事業計画書の効用-⑨
ではここで、不利な条件からスタートし、成功に至った3名のSOHO社長の事例に触れてみよう。
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まずは、永田信一さん [株式会社レンズ屋 代表取締役社長]
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永田さんは、1998年にJR三鷹の駅前にできた、SOHOパイロットオフィスに入居された
SOHO CITY みたかの老舗個人企業のSOHO社長である。
子どもの頃から天文学者になりたかった永田さんは、京都の大日本スクリーンに入社
され、天文学の隣りにあった「特殊レンズ設計」の世界にハマル。
ここで13年を過ごし、その後、独立を志し友人の「つて」を頼って、目白の従業員6名
のレンズ設計会社に転職。
レンズの設計技術だけでなく、営業や経理や社長の仕事などを間近で勉強した。
このとき独立するなら一番大切なのは営業力だ、と感じ取ったらしい。
独立してからは、文字通り営業に専念し数年で売上を8,000万円。
個人年収2,000万円まで伸ばした。
お見事!
1998年~1999年はSOHOパイロットオフィスにマスコミが殺到した時代で、永田さんはマス
コミ対応に追われたが、一躍有名SOHO人の仲間入りを果たした。
「SOHO CITY みたかのお蔭です」
と永田さんはいつも言われる。
現在は、特殊レンズの設計が売り上げの半分、残りの半分をセミナー講師と光学ソフト
ウェアのサポート(コンサルティング)で事業を続けられている。
きれいにまとめれば、
・よく準備をされたので永田さんは成功されました。
ということになるが、これは一般論であって、私が間近で得た感覚とは違う。
また、起業時に永田さんは好きなレンズ設計の道で「これならやって行けるんじゃないか」
との希望的観測は持ってはいたが、「これなら勝てる」という戦略は描いていない。
起業では「そんな戦略など描けない」という方が現実味がある。
だから成功への道は、試行錯誤の中からつかみ取っていったと言える。
後の人がもし書くとすれば、「こんな戦略で事を進めた」と、書けないこともないが。
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(ひとこと)
起業に必要な要素は3つだ。
これらは理論的には必須事項だが、確たるものかは実行しないとわからない。
利益が上がらなければ、元から崩れるのだ。
1.自分自身が取り組む事業テーマを明確に持つこと(決断)
2.限られた経営資源で経営を切り盛りする事(粘りと懸命の努力)
3.商品・サービスの提供態勢を整える事(段取りと気配り)
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私が解釈する永田さん成功のポイントは3つある。
1.事業テーマが自分の好きな分野、同時に得意とする分野であること。
永田さんとは、三鷹産業プラザの近辺でたまにお会いするが、この仕事のために生きている、
という雰囲気がいつも漂う。
永田さんにとって、特殊レンズの設計とその周辺の仕事は
・楽しくて楽しくて仕方がない
のだろう、と思われるのだ。
人生と仕事と喜びが(ときには苦しみが)一気通貫して存在している。
仕事では苦しいことがつきものだ。
しかし核に「好き」があると、人は走り抜けられるものだ。
「好き」があるからこそ課題に立ち向かうことができる。
この立ち向かう姿勢が、さらに人を強くする。
「成功するまであきらめない」
はパナソニック創業者、松下幸之助の名言だが、この名言を受け頭に浮かぶことを言えば、中途
半端で止める人が多いのはなぜだろう? だ。
利益だけを狙った仕事に飽きたのではないか?
嫌いなこと、不得意なことを続けるのは、そもそも無理があるのでは? …など
2.新規顧客開拓に必死だった。
1998年当時、外注して自社のwebサイトを立ち上げ、受注第一号につなげた。
このころ、同時にSOHO CITY みたかにはマスコミが殺到していたのだが、永田さんは取材の対応に
追われながらも、一方でこのタイミングとシンクロして、自社の名を広げたことがその後の受注増
にもつながったはずである。
しかしそれ以降も、新規顧客の開拓には力を注ぎ続けた。
実は、起業した社長なり会社が世に知られるというのは実に困難なことである。
SOHO CITY みたかと一緒に名を広めたことはよかったが、それで終わらなかったのはもっと良かった。
この時期に永田さんが発揮した力の総称こそ
・アントレプレナーシップ
そのものではなかろうか。
高度成長以来、日本人が忘れてしまった力がSOHO CITY みたかには今もある。
3.売上は伸ばしたが、規模はひとり社長にとどめた。
売上が多く、社員数が多く、知名度の高い会社を目指す人は多い。
大きいこと、デラックスなこと、は成功の価値評価の一つではある。
しかし永田さんは規模を大きくすることを選ばなかった。
マネジメントより、自分の性格を優先したのだ。
「組織には向かない性格」
とは永田さんか自分を称してよく使う言葉のひとつだ。
仕事に自分を合わせるのではなく、自分に仕事を合わせたのである。
そして成功した。
ではここで、不利な条件からスタートし、成功に至った3名のSOHO社長の事例に触れてみよう。
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まずは、永田信一さん [株式会社レンズ屋 代表取締役社長]
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永田さんは、1998年にJR三鷹の駅前にできた、SOHOパイロットオフィスに入居された
SOHO CITY みたかの老舗個人企業のSOHO社長である。
子どもの頃から天文学者になりたかった永田さんは、京都の大日本スクリーンに入社
され、天文学の隣りにあった「特殊レンズ設計」の世界にハマル。
ここで13年を過ごし、その後、独立を志し友人の「つて」を頼って、目白の従業員6名
のレンズ設計会社に転職。
レンズの設計技術だけでなく、営業や経理や社長の仕事などを間近で勉強した。
このとき独立するなら一番大切なのは営業力だ、と感じ取ったらしい。
独立してからは、文字通り営業に専念し数年で売上を8,000万円。
個人年収2,000万円まで伸ばした。
お見事!
