http://www.sjlf.org/
日本フランス語学会シンポジウム「フランス語学と意味の他者」
日時: 2010年5月29日(土) 10:00-12:30
会場: 早稲田大学 (早稲田キャンパス) 1号館4階 401教室
申し込み: 不要 (直接会場にお越しください。)
参加費: 無料
※ 日本フランス語学会の会員でない方の参加も自由で す。
パネリスト (演題は下記プログラムをご覧ください):
野矢 茂樹 (東京大学) 哲学
西村 義樹 (東京大学) 認知言語学
渡邊 淳也 (筑波大学) フランス語学
コメンテーター:
守田 貴弘 (東京大学グローバルCOE特任研究員) 対照言語学
企画・司会:
酒井 智宏 (慶應義塾大学非常勤) 言語学
趣旨:
[...] なんの変テツもない仲間内に引きこもっちゃ、だめだ。変なものに、変な
ことに、変なひとに、出会う。そのときにこそ、それを「変だ」と感じる自分自
身とはじめて出会える。
そこに、考えるという場が開かれる。[1]
フランス語学と野矢茂樹。フランス語学と西村義樹。企画した人間が言うのも
気が引けるが、なにやらお刺身の上にあんこやチョコレートを載せたようであ
る。現在のフランス語学はこの二人の変な他者を理解するための論理空間を持ち
合わせていない。「そんなものは食べられない」と醒めた態度を取る人もいるか
もしれない。しかし私には、この二人の変な他者は「私に意味を与えてみよ」
[2]という「謎として、挑戦として、そして誘惑として」[3]我々の前に現れてい
るように見える。それを「刺身の上のあんこやチョコレート」といった、既知の
ものの組み合わせで理解しようとする態度自体が間違っている。「意味の他者を
理解するとは、自分自身が、その論理空間が、変容すること」[4]なのである。
フランス語学の論理空間の変容に「内側から」立ち会うのは渡邊淳也さんであ
る。野矢茂樹、西村義樹、渡邊淳也の三氏を結びつけるものは何だろうか。それ
は冠詞論でもなければ時制論でもない。取り組むべき問いの同一性はそこにはな
い。三氏を結びつけるのはまさに「意味の他者」に対する態度であり、新たな問
いを問おうとする態度である。それぞれの意味の他者を前にして、新たな問いを
問い、答えを求めて日々格闘する。そしてその格闘を本気で面白いと感じる。そ
の態度を共有しているのである。私にはその態度こそが「幸福に生きよ!」[5]の
実践として映る。格闘している本人が本気で面白いと思っている格闘がどれほど
魅力的であり、どれほど人を幸福にするか。それを肌で感じ取ってもらいたい。
「揺さぶられて、考えるようになる」[6]喜びを味わってもらいたい。
外からの揺さぶりに、フランス語学はどう答えるのか。あるいは答えられない
のか。「そんなものはフランス語学ではない」と言って思考停止に陥るのではな
く、揺さぶられながら考える喜びを共有する聴衆が一人でも二人でも、できれば
たくさん現れれば、このシンポジウムは成功である。
プログラム
※ 外からの声に揺さぶられてまったくこの通りには進まないかもしれません。
あらかじめご了承ください。
※ フロアとの討論はこのプログラムと並行して行われます。
10:00-10:10 趣旨説明 (酒井 智宏)
10:10-10:40 外からの声1 「メタファーによる世界の制作」 (野矢 茂樹)
10:40-10:55 外からの声1に答える 「フランス語の語彙意味論とメタファー・メトニミー(1)」 (渡邊 淳也)
10:55-11:25 外からの声2-野矢vs. 渡邊へのコメントを兼ねて 「文法と比喩」 (西村 義樹)
11:30-11:45 外からの声2に答える 「フランス語の語彙意味論とメタファー・メトニミー(2)」 (渡邊 淳也)
11:45-12:00 外からの声1’-西村 vs. 渡邊へのコメント (野矢 茂樹)
12:00-12:30 コメント-意味の他者に揺さぶられた後で (守田 貴弘)
注
1 野矢茂樹 (2004)『はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案
内』 PHP文庫、pp.206-208.
2 野矢茂樹 (2005)『他者の声・実在の声』産業図書、p.104.
3 同.
4 同書p.106.
5 Wittgenstein, Ludwig. (1961) Notebooks 1914-1916, Basil Blackwell, 奥
雅博(訳)「草稿1914-1916」『ウィトゲンシュタイン全集1』大修館書店、1916年
7月8日.
6 野矢茂樹 (2004)『はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案
内』PHP文庫、p.206.
