シロギスやハゼの餌に使うイソメは,針に付けようとして指でつまむとそれまで死んだように静かだったのが急にムニュムニュ身体をくねらせてうごめきます。これを気持ち悪いといって嫌がる人もいるのですが,まあ,確かに「えっ,こんなに元気だったの?」とびっくりさせられるということはありますねえ…。自分はどちらかというと気持ち悪い餌よりも臭い餌の方が苦手ですね。
さて,泥の中で生活しているゴカイ類は普段はおとなしい生き物です。いつもあんなふうにうごめいているわけではありません。
指でつままれたゴカイは,もちろん元気があるからのたうち回るんじゃなくて,「危険だ!」「殺される~」ということをゴカイ君の方でも認識して,代謝を変化させるからあんなふうな力が出せるわけですよね。先日は「ストレス」というものをこんなふうに代謝を変化させる刺激というふうに捉えてもいいのではないかと提案させていただいたのですが,この新しいストレス定義に当てはめてみると,指でつまむというような刺激も生物次第では一種のストレスなんだと解釈することができますね。
移動することによって必要な栄養を積極的に求めることができる生き物の起源をアメーバのようなミクロの水中生物に認めるとするなら,それらの生き物にとってその移動手段を断たれてしまうことは,即座に「死」を意味したことでしょう。例えば何かトラップのようなものにはまり込んでしまって動けなくなるようなことです。それが生物が初めて感じた「危険」というものだったのではないでしょうか。
ですから原始動物に初めてその種の危険に対処するモードが備わったとするならば,それは「周囲の圧力・粘性の変化による移動困難」「呼吸困難」「周囲の温度変化」などに対して,激しく「もがく」「ジタバタする」ことによってその状況を打開しようという機能だったと思います。
そして原始動物が単細胞生物から多細胞生物へ進化すると,今度はそこに天敵から逃れるという能力が付け加わります。どうしても大きくなると他の生き物に狙われやすいですし,寿命が長くなればなるほど身を守る術を身に付けていたほうが有利ですから。
そしてそのような“動物”が陸上へ進出すると,今度は水に溶けたプランクトンやその他の餌を求めることは難しくなり,必然的に餌を捕食する行動にもその能力を使うようになります。それは「逃げる」という消極的な反応から獲物を捕えるという能動的な行動への転換です。その場合モードを切り替えるためのきっかけは餌となる生き物の「動き」を実際に見ることです。つまり餌がストレスの役割をすることになるわけです。
それが哺乳類ともなると,能動的な行動のバリエーションは多彩に広がります。仲間同士での生殖,闘争,逃走などがあるからです。とりわけ重要になるのがコミュニケーションではないでしょうか。「お母さん,どこにいるの?」「私はここよ!」というやり取りには発声が必要です。「ダーウィンが来た!」でもやっていましたが,生まれつき大声を出すことができないシママングースの子供は、不適応ということで群れから見放されてしまうということは,このことを考えるとよく分かるような気がいたします。あんな小さな動物が大きな声を出すことはどんなに大変なんだろうかと思ってしまいます。
ワニやトカゲの場合,他人に顔を足で踏みつけられても平然としていますが,哺乳類の場合そういったことはまずありません。なぜかというと、哺乳類同士が偶然出くわした場合,まず互いに相手の目を見て,どちらか一方が退くからです。目というのはやはり哺乳類にとって何かあるんでしょう。互いに相手の顔をのぞき込み,目と目が合ったとき,哺乳類の脳には反応するニューロンがあるように思えます。このことを民俗学者の柳田国男は実に上手に表現しています(1)。
ここで柳田国男は「勝ち負け」といっています。まだ続きがあります。
このようなことを見抜いた柳田国男という人はやっぱりすごいと思います。何せ当時,動物の行動や生態も今のように分かっていなかったわけですし,ましてや神経科学などというものもなかったわけですから。
さて,哺乳類というのは2つの目玉を見たとき,気分感情はともかく心臓がドキドキするわけです。そして,その表情が赤ん坊のように和やかであることを確認すると,やっと開放されるわけです。このとき普通の人なら微笑みます。笑みというのは緊張から開放されたときの情動だと言われています。子供の顔を見ると安心する,癒されるというのは,こうした哺乳類の基本的な性質を現していると思います。万人に受けるマスコットとかキャラクターが幼児的な顔を持っていることは、このことと関連しているのかもしれません。
