シリーズ最初の記事で、自衛隊については後述すると言っていましたが、今回はそれについて書いておきたいと思います。
過去の法学研究の中で、自衛隊論や9条解釈を巡っては、何冊も本が書けるほどに議論されてきたことは周知の事実でしょう。既に諸説が出尽くしてきたものと思いますし、それぞれの利点、欠点のような部分についても学界内で批判が繰り返されてきたものと思います。ですので、当方が何か新説を出せるわけではありませんが、あくまで当方の理解というか、基本的考え方について述べておきたいと思います。
拙ブログでは、自衛隊合憲説を採用すると言いましたけれども、その主な理由としては、大雑把に次の3点を挙げました。
・個別的自衛権の保有は否定されてない
・必要最小限度の実力組織≠戦力
・過去の非自民政権でも廃止されてない
これらの説明も含めて、自衛隊合憲説について書いてみたいと思います。
1)個別的自衛権は認められる
砂川判決においては、次のように示された。
『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと』
『憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条 2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうもの』
本最高裁判決より後年に改定された1960年安保条約の前文においても、個別的・集団的自衛権を有することは確認されています。
集団的自衛権が果たして国家固有の権利と言えるかどうかは別として、本来的な意味における自衛権(個別的自衛権)は否定されないと考えられてきたものと思います。
イラク戦争の際に、空自の行為が違憲と言われた名古屋高裁判決でも、自衛隊の存在自体が違憲であるとされたものではありません。
08年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/59e81c56baa9f00d9d3cc4367332ccb0
2)必要最小限度の実力組織≠戦力
9条1項が禁じているのは、「国際紛争解決手段としての」
戦争(=侵略戦争)
武力による威嚇
武力の行使
であり、相手国に侵略戦争を仕掛けられた時に反撃できるという武力行使、すなわち個別的自衛権の発動が禁じられているものではないでしょう。
2項でいう「陸海空軍その他戦力」とは、砂川判決で示された「侵略戦争」を実行できないようにする為に「保持しない」ということであり、警察官もピストルを持っちゃいかんのか、というような話にはならないでしょう、ということです。
自衛の為の武装は、どのくらいなら許されるのか?
自動小銃は?RPGは?船搭載の20mm機関砲は?……
これは、時代によって変わるから分からない、ということでした。ただ、戦略爆撃機や空母や核ミサイルのようなものは、認められないと例示されてきたわけです。あくまで程度問題ということでしょう。
竹やり部隊でも戦力と呼べるし、北朝鮮広報ビデオの如き徒手空拳の超人的兵士にしても、「戦力」と言うならそうかもしれません。
日本では、過去に行ってきたような侵略戦争を諸外国に行わないんだ、ということと、「わが身を守る」必要最小限の実力組織として自衛隊の存在が認められてきたものです。
完全無防備でもいいのではないか、とする意見があることも承知しています。ただ、日本国内でも「誰でもよかった」として殺戮が無差別に実行されたりすることがあります。普通の人たちなら犯罪が利害得失から見て不利益が大きいと容易に判断できるのに、敢えて合理的判断を無視して犯罪をやってくる人たちは後を絶たないわけです。
そういう人が全くいない社会なら、警察がいなくてもある程度大丈夫かもしれませんが、人間は過ちを犯すものだということのようです。そう考えると、世界のどこかの国が、偶然にも狂犬みたいな無謀な指導者によって侵略戦争を企てないとも限りません。
これについては、訓練を受けていない一般の人たちでは対抗しようがないのです。ヤクザものやチンピラなんかが一般人に暴力を振るったり、銃撃したりすると、私たちのような普通の人であろうと、最高裁判事であろうと、大臣だろうと、「止められない、止めようがない」ということなのです。警察が必要だというのは、そういうことです。
必要最小限度において、身を守る為の実力組織を用意することはやむを得ないのではないか、というのが拙ブログでの考え方です。
3)過去の非自民政権でも廃止されてない
過去において、自衛隊違憲論というのは設立当初からずっと存在し続けてきたわけです。裁判所が決定打となる判決を出さなかったということもありますし、法学の世界においても諸説存在してきたもので、「たった一つの正しい答え」のようなものは、実のところ誰にも分からなかった、と当方は理解しています。
