養老孟司先生は「唯脳論」の中で、人間が使っている言葉には「視覚系言語」と「聴覚系言語」があると言います。これはものすごく興味深い話しです。人間の頭の中に、2つの言葉が共存しているというのです。そしてそれらは、協同して働いているのではなく、まったく別々に動いていると言います(リチャード・ファインマンは数を数えながら喋ることができ、友人は数を数えながら本を読むことができた…)。
ということは、これらの言語は時には対立したり、争ったりすることもあるのではと考えたくなります。
「唯脳論」は「視覚系言語」と「聴覚系言語」を次のように説明しています。
「視覚系言語」と言うと、ようするに光ということになると思いますが、光の性質というのは真っ直ぐ進むことです。途中に塞ぐ物があるとその後ろには陰になる部分が出来ます。もし陰があるとすれば、そこには必ず遮蔽物があるということが言えます。携帯電話でも、建物の陰に入った途端に電波が弱くなることがあります。
どこを見渡しても、どこにも遮蔽物が見当たらないとすれば、陰になる部分ができるはずがありません。間に何もないのに、陰ができているとすれば、それはおかしな現象です。
光にとってみれば、「あらゆるものは可視である」ことは当然のことです。視覚系言語にもちょうど同じことが言えると思います。
ところが、私たちの聴覚言語は、「視覚言語よ、お前のまだ見ていないものがある」といいます。けれども視覚言語の真っ直ぐ進むという性質からして、もし見えないものがあるとすれば、見えないだけの理由がなくてはなりません。ところが「見えない理由はどこにもないのだから、あらゆるものが自分には見えているはずだ」と考えます。
そこで聴覚言語は、次のように答えます。「視覚言語よ、お前はどんなに遠くのものでも見ることができると言っていたな。信じられないかもしれないが、お前からは決して見ることができないものも存在しているのだ。お前が苦労してその陰になった部分に辿り着いた時、その時なぜあの位置からは見えなかったのかということも同時に分かるだろう。それはお前が見ることをやめ、おれが言うことを素直に信じるということがなかったなら、決して見ることができなかったものなのだ」。
魚を上手に下ろすことが出来る人は、どこに包丁を入れて、どのような角度で動かせばいいのかということを考えているわけではありません。包丁を動かしながら小骨の感触を手で感じているわけです。熟練した人にはもはや目というものはそれほど重要ではないわけです。それでプロの手さばきは、まるで手品か何かのように見えます。
一般には「あの人は頭がいい」というのは、視覚系言語に優れていること言うわけです。
ですが釣りの世界でも同じなのですが、製造の現場や技術の現場では、物を上手に作れる人がみんなから尊敬されます。このことが現場にいない人たちには理解できません。「あれぐらいの仕事は自分にも出来る。あいつはなんであの程度のことで偉そうにしているのか」と言います。職人の言うことは分かりにくいです。特に小僧の時はまったく分かりません。けれども、自分がその職人の域にまで達してみると、あの時職人の言っていたことが分かるわけです。こんなふうにして、現場での尊敬関係というものが自然とでき上がります。これはバイタリティや気合では決して越えられません。先輩を越えられないものが存在している。どうしても越えられないから尊敬する。ところが途中で投げ出してしまって別な部門に移ってしまった人は何がなんだかさっぱり分からないわけです。あいつらは変だ。なんでおれを尊敬してくれないのか、と。
これは営業という仕事の性格上やむを得ないと思います。視覚系言語で考えているから理解できないわけです。さらに、自分が理解できないという理由もわからない。これは、視覚系言語からいったん抜け出してみるしかないわけです。
それにはやっぱり、「釣り」でしょう。「たくさん釣る」ではなく、単に長く続けているだけで見えてくるものがあります。竿やリールを操作する、糸を結ぶ、擬餌針を動かして魚を誘う。これほど手の感触が頼りになる趣味もそうそうないでしょう。実際に掛かれば魚の動きを手を通して感じるわけですし、慣れてくると、毛針やサビキ仕掛けが上下する感触だけでも、例えようもないくらい楽しいのです。「釣り」はつくづく感触を楽しむ道楽なのだと思います。
感触が楽しいということは、視覚言語を一時的にOFFにできる可能性があるということになります。さきの「唯脳論」は、「触覚」も視覚と聴覚と同様言語を構成する可能性を持っていると言っていますので…。
ということは、これらの言語は時には対立したり、争ったりすることもあるのではと考えたくなります。
「唯脳論」は「視覚系言語」と「聴覚系言語」を次のように説明しています。
