河瀬ビジネスサロン ライフワークを育てよう!

コーディネイター河瀬謙一@SOHO CITY みたかからの発信。
お金をかけない起業と経営で豊かな人生を!

実行へのヒント-639

2014年08月31日 | Weblog
事業計画書の効用-⑭

誰でも好きなものがある。
一つや二つではなく、五つも六つもあるはずである。
その中から事業性のあるもの、自分で試して疲れないものを選ぶ。

もう一方では、やっているうちに腰が入ってすきになるものがある。
両側から攻めていくと、片手ぐらいの事業テーマが集まる。

そこで其々を小さく試せば様子がわかる。
体感できる。
その得る中で自分の気に入るもの、発展性のあるものを選ぶのである。

その後は、少しずつ広げていく。
この時は、すでに多少の顧客がついているのでその反応は手に取るように
わかる。

あなたがプライドを持って取り組め、工夫改良の余地があることにチャレ
ンジしていくのだ。

あなたの得意は、勿論あなたの属人的能力である。
技術であれ、ノウハウであれ、経営力であれ、デザイン力であれ。

そこに本気の力を注げば、自ずと先が見えてくる。
あとはあなたが気に入るまで事業を伸ばせばいい。

それは、オリジナリティーに溢れるから、魅力のある商品やサービスになる
だろう。

初期段階では失敗が続くかも知れないが、昔から「授業料」といって誰もが
経験する道だった。
金より経験を取った方がいい。

それでも失敗をするから、その次は成功を目指してより頑張る、という考えと
行動がうまれる。

しかし試行錯誤の苦しい時こそ、本格的な戦略を生み出す母である。
同時に、ここをいかに凌ぐかは、あなたの成長と事業の基礎となる。
目の前の課題に立ち向かう時、あなたは強くなる。

http://sohocity.jp/

実行へのヒント-638

2014年08月24日 | Weblog
事業計画書の効用-⑬

成功を収めていくSOHOがいる一方、死に体(リビングデッド)のSOHOが現れる。
この理由はかなり明確だと考える。

つまりこうだ。

事業が事実上継続しなくなるのは、何らかの理由により目的収益が得られなくなるからである。
それに起業直後の動乱期には、予想しない出来事が続く。
経営していても形を変えて続く。
そこを乗り切るのは一種の「気力」だ、と言いたいが、では何故その気力が続かないのだろうか。

私の目から見ると、心の底から「好き」なことに取り組んではいない人に多い。
だから続かない。

ITブームの時はITに。
シニアビジネスが騒がれればそちらにと、浮草のごとく漂い目の前対応をしていたら、経験値が
積み上がらない。
競合がでてきたら一挙に市場を奪われてしまう。

負けるとわかれば、その事業に固執する必要はない。
それでも、何とか…という執念はもともとない。
そこでまた途切れる。

このような断片的経験値では、松竹梅の「梅」のノウハウしか提供できなくなる。

ただ、ここで言う「好き」は子どもの言う「好き」とはやや違う。

・実際に行ってみて、他人より疲労感を感じずに続けられること
・目的の収益が見えてくる手ごたえを感じていること

の2条件を兼ね備えた「好き」であること。
大人としての「納得」と表現してもいい。

知恵や工夫の如何が事業の成否を決める新事業では、「好き」と「事業性」と「納得」がカギを握る。
そのもとは、個人の情熱と経験値と創造価値である。

評論家の堺屋太一氏も
「知識労働者の組織は属人的な要素が高く、個人のスキルに頼る部分が大きくなる」
と言われている。
実際そうなのである。

加えて言えば、自立した高スキル人をチームにすれば、大変に強い局面がある。
これも直接利益につながる。

やはり楽しい馬はよく走り、好きこそものの上手なれ、なのである。

実行へのヒント-637

2014年08月18日 | Weblog
事業計画書の効用-⑫

私には特別な技術はないし、口下手で、特にこれといった得意技もない、という方に、
3つ目の例は参考になるだろう。

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有限会社 そーほっと
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これは、アルバイトの女性たちが事業機会を見い出し独立した例である。

1998年当時、JR三鷹駅前にオープンしたSOHOパイロットオフィスの受付
として雇われていたアルバイトの女性たちがいた。
専業主婦で、100万なにがしかの年収で満足するはずだった。