自民党の長期与党時代が長かったわけですが、自衛隊違憲論や安保違憲論を唱えていた政党政治家たちが野党には存在していました。政権を獲れなかったから自衛隊廃止が実現できなかった、という言い訳は使えていたのかもしれません。
一方で、細川内閣、村山内閣、最近では民主党政権時代と、自民党以外から総理大臣を送れたことがあったわけですが、その際にも自衛隊廃止論というのは主要な政治課題となることはありませんでした。
それは、当時の政権の選択としてもそうですし、国民側からの「自衛隊を廃止してほしい」という政策実現の要望は皆無に等しかったのではないか、ということです。国民の選択結果として、自衛隊廃止を熱望したりはしてこなかった、ということではないかと思います。あの福島みずほ議員でさえ、大臣になって入閣したわけですが、いくら昔に自衛隊反対を唱えていても現実の政策として実行したりはしなかったということです。
結果論的には、大多数の国民が望んでいたわけではなさそう、ということです。自衛隊の存続は、あくまで国民の選択結果である、ということです。これは、統治行為論を掲げてきた裁判所の判断に照らせば、合憲と見做さざるを得ないということになりましょう。
4)9条解釈、自衛隊の違憲問題は戦後史の産物
ご存じの通り、自衛隊は当初より自衛隊ではありませんでした。警察予備隊、保安隊、と名称を変えて誕生してきました。近年、防衛庁から防衛省へと昇格も果たしたわけです。
昭和20年代ですと、国会においても、再軍備についての議論というのは存在していました。今は軍隊を持たないといっても、将来時点では改憲して軍備すべきだという発想の議員さんたちは、そこそこ存在していたということです。戦前生まれは大勢いましたから。
警察予備隊は当初、警察権拡大という名目で作られたわけですが、米国の都合が押し付けられただけでした。保安隊になったのも、そうです。
事実上の占領統治下にあり、主権回復もまだの日本においては、拒否できる権限などなかったということでしょう。米国からの武器供与を受けるのも、自衛隊の装備拡充も、日本国民が積極的に政策として望んだというものではなく、あくまで米国の指令に従って、言われるがままに受け入れてきてしまった、ということなのです。
ここに、合憲か違憲かという争いの種が生じてしまったわけです。米国から命じられると、これを覆せるだけの政治力が昭和20~30年代の日本には、備わっていなかったのだということだろうと思います。
いかに現代から見て「違憲のものなのに、作った昔のヤツラが悪い」などと言ってみたとしても、当時の人々にはそれしか選択の余地がなかったのだろうということなのです。そんなに理屈通りに物事が進められるなら、誰も苦労はしませんよね。種々の矛盾を抱えたままでどうにかせねばならなかったからこそ、苦しんできたわけで。
こうした過去の政府なり日本国民がやってきたことなりを、自分の言い分でもないのに受け入れねばならないのです。当方には、当時に選択権さえなかったわけで(生まれてないから無理だ)、たとえ不本意な結果でも受け入れざるを得ないということです。どんなに過去の理屈が気に入らず、現時点において「ちょっと無理がある説明だろ」と感じようとも、現実にそうなってしまっているわけですから。過去の政府を、今の自分が選べるわけではないということです。
結局、「米国に逆らえない」「米国に命じられたから作った」「米国に言われるがままに軍備を持った」というような、国家間の力関係が反映された結果、日本国憲法よりも「別の何か」を尊重・優先するようになってしまったのだ、ということでしょう。
そして、そうした傾向は今でも続いているのだ、ということです。現在の日本の政治状況を見ても、あまり変わっていないということです。
そのような日本国政府だから、信じることができない、ということでもあります。例えば英仏独のような軍隊を持たせたとして、きちんと管理・運用・制御できるとは思えないのが、日本の政治家なのです。
これは、原発事故の対処を見ても一目瞭然です。前から言ってるけど。
12年6月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7e8ac77dd6ec39eef54e313ccf406772
要するに、「米国には従わざるを得ない」という逃げをこれまで同様に認めてしまうことになるので、いつまで経っても解決が困難ということなんだろうと思います。自分たちの問題は自分たちが解決できる、という基本的姿勢が司法・行政・立法全部にあったのなら、とっくの昔に違憲問題など解決ができていたことでしょう。
日本は、そういう国ではなかった。
未熟な民主主義しかなかった。
これから、変えていけるかもしれないし、ダメかもしれない。
やはり、国民の選択の問題なのです。
