池上優游涵泳

「料理と散歩と仕事で海外」「ベトナム生活あらかると」改め、「池上優游涵泳」として日々を綴っています。

【じんけんカフェ】学びとはなにか 第1回

2019-11-02 16:34:57 | 地域情報

今日も秋晴れで気持ちの良い一日で、散歩も魔物退治も随分捗りました(苦)

洗足池の紅葉は始まったばかりと言う感じですが、気温の低い早朝、天気がいいとシンメトリックに水面に鮮明に映って綺麗です。

 

さて、先週、おおた区民大学、【じんけんカフェ】お肉はつくられる〜東京中央卸売食肉市場見学〜第2回の記事で、

「次週、第3回【と場見学事前学習②】お肉はつくられる〜お肉の情報館見学〜では、東京中央卸売市場食肉市場に行きます。」

と書きましたが、お肉の情報館見学は再来週(つまり、来週)で、

今週は、おおた区民大学の別のプログラム、【じんけんカフェ】学びとはなにか、の第1回でした。

【じんけんカフェ】学びとはなにかの趣旨は、

人が生きていく上で、「学ぶ」ことは、どういう意義を持つのか。映画鑑賞や夜間中学校の歴史から改めて「学習論」を考える。

として、全4回。

その第1回は、【公開講座】映画「かすかな光へ」

(全4回を通しで申し込んだ参加者に加えて、第1回と第3回は、映画鑑賞の公開講座だけの参加者が加わります)

内容は「学ぶことの意義を問い続けた教育研究者・大田堯(おおたたかし)さんの生き様を追ったドキュメンタリー映画を鑑賞し、この映画を撮影した森康行(もりやすゆき)監督にお話伺います。

生憎、大田堯さんの事は存じ上げていなかったのですが、日本を代表する教育学者とのこと。

映画を鑑賞し、映画監督のお話を聴き、会場で配布されたたくさんの新聞記事の切り抜きを、家に帰ってから読むと、その教育理論、哲学、生き方にはとても感銘を受けました。

映画および映画監督のお話で、私が感銘を受けたポイントを紹介したいと思います。

(映画および映画監督のお話のあらすじを記すものではないので、唐突感があるかと思いますが、ご容赦ください)

 

映画「かすかな光へ」において

  • 戦前の教育は画一的で、国家に都合の良い人間を作るため、国定教科書に従って、権威のあるものが上から教え諭すものであった。
  • 家長教科書裁判において、教科書は国のためか国民のためかが争われ、公益のための検定は違憲とされた。
  • 学習は子供の権利であり、教育とは自己発見のための援助である。
  • 基本的人権とは、生まれながらにしてもつ権利と言われるが、生まれながらというのであれば、命というものを解きほぐすことで、その意味を理解できるのではないか。
  • 一人一人は”違う”。違いを大事にすることは、その子の尊厳を大事にすること。親は子供を私物と思い込む傾向がある。また、同化を求める欲求があるが、遺伝子が違うので、似ていても他人で、同じにはならない。同化を諦めることで、子供と大らかな人間関係が形成できる。
  • 一人一人が”自らを変える力を持っている”。芋虫がサナギになり、蝶になるが、誰かがそうさせてはいない。それが生き物の力。稲作でも、稲が生命力を持っていて、土や人はそれを助けるだけ。人間の都合でみるのではなく、稲の立場に立って、どうして欲しいのかを考えること。自分を変える力を助けるのが学習であり、その自ら変わる力と対話をして、周りから援助するのが教育
  • 人(生物)は、太陽、水、空気、そして食べ物がないと生きられない。生き物を食べなければならない連鎖の中に存在する、その”関わり合い”の中に命がある。そこが基本的人権を理解するヒント。可能性を信じて関わり合う、それは違いを受け入れ合うことでもある。教育は、新しい関わり合いを作り続け、変わる力に刺激を与えること
  • 川口太陽の会の紹介(障害者施設)。製品の品質が悪く、納期が遅いなどとして取引を解除され、絵画や織物などのアートで生計を立てるようになった。関わり合いとはコミュニケーションであるが、言葉をうまく交わせない人達は、アートという感性で人を交わる。日本中が感性に疎くなっているが、現実の無機的社会での「かすかな光」のように思え、一歩一歩すすめていく。

教育とは、親や教師が教え諭すものではなく、一人一人が持つ自らを変える力を支援するものというのは、知識を詰め込む教育で育った(あるは、自らそうして来た)私には、驚きでした。その子(人)が成長するために、必要なことは何か、その子の立場で考えて、その環境を整えるということが教育というのは、学校教育だけでなく、仕事や社会においても同じですし、植物の栽培やペットの飼育においても同じであると感じました。

