先週末(連休前)の天気予報では、東日本は秋分の日の月曜日が大荒れ、のような事でしたが、
今朝、平日に起きる時間に目を覚ますと、明るいし、雨も降っていないようなので、平常通り多摩川へ散歩に出かけました。
過日、大雨の後、川と干潟のみちを歩いて、玉すだれ(Rain Lily)を見かけましたが、
本日も、台風が通り過ぎた後(雨が上がった後)に咲いているのを見かけました。
多摩川の土手(多摩川大橋から上流、川崎側)ですが、
しばらく前に雑草が刈り取られており、雨上がりは特に、ミミズなどの餌が地中に出てくるのを捕食しやすいのでしょう、ハトなどがせっせと食事に勤しんでいるところ、
土筆のようにニョキニョキ生えているのは、
彼岸花。
ところどころ、咲いているのもありますが、ほとんどがギリギリ蕾です。
それにしても、枯れ草を押し上げる勢いの良さです(驚)
モグラ塚もあるとは思うのですが、もっこりしていると、蕾が顔を出していたります。
しかし、不思議というか、感心するのは、
雑草が刈られたのは、一週間ほど前で、そのタイミングで、彼岸花が生えていれば、一緒に刈られているはずですが、
雑草が刈られた後に、悠々と伸びているところです。(切られても、ワケギのように伸びるのだろうか?)
季節(気温や地温)を感じてなのか、(邪魔な夏草が枯れるか、刈られるかして)日光が当たるようになって伸びる性質なのか、お彼岸という暦がDNAに刻まれているのか(笑)、彼岸花の生命力、自然の摂理には感嘆します。
ところで、土手を歩いている時は、全然気にならなかったのですが、
家に帰ってきたら、鉢植えのミントが折れるんじゃないかと思うほど、風が強くなっていました。
台風は温帯性低気圧に変わって、青空が広がっていたのですが、一日中強風でしたね。
プランター、鉢を風当たりの少ないポジションに移動はさせたのですが、
カブとベビーリーフの小さい芽がやられた(倒れた)、、、という感じ。
持ち直して(立ち直って)くれと願う。。。
さて、今日は秋分の日でした。
昼と夜の長さが一緒で、祝日であるという事は、うちの奥さんでも知っていますが、私もそれ以上のことは知りませんので、秋分の日にまつわる疑問を解消しようかな、と。
まず、そもそも秋分の日って何?ですが、
昼と夜の長さが一緒の日とは、太陽の動きを意識している訳ですよね。
でも、明治に入るまで、日本の暦は、太陰暦に基づく、様々な暦を使用していて、
(本能寺の変は、信長が朝廷から暦の策定権を奪おうとしたから、という説もあります)
閏月で調整(32、33ヶ月に一度、一月足す)するので、暦上の月日の季節が、毎年違って、農作物の栽培に適さないんですよね。
そこで、暦とは別に、二十四節気というものが取り入れられていたと。
二十四節気は、文字通り、太陽の動きを基に、一年を二十四等分して、季節の目安にしたもので、古代中国で作られたという事ですから、昔から、太陰暦では農耕に支障がある事は分かっていたんでしょうね。
まず、一年を夏至と冬至で二分し(二至)、
春分と秋分で四分(二分)、
立春、立夏、立秋、立冬で八分(四立)して、八節、
一節を三等分して、二十四節気、
更に三等分すれば、七十四候となると。
その秋分が、秋分の日ってことかな?
ちょっと脱線しますが、昔は何故、季節感のない太陰暦が暦のスタンダードだったのでしょうか?