2つの目玉がストレスになるわけですが、嘘だという人は,ちょっと実験をしてみるといいと思います。例えば自分で目玉シールを作ってパソコンのモニタや,車のダッシュボードに貼っておくのです。ちょうど自分を睨みつけているような感じに。これはかな~り不快です(笑)。どうしてこんなもので不快な気分になるのかということは,脳の働きが完全に解明されるまで了解不可能だと思います。それくらい不思議な現象です。
目玉、声、そして匂いというのは哺乳類にとって、コミュニケーションのシンボルなのかもしれません。同時にまた、緊張感を互いに与えあう物でもあると言えます。コミュニケーションというと優しさとか暖かさを連想してしまいますが、そればかりではありません。嫌な奴がいると思うことで自分の緊張感を保つようなことも日常していますし、相手を脅したり、睨みつけたりすることも立派なコミュニケーションです。
ちょっと変わったところでは,人間の場合「意地悪をする」という行動があるわけです。例えば防波堤などの釣り場でも不慣れな場所に行くと,かなりの確率でこの種の迷惑行為を受けます。考えてみれば不思議なことなのですが,自然発生的にどこでもこういう人はいるわけです。
意地悪というのは自分が何か利益を得ようとして起こす行動ではなく,相手の動きを読んで,意識的に相手がやろうとしていることを妨害することを指します。妨害された方は自分の行動がエラーとなって返ってきますから,そのことがストレスとなるわけです。これは必要のない緊張、過度な緊張を引き起こします。人間は相手の行動を予測することができるからこういったことも可能になるわけですが、策略がうまく嵌まった場合は,ちょうど狭い道で行き合った動物と同じように,その時点で優劣が決まることになるわけです。子供の悪ふざけなどは「面白いから」やるわけですが、案外実は、「負けた」という気持ちをずっと引きずっていて、その無念さを晴らそうとしてこんな行動をしてしまったりするわけです。ところがそうやって何度か恥をさらしていくうちに打ち解けて仲間に入れてもらえる場合もある。こんなふうに見ていくと、こういった一見理解不能な行動も分かるような気がいたします。
哺乳類という生き物は脳のストレス作用を上手に応用して大声を出したり、集団行動をとったりしてきたわけですが、同時にそれは脆弱性や一部の問題も抱えている、例えば新興宗教だとかネオナチみたいな変な物が流行るとか、弱い者イジメがなくならないなど、そういうことを示しているのではないでしょうかねえ。
1 柳田国男「明治大正史世相篇(新装版)」(1993年,講談社学術文庫)
2 視神経や眼の周囲の筋肉群を緊張させる神経は,脳と同様に酸素を大量に消費することから,ストレス適応能力の個体差がストレートに現れるということなのでしょう。
3 前段の眼力を鍛える訓練法に注目。これは我慢することに似ているのではと思います。視床下部周囲のストレス反応を静めることができなかったために,何か怒りに似た働きによって押さえ込んでいたのでは。
4 つまり,坂本龍馬のように度胸のある人が都会に出ていたのではなく,やむにやまれぬ理由で多くの若者が農村から都会へ出なければならなかったことを反映しているのかもしれません。
さて,泥の中で生活しているゴカイ類は普段はおとなしい生き物です。いつもあんなふうにうごめいているわけではありません。
指でつままれたゴカイは,もちろん元気があるからのたうち回るんじゃなくて,「危険だ!」「殺される~」ということをゴカイ君の方でも認識して,代謝を変化させるからあんなふうな力が出せるわけですよね。先日は「ストレス」というものをこんなふうに代謝を変化させる刺激というふうに捉えてもいいのではないかと提案させていただいたのですが,この新しいストレス定義に当てはめてみると,指でつまむというような刺激も生物次第では一種のストレスなんだと解釈することができますね。
移動することによって必要な栄養を積極的に求めることができる生き物の起源をアメーバのようなミクロの水中生物に認めるとするなら,それらの生き物にとってその移動手段を断たれてしまうことは,即座に「死」を意味したことでしょう。例えば何かトラップのようなものにはまり込んでしまって動けなくなるようなことです。それが生物が初めて感じた「危険」というものだったのではないでしょうか。
