ブリコラージュと可能性
「よくわからない、だけど何かがある」
と22年前に集まったSOHOが、今現在のSOHO CITY みたかコミュニティの核になっている。
「FAB LABには何かがありそうだ」
と宇山正幸さんとファブラボ鎌倉を見学した後に作ったのが、三鷹産業プラザ1Fにあるファブスペースみたかである。
これらの「わかわからないけど、何かがありそうだ」
という思考をフランス生まれの社会人類学者、レヴィストロースは”ブリコラージュ”と呼んだ。
レヴィストロースはブラジルの少数民族を観察し、未開の地とおもわれるところにも西洋文明ではない独自の文明があるとして構造主義としてまとめ、世に問うた人だ。
ブリコラージュ、とは彼ら少数民族がなんだかわからないが必要かもしれない物を袋に入れてとっておく動作、風習を指す。
つまり脈絡のない直感にもとづく行為のことである。
それらの物が、彼らの村ではそのうちに大切な役目を果たしたことも少なくない、という事も付け加えておこう。
レヴィストロースは晩年、物質主義に染められていく西洋社会を目の前に
「極東の国に希望があるかもしれない」
という趣旨の言葉を述べている。
さて、コロナ騒ぎで先がどうなるかわからない今、必要なものの一つはこの”ブリコラージュ”ではないか。
皆さんはもうすでにその力を日々の生活の中で発揮しているかもしれない。
コロナが将来どうなるかではない。
我々に必要なものは何か、を自分や家族や仲間のために思い自らに問う時、必要になる。
それにしても「直感」はこの100年か150年くらい恵まれなかった。
その存在を表立っては肯定されていないし、学校でも会社でも教えることはできない非科学的なものとされてきた。
ところがこのコロナ騒ぎで直感の大切さは「ポロっと」顔を出したのではないかと思う。
日本人も戦後は物質主義者になり、豊かな社会で貨幣主義者にもなってみた。
それがこの騒ぎで目が覚めた。
「なんとくだらないことを繰り返していたのだろう」
我々に必要なものは何か。
この問いは、これから必要な「新しいビジネス」を考えるときにも必須である。
ブリコラージュの力を信じてもよい時代の再度到来と合わせると楽しい。
勿論、直感だけではだめで、それを現実社会で生かすためのノウハウや参考事例も必要である。
しかしそれらは今までの経験値でかなりのものを手にしているのが現代人だと思う。
特に理論は両手両足からあふれるほどに持っている(笑)。
とすれば、我々の新しい活動への素材はおおよそ揃っている、と言ってよい。
が何かが欠けている。
我々のSOHO CITYにも「一人一人の努力」だけではなく、構造的要素が「欠落」していたのではないか。
もし構造上の欠落要素を探りあて、補足しつつ、新たなチャレンジをはじめれば将来は暗くない。
新しい物語をそこから語り始めることができる。
時代のパラダイムが変わり、今までの「量」の世界を超え、人々が「質」や「意味」を要望する時代が来る、と仮定するならば、「質」や「意味」は多様であるがゆえにSOHOや個人事業家の活躍の領域は益々広がる。
そのとき活躍するのは自らを鍛えたプロであり、一般人ではない。
一般人はプロを見習い、自らを鍛えることによりプロになる可能性を持つ。
以上の仮説を信じるか否かも「ブリコラージュ」と言える。