人間の脳は、大脳が異様にでかい。生きていくのに必要な容量をはるかに越えています。どうみても進化論的におかしい。これは人間の脳だけが異常なのでしょうか?
養老孟司先生は「唯脳論」の中でこう言っています。
養老先生は刺激という入力を受けていない神経細胞は死んでいくという基本的な性質があるといいます。神経細胞という細胞は、他の細胞から刺激をもらうことによって生きている特殊な細胞だというのです。つまりは、刺激を送り込んでくれる受容器を持たない神経組織は、発達するわけがない、こういうことです。
別な箇所ではこんなふうにも言っています。
どうやら人間という動物は、進化の過程で厄介な代物を抱え込んでしまったのかもしれません。
考えてみれば、動物の中でも「夢想する」能力を獲得したのが人間のわけで、もしかするとその夢想によって脳の急拡大へ転じたのかもしれませんね。でも社会生活をするうえで、夢想ばかりしていたのでは不便だし、「あいつはぼんやりしてる」と言われかねません。
そこに現れたのが「道楽」なのではないかと、思うのですよ。夢想しないで済むように、人間は遊ぶことを考え出した。それで魚なんて網で捕まえればいいものを、わざわざ針と糸と竿で取ろうとする。
野菜や米を相手にこんな遊びはできないわけです。だから、お百姓さんも夕マヅメになると川に降りて竿を振っていた。野うさぎも捕まえた。道具も自分でこしらえた。そしたら手先が器用になった。
大脳新皮質という脳は、どっちみちいつも遊んでいる。ところが現代人は遊ぶことに対して罪悪感がある。一生懸命に努力していないと、「お前、なにしてんだ」と、言われてしまいます。
しかしながら人間というのは誰でも、いつも大脳新皮質のオモチャを求めているんじゃないかと思います。食べるより何より、遊ぶ・考えることを必要としている生き物なのではないかと。
だからいつも自分の行動に対して、「どうだったのか?」「うまくやれたのか?」「あの時こんなふうにすればもっと○○だったかもしれないのに」などと考えてしまいます。これが一番便利な方法です。逐一自分の行動をチェックしていれば「考えたい」という欲求はとりあえずいつでも簡単に満たされることになります。
だから「やるべき」ことが無くなると困惑します。「何もやることがない」のは耐え難いです。無理矢理「自分はこれをやらなくてはならない」ということにして、それで済ませることもできます。
実際には人間は合理的に判断して行動する生き物だとされています。損失や無駄を喜ぶような人がいるとすればクレージーです。ここが難しいところなのですね。脳はものすごく無駄な構造をしているのに、世間的には、努めて合理的に生きなければならないのですから。ちゃんとした「立派な」人は理由のある行動をします。
じっとしていることが耐えられない。それは何も考えず、何もしないでいると何か違和感を感じる、脳にそういった生理的な仕組みがあるのかもしれません。
また目を使う、動くものを目で追っていると、酸素と血糖は大量に消費されます。血液は視覚に関連した領域に集まることになりますね。だから動画を見ているとなぜか安心します。
人と会話をする、談笑する。そうすると考えたことにはなる。誰か話し相手がいると安心する。誰かから何か言われると「○○しなくちゃ!」と考える。そして、人間は、不安が解消される方向へアクションを起こす。だから「人を動かす」ことは相手の不安を煽ることであるし、仕事というものは次第次第に急ぐ必要がなくても早く済ますようになっていく。そうした連環が順調に続いているかぎりは当座の脅迫感から免れる。その脅迫感とは、大脳を働かせたいという生理です。
「考えたい」ということは大脳新皮質が活動したがっていることを示していると思います。「考えたい」「遊びたい」という欲望を押さえ付けるためには、大脳新皮質に送られる血液の量を減らしたり、興奮してアドレナリンを出すことが一番手っ取り早い(アルコールを摂取してもいいのですが、なかなかそうしょっちゅう摂取するわけにはいきませんから)。そのためには視床下部です。人体が緊急事態になったことを認識すると、主導権は大脳新皮質から視床下部に明け渡されます。いつも遊んでいる脳が引きずり下ろされ、いつも黙々と働いている脳が主役に躍り出ます。そしてこれは、べつに緊急事態でなくてもいいわけです。事実哺乳類は、折々その機能を使っています。例えば獲物を捕ったり、高いところから飛び降りたり、発情した時などです。
そうすると、視覚とか聴覚とかの外からの刺激を大袈裟に伝えるニューロンがあると、そうしたモードに入りやすくなり、すごく都合がいいことになりますね。脅迫感から逃れることがいとも簡単にできてしまう。これがオレキシンと関係があるんじゃないでしょうか…。
養老孟司先生は「唯脳論」の中でこう言っています。
それ(人間が意識を獲得したこと)が人間を生み、この地上にとことんまではびこらせたというのは、一つの答えかもしれない。しかし、それを目的として脳が大きくなったというのは、どう考えてもおかしい。ほとんどの人は、脳の増大とともに意識が明瞭になってきたことを疑わないであろう。
