一昨日の哺乳類の優劣に関連して。車同士でもこっちが優先道路を来てるのに、向こうが大きい車だと思わず反射的に譲ってしまうとか、信号機のない横断歩道でも、車が来てるとなんとなく横断するのをためらってしまう(これは「車は歩行者が横断するのを妨げてはならない」)という具合に、交通法規がなかなか守ってもらえないという現象があるわけですけど、これも動物的な本能のなせる技なのかなあと、思い出した次第です。
さて、例えばネコは、獲物を捕る前に身体を縮めて瞬発力を出そうとします。逃げる方のネズミも、身体を縮めて蓄えられていたエネルギーをフルに出して全力で逃げようとします。けれども身体を縮めるから力が出せるのではなくて、これらは自分自身の胴体を圧迫することによって自らストレスを作り出し、これをきっかけに代謝状態を変化させようという習性なのではないか、とは考えられないでしょうか。
田んぼに棲むどじょうは天敵のシラサギに捕えられると、代謝状態を変化させて暴れ、その力が充分出し切れた個体は、敵のくちばしから逃れ、子孫を残すことができます。
どじょうのような原始的な動物はこんなふうに逃げるときと生殖の時以外にはこのパワーを使うことができませんが、ある程度高等な動物になると獲物を捕まえるときにその非日常のパワーを使うことができますし、哺乳類ともなると、自分で上手にそのスイッチを入れることができます。
これはさまざまなことに応用されていると思います。ネズミを捕まえるネコのように瞬間的に力を出したり、高いところに飛び上がったり、飛び降りたり、大声を出したり、あるいは暗いところで天敵の気配を察知したり、集中力を高め、かすかな音や匂いをかぎ分けるといったことです。
確かにこういう能力の多寡は、繁殖期に配偶者を決める際に決め手となっていることも、偶然ではないのかもしれません。
また、スイッチを入れられると言っても、通常は自分の意志を直接、視床下部に作用することはできません。自由意志で自由自在に動かせると、ちょっとしたはずみで死んでしまうことになるからです。ですから何らかの形で間接的に働き掛けているわけです。例えば互いに眼を見合わせる、相手の目玉を見ることがそうですし、叫び声を出す、人間なら歌を歌ったり、太鼓を叩いたりすることがそうです。また、将来自分の身に降りかかるかもしれない事態を想像するといったことも含まれるでしょう。例えば、「誰かに怒られるんじゃないか」というのが、そうです。
自分でスイッチを入れられるというのは、すごく有用な反面、上手に使わないと困ったことも起きてしまいます。例えば、外から来る刺激を普段よりも強く知覚してしまうからです。そしてさらに、当然のことながら止める方法を知らなくてはなりません。というのはこういった睡眠―覚醒―興奮(攻撃/防衛)のモードの持続には、必ずループを利用しているからです。そうするとともすれば無限ループのように、体力が消耗してダウンしてしまうまで続くこともあり得るわけです。
視床下部は興奮のモードに入ると、自律神経を通して心拍数やグリコーゲンの代謝速度を上げ、それまでの好機的な代謝から嫌気的な代謝に切り替えます。そしてさらに血液を外的な活動に動員するわけです。
自律神経というのはよく耳にする割りに、意外とよく分からない神経だと思います。あらゆる臓器には自律神経が通じていますが、その半分が求心性線維なのだそうです。求心性というのは入力ですから、つまり臓器の何らかの状態をフィードバックしていることになります。臓器の場合、筋肉とは異なり常に活動していますから血流が滞りますとただちに熱が滞留しますが、もしかするとこれらの求心性線維はそうした温度の変化を捉えている、そういう可能性も考えられますよね。
自律神経はもちろん入力と出力の両方に関わっているわけですが、意図的に血液の流れを滞らせるようなことはできないわけです。ですが、もし、姿勢を意図的に変えて、臓器にとって不都合のある状態にすることができるといたしますと、それは間接的には、「意志」を用いて臓器に働き掛けることができるということになりますね。それが、場合によっては異常な臓器の熱として、痛みなどとは別なルートから入ってくる。
