柳田国男は人と人がすれ違う際に勝ち負けのようなものがあったということを書いていたわけですけど、ちょっとそこで、ある思いつきを試みることにしました。書店で、熱心に本を探している男性の前をわざと邪魔するように通り過ぎてみるのです。その時にゆっくり堂々と通り過ぎれば大抵の人は腹を立てず、何事も起こらないということはすでに分かっていました(理由は不明)から、あえて少々大袈裟に、身体を縮こまらせながら不器用にひょいひょいと通り過ぎてみました。すると、通り過ぎたとき、背後からその男性が「チッ」と舌打ちするのが聞こえました。やはり、確かにこうしたワイルドな心理というものはあるのでしょう。
何か妨害されるという行動に対して、すぐカッとなるときもあるし、なぜか相手を憎めないときもあるというのは、誰しも経験していることと思います。このようなことをまとめると、神経の反応という面では、まず始めに動物的な衝動が起こり、引き続いて怒りのような感情、そして自分が怒ったことに対する理由付けというものが起きていると捉えるほうが本当は科学的なのかな?と思います。
そういえば昔は学校でこんな光景が見られました。中学や高校の廊下で、生徒と生徒がすれ違う場合に、一方が二人組で会話しながら歩いている。一方が一人で反対方向から歩いてくる。そうすると、二人の方は向こうからやって来る生徒に全く気遣うこともなくそのまま会話を続ける。そして一人の方はなぜか縮こまって、遠慮がちに端に寄って通る。ちょっと考えてみれば、二人組のどちらかが後ろに下がって道を空けてあげれば互いに気持ち良くすれ違うことができるわけですけど、ほとんどの生徒はそういうことをしません。
楽しそうに談笑しているのを途切れさせては悪いという気遣いがそうした行動をとらせているという解釈も成立するでしょう。けれどもそうだとすると、そのことが意味することは、「スムースな通行が妨げられること」と「楽しい談笑が妨げられること」とを秤にかけて、「楽しい談笑」の方が明らかに優先だという考え方が、生徒一般の間にすでに形成されていたということになるのではないでしょうか。少なくとも甲乙つけがたいという状況ではそうした合意が形成されることはないはずです。
「気遣い」というものだけでこの現象を説明しようという試みはちょっと無理があるような気がします。やはり何らかの別な要因が絡んでいるのではないでしょうか。
先日も駅で30歳ぐらいの男女が大声で会話をしながら乗降口に近づいていくと、先に待っていた人が雰囲気に圧倒されるかのように退きました。そしてその男女はそのまま強引に電車に乗り込んでしまったのです。以前から不思議だったのですが、こうしたことは今日でもよく見掛ける光景です。
動物同士のすれ違いの場合には、強いのか弱いのか、身体が大きいのか小さいのか、ということが圧倒的に意味を持ちます。人間も動物と同じと考えれば、強そうな方が自分の優位を主張するということはもっともらしい(モラルとしては最低ですが)。しかしながら、「会話をしている」というのはどうなのか?それとも二人だから強いのか?
動物は連れだって歩くことも、会話をすることもありませんから、これらのことを動物実験で確かめることができないのが残念です。
ところで、楽しそうに会話をしている、高らかに笑っている二人に対して、残された一人は何か引け目のようなものを感じてしまう、そういうことは日常よく経験すると思います。このことには何か理由があるのでしょうか。
会話をしているということは、眼からは相手の表情が、耳からは相手の声が入ってくることになるわけです。しかもその情報は自分の出した声が反映されたものです。すると、かなり大ざっぱな見方をすると、脳の出力結果が、相手を経由し、再び入力として戻ってくることになるではないですか。
ですから熱心に喋れば喋るほど、より熱心そうな相手の表情と声が期待できるわけです。そうすると発話に対してある種のインセンティブが働くことになります。二人の脳の中ではある種のニューロンがグルグルと強め合って活発になっているという可能性はないでしょうか。
もしそうだとすれば、そこには動物が餌を目前にした、あるいは餌を確保した時のようなある種の高らかさ、満足感のようなものが存在していないでしょうか?
さらにまた、疎外された一人は、表情という感覚入力が入ってこないということになります。ということは二人と同じような脳神経の共鳴に浸ることができないということになります。話しかけたけどスマイルが返ってこない、というようなことも日常ありますが、確かにそういう時はがっかりというか寂しい感じがしますね。
「負け犬の遠吠え」ということわざがあります。勝った方の人が勝った喜びを表現する、語るのが自然なのに、どうしてなのか実際には負けた方が、良く喋ると言うか、喋りたくなる。こういう生理を昔の人は不思議がって、犬の行動になぞらえて言い表したんではないでしょうか。
もしかして、喋るということと、勝ち負け、そして肉体や力の優劣というものはつながりがある?