ですから原始動物に初めてその種の危険に対処するモードが備わったとするならば,それは「周囲の圧力・粘性の変化による移動困難」「呼吸困難」「周囲の温度変化」などに対して,激しく「もがく」「ジタバタする」ことによってその状況を打開しようという機能だったと思います。
そして原始動物が単細胞生物から多細胞生物へ進化すると,今度はそこに天敵から逃れるという能力が付け加わります。どうしても大きくなると他の生き物に狙われやすいですし,寿命が長くなればなるほど身を守る術を身に付けていたほうが有利ですから。
そしてそのような“動物”が陸上へ進出すると,今度は水に溶けたプランクトンやその他の餌を求めることは難しくなり,必然的に餌を捕食する行動にもその能力を使うようになります。それは「逃げる」という消極的な反応から獲物を捕えるという能動的な行動への転換です。その場合モードを切り替えるためのきっかけは餌となる生き物の「動き」を実際に見ることです。つまり餌がストレスの役割をすることになるわけです。
それが哺乳類ともなると,能動的な行動のバリエーションは多彩に広がります。仲間同士での生殖,闘争,逃走などがあるからです。とりわけ重要になるのがコミュニケーションではないでしょうか。「お母さん,どこにいるの?」「私はここよ!」というやり取りには発声が必要です。「ダーウィンが来た!」でもやっていましたが,生まれつき大声を出すことができないシママングースの子供は、不適応ということで群れから見放されてしまうということは,このことを考えるとよく分かるような気がいたします。あんな小さな動物が大きな声を出すことはどんなに大変なんだろうかと思ってしまいます。
ワニやトカゲの場合,他人に顔を足で踏みつけられても平然としていますが,哺乳類の場合そういったことはまずありません。なぜかというと、哺乳類同士が偶然出くわした場合,まず互いに相手の目を見て,どちらか一方が退くからです。目というのはやはり哺乳類にとって何かあるんでしょう。互いに相手の顔をのぞき込み,目と目が合ったとき,哺乳類の脳には反応するニューロンがあるように思えます。このことを民俗学者の柳田国男は実に上手に表現しています(1)。
最近に上山草人が久しぶりに日本へ戻った時,何だか東京人の眼が大へんに怖くなっているといった。それが一部の文士などの間に問題になったそうである。こういう感じには個人の立場が働くから,よほど重ねて見ないと事実としては取り扱いにくいが,それは我々にはありそうに思われる変化である。眼つきの険しさは人次第また遭遇次第のもので,一様にこわいの優しいのということはないはずであるが,実際は土地によって少なくとも外来者にはそう感じられる。
〈中略〉
言葉だけではこの気持ちを精確に伝えがたい。やはり写真を使わぬと外国人などには呑み込めぬかもしらぬが,こわいといったところで害を加えようという意味ではない。単にやや鋭く人を視るというだけのことであった。今まで友人ばかりの気の置けない生活をしていた人が,初めて遭った人と目を見合わすということは,実際は勇気の要ることであった。知りたいという念慮は双方にあっても,必ずどちらかの気の弱いほうが伏し目がちになって(2),見られる人になってしまうのである。
通例群の力は一人よりも強く,仲間が多ければ平気で人を見るし,それをまたじろじろと見返すことのできるような,気の強い者も折々はいた。この勇気は意志の力,または練習をもって養うことができたので,古人は目勝(めがち)と称してこれを競技の一つにしていた。すなわち,今日の睨めっくらの起こりである。
農民は一般にこのわざには不得手なものと認められていたが,それでも途上に知らぬ二人が行き会うと,必然に勝ち負けは起こらざるをえなかったのである。
ここで柳田国男は「勝ち負け」といっています。まだ続きがあります。
大体に周囲に知る人の多い者は,一人で歩いていても気が強かった。旅から来た者の方がしおらしい眼をしていなければならなかった。ところが諸国の人間の入り交じる都会では,この主客の地位は定められなかった。それでも早くから来ているほうが自信が多いわけだが,そんなことは人にわかるはずもなし,また自分ばかり得意でいるものも,町にはずいぶんと集まっていたのである。
気が強くなくては町には住まれぬと思い,向こうが見たからこちらも見てやったなどと,いわゆる負けぬ気になっていたものであった。最初はただ近づきでない人を,仔細に見て知りたいという目的でもあったろうが,それには若干の人を怖れまいとする努力を要したゆえに,相手にとって無遠慮ともまた侵害とも感じられた(3)のである。貴様は何でそのようにおれの顔を見るぞ,見たがどうしたなどという問答は喧嘩になりやすかった。