それが、もし、生命体にとっての「危機」として臓器を管理している管理センターに伝えられるとしたら、それも外的なストレスと同じように作用することになるのではないでしょうか。ネズミを捕まえるネコは、こんなふうにして自分のパワーを作り出しているのではないでしょうか。
ここで、息を止めるということを考えてみましょう。呼吸というのは、面白いことに自分の意志で長くすることも早くすることも、止めることもできるわけです。もちろん息をずっと止めていたら死んでしまいますから、「苦しい、息を吸わなくちゃ」という感覚が現れます。
活かしビクに入れた魚、例えばヤマメとかイワナでも、酸素が一定のレベルまで下がってくるとそれまで静かにしていたのが突然もがきだすという現象があります。これは揺すったり、外から刺激を加えたのではありません。渓流に行くといつも経験していますので、ほぼ100%の再現性があります。
このとき水を入れ替えてやらないと、ものの数分で中の魚が全部死んでしまいます。急に「ゴトゴト」と暴れだしたら、「新しい水を入れてくれよ」というサインなんです。活かしビクの魚は、酸素が少なくなることで「危険」を感じ、ともかく蓄えていた力を振り絞って逃れようする。
まあ、魚が苦しんでるのを見たところで愉快でも何でもないわけですけど、いつも魚という生き物の生命力にびっくりさせられると同時に、魚からいろんなことを教わっていると思いますね。
まあ、これは魚に限らず、当然どんな生き物でも首を絞められれば抵抗してもがくだろうとは思うのですが、酸素が減ってきて、それまでよりも深く呼吸をしたり、鰓を積極的に動かしても状況が改善されない場合、代謝を変化させて爆発的に力を出し、状況を打開しようとさせる原始的な機能がどのような動物にも備わっているんじゃないかと思いますね。
ポケットモンスターのピカチュウじゃないですけど、人間というのは、よく息を止めて(気張って)力を出そうとするわけです。この「気張る」というのは自分で危険な状態を作って、意図的に代謝を変化させようということなのではないでしょうか。
脳に送られてくる酸素が減り、肺(や鰓)を活発に動かしても増えないと、脳の管理センターは、「わけのわからん新しいストレスが来たな!」と勘違いし、「なんだなんだ?これは?」とcautiousな状態を作りだすでしょう。息を止める指令を出したのは大脳新皮質ですし、大脳新皮質は自分で息を止めたことを分かっています。このとき勘違いし、誤報に基づく指令を出しているのは、視床下部でしょう。視床下部は、自分で息を止めたんだということを知りません。自分で息を止めたのに、止められたと錯覚する。息を止めて力を出そうとすることはこのような「脳の混乱」を利用しているといえるかもしれません。ちょっと強引な言い方をすれば、「気張る」というのは攻撃のモードに移行するための儀式なんだと。
人間は、ものすごく複雑な社会生活をしなければいけません。当然楽にできることばかりではありませんし、競争もしなくちゃいけませんし、体調が悪くても無理して働かなくてはなりません。ですから、もしかすると知らず知らずのうちに、このような意図的なプチ危険状態を自分自身で作っている可能性もあると思います。
こういうプチ危険状態をみんなでやる、そうすると、逆に、正常な人に対して不快感を抱く、「あの人はなんとなく嫌いだ」ということも当然あり得ると思います、
一般世間では、みんなから褒められる、尊敬されるようなことは普通は「よいこと」と考えられています。けれどもこれは実際にはストレスになっているわけです。過剰に応援してプレッシャーをかけることもそうでしょう。また緊張して堅くなるという現象があるわけですけど、単に成功体験をしたいという強い願望だけでもストレスになっていると考えられます。強い願望を持っていても頑張ることができないユルユルな人は大丈夫ですが(笑)、本当にすごいことを成し遂げてしまう人はやっぱりあとで疲れが出るわけです。本人は「みんなが喜んでくれるから」と言っていても、それでもやはりストレスになっているわけです。そして、そういう「よい」ストレス、刺激がないと生きてゆけない。積極的にエンジョイしようというのではなく、何かハッピーなことはないかと探してしまう…。
癒しを求める時代というのは、実は社会全体がこういう状態にどっぷり浸かっているということを表しているのかもしれませんね。