養老先生は刺激という入力を受けていない神経細胞は死んでいくという基本的な性質があるといいます。神経細胞という細胞は、他の細胞から刺激をもらうことによって生きている特殊な細胞だというのです。つまりは、刺激を送り込んでくれる受容器を持たない神経組織は、発達するわけがない、こういうことです。
さて、ヒトのように、進化の過程で急速に脳が大きくなる場合には、右の問題(注:神経は刺激を受けないと発達しないということ)が解決されなくてはならない。抹消、つまり知覚系でいえば、眼や耳や鼻、あるいは皮膚の面積が大きくなるなら、神経細胞はむろん増加してよい。支配域が増えるからである。しかし、ヒトの場合には、そういうことが起こったわけではない。とすれば、脳はある意味では、自前で大きくなったわけで、それが可能であるためには、そこになにかのトリックがなければならない。
別な箇所ではこんなふうにも言っています。
そういう余分の能力の発生が、進化の過程で1回だけ、かなりの規模で起こったらしい。それは人の脳が生じたときである。つまり、我々の脳は、九九の能力に象徴されるような、状況依存性を欠く無益な能力を、多数ためこむことになったのである。
どうやら人間という動物は、進化の過程で厄介な代物を抱え込んでしまったのかもしれません。
考えてみれば、動物の中でも「夢想する」能力を獲得したのが人間のわけで、もしかするとその夢想によって脳の急拡大へ転じたのかもしれませんね。でも社会生活をするうえで、夢想ばかりしていたのでは不便だし、「あいつはぼんやりしてる」と言われかねません。
そこに現れたのが「道楽」なのではないかと、思うのですよ。夢想しないで済むように、人間は遊ぶことを考え出した。それで魚なんて網で捕まえればいいものを、わざわざ針と糸と竿で取ろうとする。
野菜や米を相手にこんな遊びはできないわけです。だから、お百姓さんも夕マヅメになると川に降りて竿を振っていた。野うさぎも捕まえた。道具も自分でこしらえた。そしたら手先が器用になった。
大脳新皮質という脳は、どっちみちいつも遊んでいる。ところが現代人は遊ぶことに対して罪悪感がある。一生懸命に努力していないと、「お前、なにしてんだ」と、言われてしまいます。
しかしながら人間というのは誰でも、いつも大脳新皮質のオモチャを求めているんじゃないかと思います。食べるより何より、遊ぶ・考えることを必要としている生き物なのではないかと。
だからいつも自分の行動に対して、「どうだったのか?」「うまくやれたのか?」「あの時こんなふうにすればもっと○○だったかもしれないのに」などと考えてしまいます。これが一番便利な方法です。逐一自分の行動をチェックしていれば「考えたい」という欲求はとりあえずいつでも簡単に満たされることになります。
だから「やるべき」ことが無くなると困惑します。「何もやることがない」のは耐え難いです。無理矢理「自分はこれをやらなくてはならない」ということにして、それで済ませることもできます。
実際には人間は合理的に判断して行動する生き物だとされています。損失や無駄を喜ぶような人がいるとすればクレージーです。ここが難しいところなのですね。脳はものすごく無駄な構造をしているのに、世間的には、努めて合理的に生きなければならないのですから。ちゃんとした「立派な」人は理由のある行動をします。
じっとしていることが耐えられない。それは何も考えず、何もしないでいると何か違和感を感じる、脳にそういった生理的な仕組みがあるのかもしれません。
また目を使う、動くものを目で追っていると、酸素と血糖は大量に消費されます。血液は視覚に関連した領域に集まることになりますね。だから動画を見ているとなぜか安心します。
人と会話をする、談笑する。そうすると考えたことにはなる。誰か話し相手がいると安心する。誰かから何か言われると「○○しなくちゃ!」と考える。そして、人間は、不安が解消される方向へアクションを起こす。だから「人を動かす」ことは相手の不安を煽ることであるし、仕事というものは次第次第に急ぐ必要がなくても早く済ますようになっていく。そうした連環が順調に続いているかぎりは当座の脅迫感から免れる。その脅迫感とは、大脳を働かせたいという生理です。
「考えたい」ということは大脳新皮質が活動したがっていることを示していると思います。「考えたい」「遊びたい」という欲望を押さえ付けるためには、大脳新皮質に送られる血液の量を減らしたり、興奮してアドレナリンを出すことが一番手っ取り早い(アルコールを摂取してもいいのですが、なかなかそうしょっちゅう摂取するわけにはいきませんから)。そのためには視床下部です。人体が緊急事態になったことを認識すると、主導権は大脳新皮質から視床下部に明け渡されます。いつも遊んでいる脳が引きずり下ろされ、いつも黙々と働いている脳が主役に躍り出ます。そしてこれは、べつに緊急事態でなくてもいいわけです。事実哺乳類は、折々その機能を使っています。例えば獲物を捕ったり、高いところから飛び降りたり、発情した時などです。
そうすると、視覚とか聴覚とかの外からの刺激を大袈裟に伝えるニューロンがあると、そうしたモードに入りやすくなり、すごく都合がいいことになりますね。脅迫感から逃れることがいとも簡単にできてしまう。これがオレキシンと関係があるんじゃないでしょうか…。