つまりは元来があまり人を見たがらず,はにかんでしばしば人に見られてばかりいた者が,思い切って他人を知ろうとする気になったときに,その眼は赤子のごとく和やかには見なかった(4)のである。多数の東京の男の眼がもし険しくなっているとしたら,それは新たに知識欲の目覚めたことを意味するだけで,必ずしも喧嘩も辞せずというまでの,強い反抗心の表示ではなかったろうと思う。
このようなことを見抜いた柳田国男という人はやっぱりすごいと思います。何せ当時,動物の行動や生態も今のように分かっていなかったわけですし,ましてや神経科学などというものもなかったわけですから。
さて,哺乳類というのは2つの目玉を見たとき,気分感情はともかく心臓がドキドキするわけです。そして,その表情が赤ん坊のように和やかであることを確認すると,やっと開放されるわけです。このとき普通の人なら微笑みます。笑みというのは緊張から開放されたときの情動だと言われています。子供の顔を見ると安心する,癒されるというのは,こうした哺乳類の基本的な性質を現していると思います。万人に受けるマスコットとかキャラクターが幼児的な顔を持っていることは、このことと関連しているのかもしれません。
2つの目玉がストレスになるわけですが、嘘だという人は,ちょっと実験をしてみるといいと思います。例えば自分で目玉シールを作ってパソコンのモニタや,車のダッシュボードに貼っておくのです。ちょうど自分を睨みつけているような感じに。これはかな~り不快です(笑)。どうしてこんなもので不快な気分になるのかということは,脳の働きが完全に解明されるまで了解不可能だと思います。それくらい不思議な現象です。
目玉、声、そして匂いというのは哺乳類にとって、コミュニケーションのシンボルなのかもしれません。同時にまた、緊張感を互いに与えあう物でもあると言えます。コミュニケーションというと優しさとか暖かさを連想してしまいますが、そればかりではありません。嫌な奴がいると思うことで自分の緊張感を保つようなことも日常していますし、相手を脅したり、睨みつけたりすることも立派なコミュニケーションです。
ちょっと変わったところでは,人間の場合「意地悪をする」という行動があるわけです。例えば防波堤などの釣り場でも不慣れな場所に行くと,かなりの確率でこの種の迷惑行為を受けます。考えてみれば不思議なことなのですが,自然発生的にどこでもこういう人はいるわけです。
意地悪というのは自分が何か利益を得ようとして起こす行動ではなく,相手の動きを読んで,意識的に相手がやろうとしていることを妨害することを指します。妨害された方は自分の行動がエラーとなって返ってきますから,そのことがストレスとなるわけです。これは必要のない緊張、過度な緊張を引き起こします。人間は相手の行動を予測することができるからこういったことも可能になるわけですが、策略がうまく嵌まった場合は,ちょうど狭い道で行き合った動物と同じように,その時点で優劣が決まることになるわけです。子供の悪ふざけなどは「面白いから」やるわけですが、案外実は、「負けた」という気持ちをずっと引きずっていて、その無念さを晴らそうとしてこんな行動をしてしまったりするわけです。ところがそうやって何度か恥をさらしていくうちに打ち解けて仲間に入れてもらえる場合もある。こんなふうに見ていくと、こういった一見理解不能な行動も分かるような気がいたします。
哺乳類という生き物は脳のストレス作用を上手に応用して大声を出したり、集団行動をとったりしてきたわけですが、同時にそれは脆弱性や一部の問題も抱えている、例えば新興宗教だとかネオナチみたいな変な物が流行るとか、弱い者イジメがなくならないなど、そういうことを示しているのではないでしょうかねえ。
1 柳田国男「明治大正史世相篇(新装版)」(1993年,講談社学術文庫)
2 視神経や眼の周囲の筋肉群を緊張させる神経は,脳と同様に酸素を大量に消費することから,ストレス適応能力の個体差がストレートに現れるということなのでしょう。
3 前段の眼力を鍛える訓練法に注目。これは我慢することに似ているのではと思います。視床下部周囲のストレス反応を静めることができなかったために,何か怒りに似た働きによって押さえ込んでいたのでは。
4 つまり,坂本龍馬のように度胸のある人が都会に出ていたのではなく,やむにやまれぬ理由で多くの若者が農村から都会へ出なければならなかったことを反映しているのかもしれません。