今日は身内のお葬式がありました。。
いつもこの日記を読んでくれている、
いとこのAちゃんの旦那さん、M人君のお父さんが亡くなられたのです。
お父さんが年明けからご病気で入院されてから、
M人君は仕事が終わると病院にかけつけていたそうで
それから亡くなられるまで、家族の献身的な看病がなされてきたことでしょう。。
棺に納められたそのお顔は、病の苦しみが殆ど感じられない程
清らかに見え、その表情は家族に見守られ、愛情に満ちた看病で
黄泉の世界へ旅立たれた証のようにも感じられました。。
年明けから身内の不幸が重なり、沢山の葬儀、弔問の場をみてきましたが
勝手な私の解釈で申し訳ないですが、、
誰かに看取られて亡くなる・・ということは
「幸せ」なことではないかと思うのです。。
世の中には、人知れず亡くなり、誰にも悲しんでもらえずに
無縁仏に葬られるご遺体が沢山ある・・と
つい最近読んだ「おくりびとが流した涙」(植村聡 著:ぶんか社文庫)
の中にもありました。。
沢山の人に囲まれて盛大にあげる式も
家族だけで行う密葬にしても
誰かが悲しみ、そして最期を見送ることにかわりはなく
“故人が安心して黄泉へ旅立てる儀式”こそが
“葬儀”なのだと。。
そして、なによりも、
普段顔をあわせることがめったにない身内がそこで再会・・、
そして故人を偲んで共に涙を流し、
改めて“血縁”というものの尊さ、有難味を実感し・・
それは、私の目には、故人からのメッセージ・・、
“どうか、身内同士が手を取り合って仲良くしてください・・”
という“遺言”なのではないかと。。
おくる側とおくられる側・・
思いはそれぞれあるでしょうが
故人を思う心と、故人からのメッセージは
きっとお互いの魂に響いているにちがいありません。。
映画「おくりびと」の中で
「死」は人生の通過点で、そこを通る「門」・・というセリフがありました。
「死」はなくなるのではなく、生まれ変わるための通過地点・・
「門」はそのための入り口なのだと。。
だから、映画の中で斎場の役人が故人を見送る時に
「また会おうの(な)・・」と声をかけるのだと、
亡き母の最期(火葬)を見とどけたいという息子に話す場面がありました。
そのことを出棺の時に思い出し、
M人君のお父さんもその「門」をくぐり
新しく生まれ変わった人生を迎えられる・・、
そんな日もそう遠くない気がしました。。
M人君のお父さんのご冥福を心よりお祈り致します