まず、暦というものは、七世紀に中国から入ってきましたが、
中国をはじめとして、朝鮮半島、アジア全域が太陰暦だったからそれに合わせたのいうのが一般的な見方のようですね。
日本も、中国、朝鮮半島、アジアの国々との外交、貿易上、暦を合わせる必要があったのでしょう。
と考えると、明治になって、欧米諸国との外交、貿易が主になってくると、太陽暦に合わせる必要があったというのは理屈が合います。
季節の指標にならないのに何故太陰暦かという見方は、あくまで農耕の観点、ドメスティックな問題で、それは二十四節気で対応できていたし、
季節感は抜きにしても、スケジュール管理においては太陰暦で統一さえされていれば問題はなく、
どの暦を採用するかは、誰と暦(日付)を合わせる必要があったのかと考えていいかもしれません。
ただ、太陰暦も月の動きを見るという点においては、実用的であったので、
潮の満ち引きに影響する月の動きは、沿岸漁業においては重要で、汐見表には太陰暦が用いられているようです。
最近、東洋医学をかじっている私的には、
太陽暦を西洋医学、太陰暦を東洋医学的に捉えて、
合理性以外に、何か哲学的なものが太陰暦に含まれるのではないかと期待して調べてみたのですが、
むしろ、太陰暦の方が、太陽が空を一周する黄道(実際は、地球が太陽の周りを一周していますが)の一年と整合させたり、
土地土地で異なる季節感に合わせるために、いろいろ観測し、改訂を繰り返したり、実は合理性を追求して、もがいていたのは太陰暦だったりしました。
他方、天動説と地動説、宗教と進化論は、多少、東洋医学の哲学と西洋医学の合理性の関係に近いような気もしたのですが、
前者は相反する考え方であることに対して、東洋医学と西洋医学は、相反するものではなく、アプローチの違いであり、現代では補完しあう関係なので、やはり違いますね。
そして、秋分の日と春分の日は、何故、国民の祝日で、
二十四節気では、その”二分”の前にある、夏至と冬至の”二至”が祝日ではないのは何故でしょう?
Wikiによれば、
「春分の日」は、1948年(昭和23年)に公布・施行された国民の祝日に関する法律(「祝日法」、昭和23年法律第178号)によって制定された。同法第2条では「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」ことを趣旨としている。
「秋分の日」は、1948年(昭和23年)に公布・施行された国民の祝日に関する法律(「祝日法」、昭和23年法律第178号)によって制定された。同法第2条では「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」ことを趣旨としている。
とあります。
そして、
「春分の日」は毎年3月20日から3月21日頃のいずれか1日間に定められる。祝日法上で「春分日」としており、日付を指定していない。
「秋分の日」は毎年9月23日頃の1日間に定められる。祝日法上で「秋分日」としており、日付を指定していない。
とあります。
厳密には、春分の日=春分、秋分の日=秋分ではなく、
春分だから、秋分だから、祝日にしたという訳でもなく、
祝日とする由来が別にあって、その祝日の名前に、同じタイミングの春分、秋分が使用されたとみるのが正しいように思えます。
祝日になったのは、近年ですが、その由来となっているのは、春季皇霊祭と秋季皇霊祭です。
これは、歴代の天皇・皇后の霊を祀る儀式のことで、皇室が彼岸の墓参りをするような宮中行事のようです。
(ちなみに”彼岸”というのは、雑節という日本古来の暦日のひとつで、お墓詣りは日本独特の文化)
(一般国民も、春彼岸と秋彼岸に御墓参りに行けるよう、祝日にしたのでしょうか)
新嘗祭(にいなめさい)が勤労感謝の日になったのと同様に、主な宮中行事を祝日にした事例ですね。
1948年(昭和23年)はまだGHQ占領下であったので、皇室から分離した趣旨と名称が必要だったのでしょうね。
では、夏至と冬至が祝日でないのは結局?
夏至と冬至を祝日にしなかったというより、その時期、祝日にすべきイベントも由来となるような宮中行事もなく、夏至と冬至を祝日の名前に冠する必要もないという事ですか。
なお、秋分の日、春分の日は、祝日となった由来は宮中行事ですし(まず春季皇霊祭と秋季皇霊祭ありき)、名称は天文学に由来しているのでハッピーマンデー制度は適用しにくいでしょうね。
あと、春分と秋分も、昼と夜の長さは一致せず、どちらも昼の方がちょっと長いようです。
なかなかいい勉強になりました。
ではでは
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