1998年~1999年はSOHOパイロットオフィスにマスコミが殺到した時代で、永田さんはマス
コミ対応に追われたが、一躍有名SOHO人の仲間入りを果たした。
「SOHO CITY みたかのお蔭です」
と永田さんはいつも言われる。
現在は、特殊レンズの設計が売り上げの半分、残りの半分をセミナー講師と光学ソフト
ウェアのサポート(コンサルティング)で事業を続けられている。
きれいにまとめれば、
・よく準備をされたので永田さんは成功されました。
ということになるが、これは一般論であって、私が間近で得た感覚とは違う。
また、起業時に永田さんは好きなレンズ設計の道で「これならやって行けるんじゃないか」
との希望的観測は持ってはいたが、「これなら勝てる」という戦略は描いていない。
起業では「そんな戦略など描けない」という方が現実味がある。
だから成功への道は、試行錯誤の中からつかみ取っていったと言える。
後の人がもし書くとすれば、「こんな戦略で事を進めた」と、書けないこともないが。
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(ひとこと)
起業に必要な要素は3つだ。
これらは理論的には必須事項だが、確たるものかは実行しないとわからない。
利益が上がらなければ、元から崩れるのだ。
1.自分自身が取り組む事業テーマを明確に持つこと(決断)
2.限られた経営資源で経営を切り盛りする事(粘りと懸命の努力)
3.商品・サービスの提供態勢を整える事(段取りと気配り)
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私が解釈する永田さん成功のポイントは3つある。
1.事業テーマが自分の好きな分野、同時に得意とする分野であること。
永田さんとは、三鷹産業プラザの近辺でたまにお会いするが、この仕事のために生きている、
という雰囲気がいつも漂う。
永田さんにとって、特殊レンズの設計とその周辺の仕事は
・楽しくて楽しくて仕方がない
のだろう、と思われるのだ。
人生と仕事と喜びが(ときには苦しみが)一気通貫して存在している。
仕事では苦しいことがつきものだ。
しかし核に「好き」があると、人は走り抜けられるものだ。
「好き」があるからこそ課題に立ち向かうことができる。
この立ち向かう姿勢が、さらに人を強くする。
「成功するまであきらめない」
はパナソニック創業者、松下幸之助の名言だが、この名言を受け頭に浮かぶことを言えば、中途
半端で止める人が多いのはなぜだろう? だ。
利益だけを狙った仕事に飽きたのではないか?
嫌いなこと、不得意なことを続けるのは、そもそも無理があるのでは? …など
2.新規顧客開拓に必死だった。
1998年当時、外注して自社のwebサイトを立ち上げ、受注第一号につなげた。
このころ、同時にSOHO CITY みたかにはマスコミが殺到していたのだが、永田さんは取材の対応に
追われながらも、一方でこのタイミングとシンクロして、自社の名を広げたことがその後の受注増
にもつながったはずである。
しかしそれ以降も、新規顧客の開拓には力を注ぎ続けた。
実は、起業した社長なり会社が世に知られるというのは実に困難なことである。
SOHO CITY みたかと一緒に名を広めたことはよかったが、それで終わらなかったのはもっと良かった。
この時期に永田さんが発揮した力の総称こそ
・アントレプレナーシップ
そのものではなかろうか。
高度成長以来、日本人が忘れてしまった力がSOHO CITY みたかには今もある。
3.売上は伸ばしたが、規模はひとり社長にとどめた。
売上が多く、社員数が多く、知名度の高い会社を目指す人は多い。
大きいこと、デラックスなこと、は成功の価値評価の一つではある。
しかし永田さんは規模を大きくすることを選ばなかった。
マネジメントより、自分の性格を優先したのだ。
「組織には向かない性格」
とは永田さんか自分を称してよく使う言葉のひとつだ。
仕事に自分を合わせるのではなく、自分に仕事を合わせたのである。
そして成功した。