ところが、入居したSOHOたちから
・これを入力しておいてくれませんか
・手紙を封入して30通出しておいてほしいのですが

などと「ちょっとしたこと」を頼まれるようになった。

「これは仕事になる!」

そこで三人の仲間が、100万円づつ出資をして
・有限会社 そーほっと
を設立して現在に至る。
売上二千万円。

近頃は、高田馬場に進出しCo-ワーキングスペースを開設・運営するまでになった。
http://case-shinjuku.com/

彼女たちは、パソコンを普通に扱う能力しか持ち合わせていなかったが、入居者
からの信頼をベースに、様々なところから庶務事業を依頼されて伸びた。

目の前の事業機会を発見し、自分たちだけを経営資源として、供給体制を整え
その供給力を仕事をしながら伸ばしていった、という教科書のような事例だ。

彼女たちも、単に仕事量を増やせばいいとは考えてはいない。
仲間を増やすのにもごくごく慎重。
むしろ消極的である。

また、行う仕事は特に好きそうとも見えないが、仕事をするライフスタイルが気に
入っているらしい。

「80歳になっても元気で働いていたい」

と冗談っぽく口にするが、それは本音だろう。
人間が、その能力を発揮して満足を得ることを「機能快」と言う。

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(ひとこと)

さあ、ここでは3つの事例に触れた。
あなたは何か自分の参考になるモノコトを発見しただろうか。

まずは起業だ。

起業の際には3つ。

・事業機会のキャッチ
・自分(たち)という経営資源のフル活用
・仕事をしながら供給体制の能力を高める姿

事業の体制を「行いながら」整えていく、起業の原型が読み取れる。

その後の経営目的は次の「2つ」に集約される。

・充分な収入の確保
・QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の追及

つまり自分の人生への、しっかり戦略である。
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大きな意味での戦略より、見込みでスタートしながら考え方を実行の中で整えていくこと。
このとき持った戦略は、事業戦略だけではないことに注意してほしい。

・自分の人生戦略(しっかりと収入を確保し、かつ生活の質を追求すること)

経済成長時代が終わったら、この視点がとてつもなく重要になる。

この3つの事例は、自分の幸せのために起業し、経営を伸ばし(充分な収入)、SOHO CITY
みたか、の仲間から感謝される生き方である。
しかも、やたらに規模の拡大を求めない。

豊かな時代の、起業と経営はこうなる。
今までとは逆。
我々の提示するポストモダンとは、これらの姿そのものだ。

何故なら、日本の先端は規模の経済を卒業し、心の満足経済に入っているからだ。
何でもかんでも規模の追及が必要な時代は既に終了。

つまり、心の満足が規模によって満たされる場合には、規模を追求する。
今、目の前で起こっていることの本質はこういうことだ。

実行へのヒント-636

2014年08月16日 | Weblog
事業計画書の効用-⑪

二人目は、医療関係の画像ファイリングを手掛ける

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永井実重さん メディカルシステム・ナガイ代表
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永井さんは、一貫して医療関係の画像システムコンサルティング販売を実行している。
1998年当時、足の骨を折って入院していた病院で読んでいた新聞に
「SOHOパイロットオフィス、入居者募集中」
の記事を見つけて応募した。

永井さんは松葉づえをついて面接に通った、と言う。

起業のテーマも、関連チームも既に会社員時代からつくり、しっかり持たれていた。
販売先も既にあり、起業してからの課題は新規顧客を増やすという一点に絞られていた。
営業を続けているので、顧客の反応は手に取るようにわかる。
「絶対にやっていける」

この見込みが永井さんを奮い立たせた。
ちょうど会社の調子が悪くなり、早期退職を募集したので、55歳で起業し60歳まで
続ければよいと考えていたが、すでに11年も予定をオーバーしている。

起業テーマ、経営資源、供給体制の3ポイントは既に出来上がっていた、理想的な起業
の形態である。

起業されて10年ほどたったときに、三鷹駅でお会いした。
「永井さん、いつもお忙しくされていますが、交通費は年額どれくらいですか」
雑談の合間に私が聞くと
「今年は300万円くらいかな」
と笑顔で返事が返ってきた。

さて、永井さんの仕事の特徴は2つある。

ひとつはお金の流れだ。
今は、医療用画像ファイリングシステム開発会社と販売契約を結び、年間契約で収入が入る。
システム販売の金額をやり取りしないこと。
つまり資金繰りとは縁のない世界で仕事をしている。

もうひとつは、医療ファイリング一筋のために、過去の知識と人脈がそっくり生かされて
いる点である。
若い人が知らない画像ファイルの話しが顧客(医師)と出来る。

こうっして会社員時代につくった経営資源、顧客、人脈をそのまま生かし、さらに拡大した。

そう考えてみると、
・技術中心の永田さん
・販売に強い永井さん

このお二人は助走時期が起業してからモノを言う、そういう起業準備設計になっている。

会社員時代が準備期間で、これはなかなかにリーズナブルである。
同時にリスクも少ない。

実行へのヒント-635

2014年08月11日 | Weblog
事業計画書の効用-⑩

次のケースに移る前に、3つの項目で永田さんの起業事例を整理してみよう。
あとの2つのケースを検証する場合にも、この項目を適用し差異を明らかにしてみたい。

3つの整理ポイントは次の通りだ。
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1)起業の3要素はどういう状態だったか。