「形の神髄はリズムである」。そう言ったのは、私ではない。哲学者の中村雄次郎氏であり、亡くなられたが、解剖学者の三木成夫氏である。つまり、視覚対象の抽象化が行き着く果てまで、「形」を徹底的に考える。そこで、だしぬけに「リズムだ」と膝を叩く。悟りが開ける。ここのところがなんとも言えない。名人伝である。
なぜリズムか。
一つの考え方は、脳からすれば、これは一種のルール違反だというものである。リズムとは、私の考えでは、聴覚‐運動系の基本的な性質である。それを「形はリズムだ」と言うのだから、これは話が場外に出た。つまり、考え過ぎたので、大脳新皮質の中で話が発展し、その結果、視覚系の話が聴覚系に飛び出した。こちらの部屋で徹底的に考えたら、話がフスマを蹴破って、いつのまにか次の間に移ってしまった、ということである。
しかし、角度を変えて言うなら、これは極めて本質を得た回答ではないのか。つまり、形にもっとも欠けていたものこそ、リズムすなわち時間における繰り返しであって、ヒトの意識はまさにそれを「連合」した。その基本的な連合は、まず言語として現れる。つづいて、「形はリズム」になる。
「視覚系言語」と言うと、ようするに光ということになると思いますが、光の性質というのは真っ直ぐ進むことです。途中に塞ぐ物があるとその後ろには陰になる部分が出来ます。もし陰があるとすれば、そこには必ず遮蔽物があるということが言えます。携帯電話でも、建物の陰に入った途端に電波が弱くなることがあります。
どこを見渡しても、どこにも遮蔽物が見当たらないとすれば、陰になる部分ができるはずがありません。間に何もないのに、陰ができているとすれば、それはおかしな現象です。
光にとってみれば、「あらゆるものは可視である」ことは当然のことです。視覚系言語にもちょうど同じことが言えると思います。
ところが、私たちの聴覚言語は、「視覚言語よ、お前のまだ見ていないものがある」といいます。けれども視覚言語の真っ直ぐ進むという性質からして、もし見えないものがあるとすれば、見えないだけの理由がなくてはなりません。ところが「見えない理由はどこにもないのだから、あらゆるものが自分には見えているはずだ」と考えます。
そこで聴覚言語は、次のように答えます。「視覚言語よ、お前はどんなに遠くのものでも見ることができると言っていたな。信じられないかもしれないが、お前からは決して見ることができないものも存在しているのだ。お前が苦労してその陰になった部分に辿り着いた時、その時なぜあの位置からは見えなかったのかということも同時に分かるだろう。それはお前が見ることをやめ、おれが言うことを素直に信じるということがなかったなら、決して見ることができなかったものなのだ」。
魚を上手に下ろすことが出来る人は、どこに包丁を入れて、どのような角度で動かせばいいのかということを考えているわけではありません。包丁を動かしながら小骨の感触を手で感じているわけです。熟練した人にはもはや目というものはそれほど重要ではないわけです。それでプロの手さばきは、まるで手品か何かのように見えます。
一般には「あの人は頭がいい」というのは、視覚系言語に優れていること言うわけです。
ですが釣りの世界でも同じなのですが、製造の現場や技術の現場では、物を上手に作れる人がみんなから尊敬されます。このことが現場にいない人たちには理解できません。「あれぐらいの仕事は自分にも出来る。あいつはなんであの程度のことで偉そうにしているのか」と言います。職人の言うことは分かりにくいです。特に小僧の時はまったく分かりません。けれども、自分がその職人の域にまで達してみると、あの時職人の言っていたことが分かるわけです。こんなふうにして、現場での尊敬関係というものが自然とでき上がります。これはバイタリティや気合では決して越えられません。先輩を越えられないものが存在している。どうしても越えられないから尊敬する。ところが途中で投げ出してしまって別な部門に移ってしまった人は何がなんだかさっぱり分からないわけです。あいつらは変だ。なんでおれを尊敬してくれないのか、と。
これは営業という仕事の性格上やむを得ないと思います。視覚系言語で考えているから理解できないわけです。さらに、自分が理解できないという理由もわからない。これは、視覚系言語からいったん抜け出してみるしかないわけです。
それにはやっぱり、「釣り」でしょう。「たくさん釣る」ではなく、単に長く続けているだけで見えてくるものがあります。竿やリールを操作する、糸を結ぶ、擬餌針を動かして魚を誘う。これほど手の感触が頼りになる趣味もそうそうないでしょう。実際に掛かれば魚の動きを手を通して感じるわけですし、慣れてくると、毛針やサビキ仕掛けが上下する感触だけでも、例えようもないくらい楽しいのです。「釣り」はつくづく感触を楽しむ道楽なのだと思います。
感触が楽しいということは、視覚言語を一時的にOFFにできる可能性があるということになります。さきの「唯脳論」は、「触覚」も視覚と聴覚と同様言語を構成する可能性を持っていると言っていますので…。