自分はどんな社会にしたいか、どんな国を目指しているか。
過去の法学研究の中で、自衛隊論や9条解釈を巡っては、何冊も本が書けるほどに議論されてきたことは周知の事実でしょう。既に諸説が出尽くしてきたものと思いますし、それぞれの利点、欠点のような部分についても学界内で批判が繰り返されてきたものと思います。ですので、当方が何か新説を出せるわけではありませんが、あくまで当方の理解というか、基本的考え方について述べておきたいと思います。
拙ブログでは、自衛隊合憲説を採用すると言いましたけれども、その主な理由としては、大雑把に次の3点を挙げました。
・個別的自衛権の保有は否定されてない
・必要最小限度の実力組織≠戦力
・過去の非自民政権でも廃止されてない
これらの説明も含めて、自衛隊合憲説について書いてみたいと思います。
1)個別的自衛権は認められる
砂川判決においては、次のように示された。
『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと』
『憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条 2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうもの』
本最高裁判決より後年に改定された1960年安保条約の前文においても、個別的・集団的自衛権を有することは確認されています。
集団的自衛権が果たして国家固有の権利と言えるかどうかは別として、本来的な意味における自衛権(個別的自衛権)は否定されないと考えられてきたものと思います。
イラク戦争の際に、空自の行為が違憲と言われた名古屋高裁判決でも、自衛隊の存在自体が違憲であるとされたものではありません。
08年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/59e81c56baa9f00d9d3cc4367332ccb0
2)必要最小限度の実力組織≠戦力
9条1項が禁じているのは、「国際紛争解決手段としての」
戦争(=侵略戦争)
武力による威嚇
武力の行使
であり、相手国に侵略戦争を仕掛けられた時に反撃できるという武力行使、すなわち個別的自衛権の発動が禁じられているものではないでしょう。
2項でいう「陸海空軍その他戦力」とは、砂川判決で示された「侵略戦争」を実行できないようにする為に「保持しない」ということであり、警察官もピストルを持っちゃいかんのか、というような話にはならないでしょう、ということです。
自衛の為の武装は、どのくらいなら許されるのか?
自動小銃は?RPGは?船搭載の20mm機関砲は?……
これは、時代によって変わるから分からない、ということでした。ただ、戦略爆撃機や空母や核ミサイルのようなものは、認められないと例示されてきたわけです。あくまで程度問題ということでしょう。
竹やり部隊でも戦力と呼べるし、北朝鮮広報ビデオの如き徒手空拳の超人的兵士にしても、「戦力」と言うならそうかもしれません。
日本では、過去に行ってきたような侵略戦争を諸外国に行わないんだ、ということと、「わが身を守る」必要最小限の実力組織として自衛隊の存在が認められてきたものです。
完全無防備でもいいのではないか、とする意見があることも承知しています。ただ、日本国内でも「誰でもよかった」として殺戮が無差別に実行されたりすることがあります。普通の人たちなら犯罪が利害得失から見て不利益が大きいと容易に判断できるのに、敢えて合理的判断を無視して犯罪をやってくる人たちは後を絶たないわけです。
そういう人が全くいない社会なら、警察がいなくてもある程度大丈夫かもしれませんが、人間は過ちを犯すものだということのようです。そう考えると、世界のどこかの国が、偶然にも狂犬みたいな無謀な指導者によって侵略戦争を企てないとも限りません。
これについては、訓練を受けていない一般の人たちでは対抗しようがないのです。ヤクザものやチンピラなんかが一般人に暴力を振るったり、銃撃したりすると、私たちのような普通の人であろうと、最高裁判事であろうと、大臣だろうと、「止められない、止めようがない」ということなのです。警察が必要だというのは、そういうことです。
必要最小限度において、身を守る為の実力組織を用意することはやむを得ないのではないか、というのが拙ブログでの考え方です。
3)過去の非自民政権でも廃止されてない
過去において、自衛隊違憲論というのは設立当初からずっと存在し続けてきたわけです。裁判所が決定打となる判決を出さなかったということもありますし、法学の世界においても諸説存在してきたもので、「たった一つの正しい答え」のようなものは、実のところ誰にも分からなかった、と当方は理解しています。