日本フランス語学会シンポジウム「フランス語学と意味の他者」
日時: 2010年5月29日(土) 10:00-12:30
会場: 早稲田大学 (早稲田キャンパス) 1号館4階 401教室
申し込み: 不要 (直接会場にお越しください。)
参加費: 無料
※ 日本フランス語学会の会員でない方の参加も自由で す。
パネリスト (演題は下記プログラムをご覧ください):
野矢 茂樹 (東京大学) 哲学
西村 義樹 (東京大学) 認知言語学
渡邊 淳也 (筑波大学) フランス語学
コメンテーター:
守田 貴弘 (東京大学グローバルCOE特任研究員) 対照言語学
企画・司会:
酒井 智宏 (慶應義塾大学非常勤) 言語学
趣旨:
[...] なんの変テツもない仲間内に引きこもっちゃ、だめだ。変なものに、変な
ことに、変なひとに、出会う。そのときにこそ、それを「変だ」と感じる自分自
身とはじめて出会える。
そこに、考えるという場が開かれる。[1]
フランス語学と野矢茂樹。フランス語学と西村義樹。企画した人間が言うのも
気が引けるが、なにやらお刺身の上にあんこやチョコレートを載せたようであ
る。現在のフランス語学はこの二人の変な他者を理解するための論理空間を持ち
合わせていない。「そんなものは食べられない」と醒めた態度を取る人もいるか
もしれない。しかし私には、この二人の変な他者は「私に意味を与えてみよ」
[2]という「謎として、挑戦として、そして誘惑として」[3]我々の前に現れてい
るように見える。それを「刺身の上のあんこやチョコレート」といった、既知の
ものの組み合わせで理解しようとする態度自体が間違っている。「意味の他者を
理解するとは、自分自身が、その論理空間が、変容すること」[4]なのである。
フランス語学の論理空間の変容に「内側から」立ち会うのは渡邊淳也さんであ
る。野矢茂樹、西村義樹、渡邊淳也の三氏を結びつけるものは何だろうか。それ
は冠詞論でもなければ時制論でもない。取り組むべき問いの同一性はそこにはな
い。三氏を結びつけるのはまさに「意味の他者」に対する態度であり、新たな問
いを問おうとする態度である。それぞれの意味の他者を前にして、新たな問いを
問い、答えを求めて日々格闘する。そしてその格闘を本気で面白いと感じる。そ
の態度を共有しているのである。私にはその態度こそが「幸福に生きよ!」[5]の
実践として映る。格闘している本人が本気で面白いと思っている格闘がどれほど
魅力的であり、どれほど人を幸福にするか。それを肌で感じ取ってもらいたい。
「揺さぶられて、考えるようになる」[6]喜びを味わってもらいたい。
外からの揺さぶりに、フランス語学はどう答えるのか。あるいは答えられない
のか。「そんなものはフランス語学ではない」と言って思考停止に陥るのではな
く、揺さぶられながら考える喜びを共有する聴衆が一人でも二人でも、できれば
たくさん現れれば、このシンポジウムは成功である。
プログラム
※ 外からの声に揺さぶられてまったくこの通りには進まないかもしれません。
あらかじめご了承ください。
※ フロアとの討論はこのプログラムと並行して行われます。
10:00-10:10 趣旨説明 (酒井 智宏)
10:10-10:40 外からの声1 「メタファーによる世界の制作」 (野矢 茂樹)
10:40-10:55 外からの声1に答える 「フランス語の語彙意味論とメタファー・メトニミー(1)」 (渡邊 淳也)
10:55-11:25 外からの声2-野矢vs. 渡邊へのコメントを兼ねて 「文法と比喩」 (西村 義樹)
11:30-11:45 外からの声2に答える 「フランス語の語彙意味論とメタファー・メトニミー(2)」 (渡邊 淳也)
11:45-12:00 外からの声1’-西村 vs. 渡邊へのコメント (野矢 茂樹)
12:00-12:30 コメント-意味の他者に揺さぶられた後で (守田 貴弘)
注
1 野矢茂樹 (2004)『はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案
内』 PHP文庫、pp.206-208.
2 野矢茂樹 (2005)『他者の声・実在の声』産業図書、p.104.
3 同.
4 同書p.106.
5 Wittgenstein, Ludwig. (1961) Notebooks 1914-1916, Basil Blackwell, 奥
雅博(訳)「草稿1914-1916」『ウィトゲンシュタイン全集1』大修館書店、1916年
7月8日.
6 野矢茂樹 (2004)『はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案
内』PHP文庫、p.206.