果たしてそう言いきってしまってよいものか、私には分かりません。
何か妨害されるという行動に対して、すぐカッとなるときもあるし、なぜか相手を憎めないときもあるというのは、誰しも経験していることと思います。このようなことをまとめると、神経の反応という面では、まず始めに動物的な衝動が起こり、引き続いて怒りのような感情、そして自分が怒ったことに対する理由付けというものが起きていると捉えるほうが本当は科学的なのかな?と思います。
そういえば昔は学校でこんな光景が見られました。中学や高校の廊下で、生徒と生徒がすれ違う場合に、一方が二人組で会話しながら歩いている。一方が一人で反対方向から歩いてくる。そうすると、二人の方は向こうからやって来る生徒に全く気遣うこともなくそのまま会話を続ける。そして一人の方はなぜか縮こまって、遠慮がちに端に寄って通る。ちょっと考えてみれば、二人組のどちらかが後ろに下がって道を空けてあげれば互いに気持ち良くすれ違うことができるわけですけど、ほとんどの生徒はそういうことをしません。
楽しそうに談笑しているのを途切れさせては悪いという気遣いがそうした行動をとらせているという解釈も成立するでしょう。けれどもそうだとすると、そのことが意味することは、「スムースな通行が妨げられること」と「楽しい談笑が妨げられること」とを秤にかけて、「楽しい談笑」の方が明らかに優先だという考え方が、生徒一般の間にすでに形成されていたということになるのではないでしょうか。少なくとも甲乙つけがたいという状況ではそうした合意が形成されることはないはずです。
「気遣い」というものだけでこの現象を説明しようという試みはちょっと無理があるような気がします。やはり何らかの別な要因が絡んでいるのではないでしょうか。
先日も駅で30歳ぐらいの男女が大声で会話をしながら乗降口に近づいていくと、先に待っていた人が雰囲気に圧倒されるかのように退きました。そしてその男女はそのまま強引に電車に乗り込んでしまったのです。以前から不思議だったのですが、こうしたことは今日でもよく見掛ける光景です。
動物同士のすれ違いの場合には、強いのか弱いのか、身体が大きいのか小さいのか、ということが圧倒的に意味を持ちます。人間も動物と同じと考えれば、強そうな方が自分の優位を主張するということはもっともらしい(モラルとしては最低ですが)。しかしながら、「会話をしている」というのはどうなのか?それとも二人だから強いのか?
動物は連れだって歩くことも、会話をすることもありませんから、これらのことを動物実験で確かめることができないのが残念です。
ところで、楽しそうに会話をしている、高らかに笑っている二人に対して、残された一人は何か引け目のようなものを感じてしまう、そういうことは日常よく経験すると思います。このことには何か理由があるのでしょうか。
会話をしているということは、眼からは相手の表情が、耳からは相手の声が入ってくることになるわけです。しかもその情報は自分の出した声が反映されたものです。すると、かなり大ざっぱな見方をすると、脳の出力結果が、相手を経由し、再び入力として戻ってくることになるではないですか。
ですから熱心に喋れば喋るほど、より熱心そうな相手の表情と声が期待できるわけです。そうすると発話に対してある種のインセンティブが働くことになります。二人の脳の中ではある種のニューロンがグルグルと強め合って活発になっているという可能性はないでしょうか。
もしそうだとすれば、そこには動物が餌を目前にした、あるいは餌を確保した時のようなある種の高らかさ、満足感のようなものが存在していないでしょうか?
さらにまた、疎外された一人は、表情という感覚入力が入ってこないということになります。ということは二人と同じような脳神経の共鳴に浸ることができないということになります。話しかけたけどスマイルが返ってこない、というようなことも日常ありますが、確かにそういう時はがっかりというか寂しい感じがしますね。
「負け犬の遠吠え」ということわざがあります。勝った方の人が勝った喜びを表現する、語るのが自然なのに、どうしてなのか実際には負けた方が、良く喋ると言うか、喋りたくなる。こういう生理を昔の人は不思議がって、犬の行動になぞらえて言い表したんではないでしょうか。
もしかして、喋るということと、勝ち負け、そして肉体や力の優劣というものはつながりがある?
果たしてそう言いきってしまってよいものか、私には分かりません。