  ①自分自身が取り組む事業テーマを明確に持つこと(決断)
  ②限られた経営資源で経営を切り盛りする事(粘りと懸命の努力)
  ③商品・サービスの提供態勢を整える事(段取りと気配り)

2)永田さんのしっかり戦略とは何か。
  起業家精神はどこに見られたか。


3) SOHO CITY みたか構想と支援策は役だったか。
  逆から言えば、永田さんはどう役立てたか。
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整理するとこうなる。

1)起業の3要素について

  ①事業テーマは明確だった。
   特殊レンズの設計、がそれだ。
   逆から言えば、それが外れたらほかに道を探すことは難しかった。
   技術をベースにした起業のアドバンテージと弱さとは、このように共存している。

  ②経営を切り盛りする事
   
   図のように、3つの時期に分けて何とかやりのけた。
  
   Ⅰ:初期-Webを入居仲間に制作してもらい、初受注を受けた。
     この時期は、顧客から声がかかるかどうか、大変心労の多い時期だ。
     事業に対する「好き」の感覚からくる「気力」で初期を切り抜けた。

   Ⅱ:中期-受注が舞い込んできたお蔭で、「得意」が自信に変わっていく。
     受注と納品をやりくりしながら現実の課題をこなすことで力をつけて行った時期。

   Ⅲ:完成期-売上が8,000万円に届き、収入も2,000万円となった。
     十分な収入と、クオリティーオブライフの充実。
     2つの目標を手にした。

  
2)しっかり戦略と起業家精神

起業の3要素が充実していたため、新規顧客開拓だけが未知数であった。

また、しっかりした戦略、というより
「これなら、やって行けるかもしれない」」
という楽観的な読みでスタートしている点にも注目してほしい。

ただ、それらををやりのけたのは、ただならぬ忍耐と積極果敢な新規顧客開拓の精神と実践で
あった、と言える。そうでなければ、多くの起業群と一緒に埋もれたまま終わっていただろう。

ここで一つの重要なポイントについて言及する。
それは永田さんが「高単価(高粗利)モデル」である点だ。
当時、他社が容易に算入できないドメイン(事業領域)で、確実なシェアを握ることができた
「高単価(高粗利)モデルだったことも高収益のポイントだ。

もし、低単価(低粗利)モデルであれば、売り上げも利益も十分なものにならない。
顧客数、ないし購買頻度はもっと多く必要になる。
その先は、仕事量に圧殺されてしまうケースだってある。

故に「値決めは経営」と言われる。
値決めとやりくりに、起業家精神としっかり戦略が組み込まれ大いに発揮された。
それ故に、一定程度の売上と利益を得た後は、その拡大に踏み切らず、そのまま売上保持の
方向に舵を切っている。


3) 支援策は役だったか。

当時、SOHOパイロットオフィスのSOHOコーディネイタに萩原さんと言う女性がおられ、永田
さんはよく相談に見えていた。
入居仲間の作ったWebサイトも功を奏した。
庶務を手掛ける「有限会社そーほっと」に事務仕事等を外注することで、手間を省けた。
SOHO CITY みたか、のPR時期と重なってマスメディアに露出したことも売上上昇に役立っただろう。

このような支援策を

・自分から積極的に生かした
のは見事である。
そのようにして顧客開拓に的を絞れたことは幸運であり、やはり努力だと考える。

SOHO CITY みたかの看板で、何よりも精神的な安定がもたらされたことは想像に難くない。
良い仕事のベースには、精神の安定がある。
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以上の3ポイントから、SOHOの成功仮説は次のように言える。

「事業テーマを自ら選びとり、こつこつと努力し、少しずつ商売を広げる。
 好きなこと、得意なことで、仕事と人生を充実させる。これが成功の早道」

ここで言う成功とは、規模の大きさを意味しない。
SOHOの成功は次の2点を満足させるものだ。

1)十分な収入を得る事
2)クオリティーオブライフの追及

ここが高度経済成長時代とは、やや違うことにも注目してほしい。

実行へのヒント-634

2014年08月04日 | Weblog
事業計画書の効用-⑨

ではここで、不利な条件からスタートし、成功に至った3名のSOHO社長の事例に触れてみよう。

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まずは、永田信一さん  [株式会社レンズ屋 代表取締役社長]
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永田さんは、1998年にJR三鷹の駅前にできた、SOHOパイロットオフィスに入居された
SOHO CITY みたかの老舗個人企業のSOHO社長である。