自民党の長期与党時代が長かったわけですが、自衛隊違憲論や安保違憲論を唱えていた政党政治家たちが野党には存在していました。政権を獲れなかったから自衛隊廃止が実現できなかった、という言い訳は使えていたのかもしれません。
一方で、細川内閣、村山内閣、最近では民主党政権時代と、自民党以外から総理大臣を送れたことがあったわけですが、その際にも自衛隊廃止論というのは主要な政治課題となることはありませんでした。
それは、当時の政権の選択としてもそうですし、国民側からの「自衛隊を廃止してほしい」という政策実現の要望は皆無に等しかったのではないか、ということです。国民の選択結果として、自衛隊廃止を熱望したりはしてこなかった、ということではないかと思います。あの福島みずほ議員でさえ、大臣になって入閣したわけですが、いくら昔に自衛隊反対を唱えていても現実の政策として実行したりはしなかったということです。
結果論的には、大多数の国民が望んでいたわけではなさそう、ということです。自衛隊の存続は、あくまで国民の選択結果である、ということです。これは、統治行為論を掲げてきた裁判所の判断に照らせば、合憲と見做さざるを得ないということになりましょう。
4)9条解釈、自衛隊の違憲問題は戦後史の産物
ご存じの通り、自衛隊は当初より自衛隊ではありませんでした。警察予備隊、保安隊、と名称を変えて誕生してきました。近年、防衛庁から防衛省へと昇格も果たしたわけです。
昭和20年代ですと、国会においても、再軍備についての議論というのは存在していました。今は軍隊を持たないといっても、将来時点では改憲して軍備すべきだという発想の議員さんたちは、そこそこ存在していたということです。戦前生まれは大勢いましたから。
警察予備隊は当初、警察権拡大という名目で作られたわけですが、米国の都合が押し付けられただけでした。保安隊になったのも、そうです。
事実上の占領統治下にあり、主権回復もまだの日本においては、拒否できる権限などなかったということでしょう。米国からの武器供与を受けるのも、自衛隊の装備拡充も、日本国民が積極的に政策として望んだというものではなく、あくまで米国の指令に従って、言われるがままに受け入れてきてしまった、ということなのです。
ここに、合憲か違憲かという争いの種が生じてしまったわけです。米国から命じられると、これを覆せるだけの政治力が昭和20~30年代の日本には、備わっていなかったのだということだろうと思います。
いかに現代から見て「違憲のものなのに、作った昔のヤツラが悪い」などと言ってみたとしても、当時の人々にはそれしか選択の余地がなかったのだろうということなのです。そんなに理屈通りに物事が進められるなら、誰も苦労はしませんよね。種々の矛盾を抱えたままでどうにかせねばならなかったからこそ、苦しんできたわけで。
こうした過去の政府なり日本国民がやってきたことなりを、自分の言い分でもないのに受け入れねばならないのです。当方には、当時に選択権さえなかったわけで(生まれてないから無理だ)、たとえ不本意な結果でも受け入れざるを得ないということです。どんなに過去の理屈が気に入らず、現時点において「ちょっと無理がある説明だろ」と感じようとも、現実にそうなってしまっているわけですから。過去の政府を、今の自分が選べるわけではないということです。
結局、「米国に逆らえない」「米国に命じられたから作った」「米国に言われるがままに軍備を持った」というような、国家間の力関係が反映された結果、日本国憲法よりも「別の何か」を尊重・優先するようになってしまったのだ、ということでしょう。
そして、そうした傾向は今でも続いているのだ、ということです。現在の日本の政治状況を見ても、あまり変わっていないということです。
そのような日本国政府だから、信じることができない、ということでもあります。例えば英仏独のような軍隊を持たせたとして、きちんと管理・運用・制御できるとは思えないのが、日本の政治家なのです。
これは、原発事故の対処を見ても一目瞭然です。前から言ってるけど。
12年6月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7e8ac77dd6ec39eef54e313ccf406772
要するに、「米国には従わざるを得ない」という逃げをこれまで同様に認めてしまうことになるので、いつまで経っても解決が困難ということなんだろうと思います。自分たちの問題は自分たちが解決できる、という基本的姿勢が司法・行政・立法全部にあったのなら、とっくの昔に違憲問題など解決ができていたことでしょう。
日本は、そういう国ではなかった。
未熟な民主主義しかなかった。
これから、変えていけるかもしれないし、ダメかもしれない。
やはり、国民の選択の問題なのです。
自分はどんな社会にしたいか、どんな国を目指しているか。