのかが曖昧だし、表面的すぎて深く掘りさがらないことろや文学表現として子供の能力の強化につながらないことなどが一目瞭然でした。

子供の発育発達の段階に応じて、強化すべき能力や関係性が実際に教科書を通して学べるように教材選定ができていること、これ大事だよなぁ。
さらに言えば、文学を味わう力と人と共に生きる力の同時開発、こういうことを金森先生の授業中では叶えているのでしょう(国語に限らず)。
今の先生方は、業務に追われ、なかなか授業や指導の質を深める時間を持つことがままならないことがお気の毒でした。

そして

いかに「ゴンギツネ」と「スイミー」が優れた文学であり教材だったかがよみがえってきました。

久しぶりに読んでみようかなと思いました。

ごんぎつね (日本の童話名作選)
クリエーター情報なし
偕成社


スイミー―ちいさなかしこいさかなのはなし
クリエーター情報なし
好学社


あと小学校1年生の時の担任の先生や、大学の同じ学科の先輩が、北陸学院大学で教鞭をとっていらっしゃることもちょっとドッキリ体験でした。

成人の学習は、経験が中心となり、学習と学習棄却を継続的に起こしていくことであることがポイントです。
教材や意図そこは違いますが、学習が仕事経験の中で効果的におきるようにしていくことは、

まだまだ工夫できるな・・・

領域は違っても、こうして振り返りがおき、学びの概念化は可能になります。
そして、質の高いものから経験を通して徹底して学ばなければならない。

次の私の成長にはこういう場が必要なんだと思います。

来年も楽しみにしています。
今年もありがとうございました。
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