特に、非難するとか、何かの意図があるわけではないが。
コレ>2008-10-03 - 弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」には、次のように書かれていた。
『検察イコール正義の味方、悪を退治するヒーロー、といった単純、牧歌的な検察観しか持っていない人にとって、いろいろな意味で参考になる事件ではあります。』
=====
これはいつもの、「さてはオレを撃ってきたな」論法を発動せよ!、だな(笑)。
落合先生が、「牧歌的な検察観しか持っていない人」というのを、具体的にどんな人を指しているのかは知りません。
が、偶然にも、拙ブログには先日次のように書いた。
>あるコメント
『私にとっての正義の象徴とは、大雑把に言うなら検察(検事)であり、司法なのです。判決を書く裁判官も当然含まれます。弱小個人に過ぎない私が、唯一(国家)権力と向き合う(対決する)ことが可能なのは、司法制度しかないのですから。なので、「法」すなわち司法に正統性を求めています。映画「ダークナイト」で正義の象徴となっていた検事が登場していましたが、そのことが痛いほどよく伝わってきました。』
どう見ても、正義の象徴、すなわち正義の味方・悪を退治するヒーロー的に扱っているのは、オレってことですな(笑)。つまりは、牧歌的なのはオレってことだね。
そうだな、自分でも「おめでたい奴」とか「牧歌的な単純バカ」とか、傾向としてはそうなんだろうな、と思ってるから別にいいけどね。否定はしない。オレはそれでもいいと思ってるから。
法と正義5
検察の調活費問題についての事件は、この記事を書いた04年時点で知っていた。
検察の内部告発をすることと、個人の不正とが別であることは確かであり、内部告発の目的がどんなに崇高であったとしても、個人の不正や罪が消え去るわけではない。
しかし、逆に言えば、最高裁はじめ法務省・検察の暗部というのが「かなり深いだろう」、ということも十分想像できるというものです。検察に対しての「法の支配」が通じていない部分があるのではないか、それは政治的に左右されてしまうものなのではないか、ということです。これは最高裁とて同じ。そういう「間柄」なのだな、と。
橋本派への強力な締め付け&追い落とし策、更には医療改革(医療費削減)に抵抗する厚生族への切り込みという点においても、国策捜査が用いられたのではないだろうか、という側面についても考えるようにもなったし。防衛省の守屋事件にしても、何かの裏がありそうかも、と思うこともあったし。
だが、必ずしも落胆はしていない。
特にこれといった理由はないが、信じているからだ。
こうした暗部があることも知った(考えた)上で、正義の象徴たる司法を求めるのだ。
法が通用しなくなった時、暴力に負ける。暴力に支配される。
端的に言えば、ロシアのような状態、ということだ。
その点では、アメリカは違う。アメリカには正義が残っているのである。
国家の陰謀とか権力による犯罪があるとしても、いつかは糾弾される。暴かれてしまうのだ。
それが、正義の国、アメリカだ。
<蛇足:
時々余計なお節介とか、大きなお世話を「他人に押し付ける」ので、かなりウザいのが玉に瑕なんだが(笑)。
「イデオロギーの押し売り」みたいなところもあるかな。>
正義を信じる者たちの意志、それは法によって支えられ、力を与えられるのだ。
暴力は、いつかは負ける。
永続する暴力支配は、存在しない。
暴力は、必ず暴力によって葬り去られる。だから、長続きしないのだ。
けれども、人間の意志は、簡単には消え去ることがない。
代々受け継がれ、意志は残される。
法とは、正義を信じた者たちが引き継いできた意志だ。
暴力は必ず負けるが、意志は受け継ぐ人間がいる限り負けない。
キリストが死んでも、暴力に負けはしなかった、というのと同じ。
個人を超えた、「法を守る者」の意志、というものがある限り、それを信じたいのだ。
しかし、法は時として、暴力以上に暴力的なことがある。
この暴走を止める唯一の方法は、人々が見守る(監視監督する)ことである。
バットマンが闇から見守るのと同じく、正義は、そして意志は、常に見守り続けて受け継ぐしかないのだ。