注:一般的にはむしろ「喜びを断念させられた感覚、屈辱感、フラストレーション」をストレスと言ったりしますけど、ここでは別な意味で使っております。詳細は前々回、前回の記事を。
さて、例えばネコは、獲物を捕る前に身体を縮めて瞬発力を出そうとします。逃げる方のネズミも、身体を縮めて蓄えられていたエネルギーをフルに出して全力で逃げようとします。けれども身体を縮めるから力が出せるのではなくて、これらは自分自身の胴体を圧迫することによって自らストレスを作り出し、これをきっかけに代謝状態を変化させようという習性なのではないか、とは考えられないでしょうか。
田んぼに棲むどじょうは天敵のシラサギに捕えられると、代謝状態を変化させて暴れ、その力が充分出し切れた個体は、敵のくちばしから逃れ、子孫を残すことができます。
どじょうのような原始的な動物はこんなふうに逃げるときと生殖の時以外にはこのパワーを使うことができませんが、ある程度高等な動物になると獲物を捕まえるときにその非日常のパワーを使うことができますし、哺乳類ともなると、自分で上手にそのスイッチを入れることができます。
これはさまざまなことに応用されていると思います。ネズミを捕まえるネコのように瞬間的に力を出したり、高いところに飛び上がったり、飛び降りたり、大声を出したり、あるいは暗いところで天敵の気配を察知したり、集中力を高め、かすかな音や匂いをかぎ分けるといったことです。
確かにこういう能力の多寡は、繁殖期に配偶者を決める際に決め手となっていることも、偶然ではないのかもしれません。
また、スイッチを入れられると言っても、通常は自分の意志を直接、視床下部に作用することはできません。自由意志で自由自在に動かせると、ちょっとしたはずみで死んでしまうことになるからです。ですから何らかの形で間接的に働き掛けているわけです。例えば互いに眼を見合わせる、相手の目玉を見ることがそうですし、叫び声を出す、人間なら歌を歌ったり、太鼓を叩いたりすることがそうです。また、将来自分の身に降りかかるかもしれない事態を想像するといったことも含まれるでしょう。例えば、「誰かに怒られるんじゃないか」というのが、そうです。
自分でスイッチを入れられるというのは、すごく有用な反面、上手に使わないと困ったことも起きてしまいます。例えば、外から来る刺激を普段よりも強く知覚してしまうからです。そしてさらに、当然のことながら止める方法を知らなくてはなりません。というのはこういった睡眠―覚醒―興奮(攻撃/防衛)のモードの持続には、必ずループを利用しているからです。そうするとともすれば無限ループのように、体力が消耗してダウンしてしまうまで続くこともあり得るわけです。
視床下部は興奮のモードに入ると、自律神経を通して心拍数やグリコーゲンの代謝速度を上げ、それまでの好機的な代謝から嫌気的な代謝に切り替えます。そしてさらに血液を外的な活動に動員するわけです。
自律神経というのはよく耳にする割りに、意外とよく分からない神経だと思います。あらゆる臓器には自律神経が通じていますが、その半分が求心性線維なのだそうです。求心性というのは入力ですから、つまり臓器の何らかの状態をフィードバックしていることになります。臓器の場合、筋肉とは異なり常に活動していますから血流が滞りますとただちに熱が滞留しますが、もしかするとこれらの求心性線維はそうした温度の変化を捉えている、そういう可能性も考えられますよね。
自律神経はもちろん入力と出力の両方に関わっているわけですが、意図的に血液の流れを滞らせるようなことはできないわけです。ですが、もし、姿勢を意図的に変えて、臓器にとって不都合のある状態にすることができるといたしますと、それは間接的には、「意志」を用いて臓器に働き掛けることができるということになりますね。それが、場合によっては異常な臓器の熱として、痛みなどとは別なルートから入ってくる。
それが、もし、生命体にとっての「危機」として臓器を管理している管理センターに伝えられるとしたら、それも外的なストレスと同じように作用することになるのではないでしょうか。ネズミを捕まえるネコは、こんなふうにして自分のパワーを作り出しているのではないでしょうか。