 

続いて、撮影を通して、大田さんから聞いた話、その中で知った大田さんの人柄、哲学について、森監督のお話です。

  • 大田先生と話をしていると、難しい言葉がたくさん出て来て、人間が生きて来た歴史を感じて面食らったが、全部、事細かに教えてくれた。
  • 教育は映像にし難いと思ったが、実はそうではなかった。当初、教育現場を見て回ったが、教育学だけでなく、人間の命から教育や社会を考える大田さんを撮影した方が良いと判断した。
  • 大田さんの人生、教育哲学を推察するに、戦争体験が大きく影響している(映画の中に出てくる)。GHQの指導もあったが、終戦から朝鮮戦争までのわずかの間、文部省は機能しておらず、どんな授業をするかは教師の裁量であり、教科書は参考の扱いでよかったので、学校教育を変えていく運動に力を入れて行った。廃墟と飢えの中、それは曙の光に思え、その思いを持って、戦い続けて来たと仰っていた。
  • 人間一人一人が、自らを変える普遍的な力を持ち、自らを作り上げるアートである。それは教育や社会の本質と思った。
  • 学ぶことを通じてコミュニケーションが密になり、人間関係が構築される。コミュニケーションは文化を分かち合うこと。違うことから一致を見出す。人と人の出会いがコミュニケーション。
  • 映像を構築するのも同様。ドキュメンタリーにマニュアルはない。教育も同じだが、そっちの方がむしろ大変。
  • 大田さんがよく教育をアートとかドラマと表現したが、こんばんわ(第3回の公開講座で上映予定)の撮影で、教育とは感動的なものと思った。夜間中学の撮影で、60歳以上の老人が数学の問題が解けないのを、教師が根気よく教えていた。20分程経って別の生徒のところに向かった後も、その老人は問題に取り組んでいて、しばらくして頷きを1回した。続いて2回。そして大きく頷き、問題が解けてことが分かった。その時、本人が喜ぶだけでなく、傍観者である自分にとっても喜びであった。
  • 教育を描いた映画で感動したシーンが2つある。
  • アーサー・ペン監督がヘレン・ケラーを描いた「奇跡の人」。井戸水を手に取るシーンは、学びそのものと思っている。サリバン先生が、物には名前があることを辛抱強く教えて、反抗するヘレン・ケラーが水をぶちまけた時、井戸に引いていき、手を出させて「水」だと指文字で教える。ヘレン・ケラーは、水という存在を知り、物には名前があることを知り、そして世界が広がっていく。学ぶことで世界が広がり、世界が繋がっていく。
  • 学びは何につながるのかを描いた、山田洋次監督の「学校」。いのさん(田中邦衛)が亡くなって、いのさんは幸せだったのかを話し合うラストシーン。幸せとは何か、いろいろな意見が出るが、一人が、夜間中学でこんな風に勉強することで、幸せがわかるようになるんじゃないかな、と言って話し合いが終わる。
  • 大田さんが言う、幸せとは、その人らしさを発見すること、競争ではなく自分のペースで自分を花開かせること。一人一人がその有り様でそれをつかむことが学びの本質。

教育が感動的と言うのは、言われてみなければわからないことでしたが、スポーツを観ての感動と同じように思えましたね。大田さんが、教育をアートとかドラマと表現する理由が、監督の話からよくわかりました。

それと、映画のタイトルが「かすかな光へ」というのは、映画のエンディングの話でははっきりわからなかったのですが、「廃墟と飢えの中、それは曙の光に思えた・・・」くだりから来ていたのですね。監督が、先生は「戦って来た」と表現されたと言いましたが、その戦いの人生を描いた映画のタイトルとしてふさわしいものでしたね。

最後の、映画2本は私も観て鮮明に憶えています。「奇跡の人」での、サリバン先生がヘレン・ケラーの掌で、指文字にWATERと記した後、ヘレン・ケラーがサリバン先生の頬に手を当てたら、今度は、TEACHER って記すんですよね。。。感動的でした。

「学校」も感動的でしたね。西田敏行が先生で、何か最後のセリフは裕木奈江だったかな、、、萩原聖人ではなかったような。。。田中邦衛が定規を使って竹下景子にラブレター書くところも印象に残っているわ。。。

 

なお、森監督のお話の最後に、第3回で鑑賞する「こんばんわ」の続編ではないのでしょうけど、「こんばんわⅡ」の上映会とDVD販売の案内がありました。

申し込んだ当初は、生涯学習と言うテーマからも、【じんけんカフェ】と言う括りからも、ちょっと講座の内容の想像がつかなかったのですが、この第1回で非常にすっきりして、自分の中に落ちて、次回以降も楽しみになりました。

ではでは



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