コレ>2008-10-03 - 弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」には、次のように書かれていた。
『検察イコール正義の味方、悪を退治するヒーロー、といった単純、牧歌的な検察観しか持っていない人にとって、いろいろな意味で参考になる事件ではあります。』
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これはいつもの、「さてはオレを撃ってきたな」論法を発動せよ!、だな(笑)。
落合先生が、「牧歌的な検察観しか持っていない人」というのを、具体的にどんな人を指しているのかは知りません。
が、偶然にも、拙ブログには先日次のように書いた。
>あるコメント
『私にとっての正義の象徴とは、大雑把に言うなら検察(検事)であり、司法なのです。判決を書く裁判官も当然含まれます。弱小個人に過ぎない私が、唯一(国家)権力と向き合う(対決する)ことが可能なのは、司法制度しかないのですから。なので、「法」すなわち司法に正統性を求めています。映画「ダークナイト」で正義の象徴となっていた検事が登場していましたが、そのことが痛いほどよく伝わってきました。』
どう見ても、正義の象徴、すなわち正義の味方・悪を退治するヒーロー的に扱っているのは、オレってことですな(笑)。つまりは、牧歌的なのはオレってことだね。
そうだな、自分でも「おめでたい奴」とか「牧歌的な単純バカ」とか、傾向としてはそうなんだろうな、と思ってるから別にいいけどね。否定はしない。オレはそれでもいいと思ってるから。
法と正義5
検察の調活費問題についての事件は、この記事を書いた04年時点で知っていた。
検察の内部告発をすることと、個人の不正とが別であることは確かであり、内部告発の目的がどんなに崇高であったとしても、個人の不正や罪が消え去るわけではない。
しかし、逆に言えば、最高裁はじめ法務省・検察の暗部というのが「かなり深いだろう」、ということも十分想像できるというものです。検察に対しての「法の支配」が通じていない部分があるのではないか、それは政治的に左右されてしまうものなのではないか、ということです。これは最高裁とて同じ。そういう「間柄」なのだな、と。
橋本派への強力な締め付け&追い落とし策、更には医療改革(医療費削減)に抵抗する厚生族への切り込みという点においても、国策捜査が用いられたのではないだろうか、という側面についても考えるようにもなったし。防衛省の守屋事件にしても、何かの裏がありそうかも、と思うこともあったし。
だが、必ずしも落胆はしていない。
特にこれといった理由はないが、信じているからだ。
こうした暗部があることも知った(考えた)上で、正義の象徴たる司法を求めるのだ。
法が通用しなくなった時、暴力に負ける。暴力に支配される。
端的に言えば、ロシアのような状態、ということだ。
その点では、アメリカは違う。アメリカには正義が残っているのである。
国家の陰謀とか権力による犯罪があるとしても、いつかは糾弾される。暴かれてしまうのだ。
それが、正義の国、アメリカだ。
<蛇足:
時々余計なお節介とか、大きなお世話を「他人に押し付ける」ので、かなりウザいのが玉に瑕なんだが(笑)。
「イデオロギーの押し売り」みたいなところもあるかな。>
正義を信じる者たちの意志、それは法によって支えられ、力を与えられるのだ。
暴力は、いつかは負ける。
永続する暴力支配は、存在しない。
暴力は、必ず暴力によって葬り去られる。だから、長続きしないのだ。
けれども、人間の意志は、簡単には消え去ることがない。
代々受け継がれ、意志は残される。
法とは、正義を信じた者たちが引き継いできた意志だ。
暴力は必ず負けるが、意志は受け継ぐ人間がいる限り負けない。
キリストが死んでも、暴力に負けはしなかった、というのと同じ。
個人を超えた、「法を守る者」の意志、というものがある限り、それを信じたいのだ。
しかし、法は時として、暴力以上に暴力的なことがある。
この暴走を止める唯一の方法は、人々が見守る(監視監督する)ことである。
バットマンが闇から見守るのと同じく、正義は、そして意志は、常に見守り続けて受け継ぐしかないのだ。