ここで、息を止めるということを考えてみましょう。呼吸というのは、面白いことに自分の意志で長くすることも早くすることも、止めることもできるわけです。もちろん息をずっと止めていたら死んでしまいますから、「苦しい、息を吸わなくちゃ」という感覚が現れます。
活かしビクに入れた魚、例えばヤマメとかイワナでも、酸素が一定のレベルまで下がってくるとそれまで静かにしていたのが突然もがきだすという現象があります。これは揺すったり、外から刺激を加えたのではありません。渓流に行くといつも経験していますので、ほぼ100%の再現性があります。
このとき水を入れ替えてやらないと、ものの数分で中の魚が全部死んでしまいます。急に「ゴトゴト」と暴れだしたら、「新しい水を入れてくれよ」というサインなんです。活かしビクの魚は、酸素が少なくなることで「危険」を感じ、ともかく蓄えていた力を振り絞って逃れようする。
まあ、魚が苦しんでるのを見たところで愉快でも何でもないわけですけど、いつも魚という生き物の生命力にびっくりさせられると同時に、魚からいろんなことを教わっていると思いますね。
まあ、これは魚に限らず、当然どんな生き物でも首を絞められれば抵抗してもがくだろうとは思うのですが、酸素が減ってきて、それまでよりも深く呼吸をしたり、鰓を積極的に動かしても状況が改善されない場合、代謝を変化させて爆発的に力を出し、状況を打開しようとさせる原始的な機能がどのような動物にも備わっているんじゃないかと思いますね。
ポケットモンスターのピカチュウじゃないですけど、人間というのは、よく息を止めて(気張って)力を出そうとするわけです。この「気張る」というのは自分で危険な状態を作って、意図的に代謝を変化させようということなのではないでしょうか。
脳に送られてくる酸素が減り、肺(や鰓)を活発に動かしても増えないと、脳の管理センターは、「わけのわからん新しいストレスが来たな!」と勘違いし、「なんだなんだ?これは?」とcautiousな状態を作りだすでしょう。息を止める指令を出したのは大脳新皮質ですし、大脳新皮質は自分で息を止めたことを分かっています。このとき勘違いし、誤報に基づく指令を出しているのは、視床下部でしょう。視床下部は、自分で息を止めたんだということを知りません。自分で息を止めたのに、止められたと錯覚する。息を止めて力を出そうとすることはこのような「脳の混乱」を利用しているといえるかもしれません。ちょっと強引な言い方をすれば、「気張る」というのは攻撃のモードに移行するための儀式なんだと。
人間は、ものすごく複雑な社会生活をしなければいけません。当然楽にできることばかりではありませんし、競争もしなくちゃいけませんし、体調が悪くても無理して働かなくてはなりません。ですから、もしかすると知らず知らずのうちに、このような意図的なプチ危険状態を自分自身で作っている可能性もあると思います。
こういうプチ危険状態をみんなでやる、そうすると、逆に、正常な人に対して不快感を抱く、「あの人はなんとなく嫌いだ」ということも当然あり得ると思います、
一般世間では、みんなから褒められる、尊敬されるようなことは普通は「よいこと」と考えられています。けれどもこれは実際にはストレスになっているわけです。過剰に応援してプレッシャーをかけることもそうでしょう。また緊張して堅くなるという現象があるわけですけど、単に成功体験をしたいという強い願望だけでもストレスになっていると考えられます。強い願望を持っていても頑張ることができないユルユルな人は大丈夫ですが(笑)、本当にすごいことを成し遂げてしまう人はやっぱりあとで疲れが出るわけです。本人は「みんなが喜んでくれるから」と言っていても、それでもやはりストレスになっているわけです。そして、そういう「よい」ストレス、刺激がないと生きてゆけない。積極的にエンジョイしようというのではなく、何かハッピーなことはないかと探してしまう…。
癒しを求める時代というのは、実は社会全体がこういう状態にどっぷり浸かっているということを表しているのかもしれませんね。
注:一般的にはむしろ「喜びを断念させられた感覚、屈辱感、フラストレーション」をストレスと言ったりしますけど、ここでは別な意味で使っております。詳細は前々回、前回の記事を。