子どもの頃から天文学者になりたかった永田さんは、京都の大日本スクリーンに入社
され、天文学の隣りにあった「特殊レンズ設計」の世界にハマル。
ここで13年を過ごし、その後、独立を志し友人の「つて」を頼って、目白の従業員6名
のレンズ設計会社に転職。

レンズの設計技術だけでなく、営業や経理や社長の仕事などを間近で勉強した。
このとき独立するなら一番大切なのは営業力だ、と感じ取ったらしい。

独立してからは、文字通り営業に専念し数年で売上を8,000万円。
個人年収2,000万円まで伸ばした。

お見事!

1998年~1999年はSOHOパイロットオフィスにマスコミが殺到した時代で、永田さんはマス
コミ対応に追われたが、一躍有名SOHO人の仲間入りを果たした。

「SOHO CITY みたかのお蔭です」
と永田さんはいつも言われる。

現在は、特殊レンズの設計が売り上げの半分、残りの半分をセミナー講師と光学ソフト
ウェアのサポート(コンサルティング)で事業を続けられている。

きれいにまとめれば、

・よく準備をされたので永田さんは成功されました。

ということになるが、これは一般論であって、私が間近で得た感覚とは違う。

また、起業時に永田さんは好きなレンズ設計の道で「これならやって行けるんじゃないか」
との希望的観測は持ってはいたが、「これなら勝てる」という戦略は描いていない。

起業では「そんな戦略など描けない」という方が現実味がある。
だから成功への道は、試行錯誤の中からつかみ取っていったと言える。

後の人がもし書くとすれば、「こんな戦略で事を進めた」と、書けないこともないが。

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(ひとこと)

起業に必要な要素は3つだ。
これらは理論的には必須事項だが、確たるものかは実行しないとわからない。
利益が上がらなければ、元から崩れるのだ。

1.自分自身が取り組む事業テーマを明確に持つこと(決断)

2.限られた経営資源で経営を切り盛りする事(粘りと懸命の努力)

3.商品・サービスの提供態勢を整える事(段取りと気配り)
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私が解釈する永田さん成功のポイントは3つある。

1.事業テーマが自分の好きな分野、同時に得意とする分野であること。

永田さんとは、三鷹産業プラザの近辺でたまにお会いするが、この仕事のために生きている、
という雰囲気がいつも漂う。

永田さんにとって、特殊レンズの設計とその周辺の仕事は
・楽しくて楽しくて仕方がない
のだろう、と思われるのだ。

人生と仕事と喜びが(ときには苦しみが)一気通貫して存在している。

仕事では苦しいことがつきものだ。
しかし核に「好き」があると、人は走り抜けられるものだ。
「好き」があるからこそ課題に立ち向かうことができる。
この立ち向かう姿勢が、さらに人を強くする。

「成功するまであきらめない」
はパナソニック創業者、松下幸之助の名言だが、この名言を受け頭に浮かぶことを言えば、中途
半端で止める人が多いのはなぜだろう? だ。

利益だけを狙った仕事に飽きたのではないか?
嫌いなこと、不得意なことを続けるのは、そもそも無理があるのでは?  …など


2.新規顧客開拓に必死だった。

1998年当時、外注して自社のwebサイトを立ち上げ、受注第一号につなげた。

このころ、同時にSOHO CITY みたかにはマスコミが殺到していたのだが、永田さんは取材の対応に
追われながらも、一方でこのタイミングとシンクロして、自社の名を広げたことがその後の受注増
にもつながったはずである。

しかしそれ以降も、新規顧客の開拓には力を注ぎ続けた。
実は、起業した社長なり会社が世に知られるというのは実に困難なことである。
SOHO CITY みたかと一緒に名を広めたことはよかったが、それで終わらなかったのはもっと良かった。

この時期に永田さんが発揮した力の総称こそ
・アントレプレナーシップ
そのものではなかろうか。

高度成長以来、日本人が忘れてしまった力がSOHO CITY みたかには今もある。


3.売上は伸ばしたが、規模はひとり社長にとどめた。

売上が多く、社員数が多く、知名度の高い会社を目指す人は多い。
大きいこと、デラックスなこと、は成功の価値評価の一つではある。

しかし永田さんは規模を大きくすることを選ばなかった。
マネジメントより、自分の性格を優先したのだ。

「組織には向かない性格」
とは永田さんか自分を称してよく使う言葉のひとつだ。

仕事に自分を合わせるのではなく、自分に仕事を合わせたのである。
そして成功した。