http://blog.tatsuru.com/2010/07/04_1125.php より
内田樹先生もブログでサンドについて次のようにお書きになっておられました!
小説を読むというのは、(哲学でも同じかもしれないけれど)、別の時代の、別の国の、年齢も性別も宗教も言語も美意識も価値観もちがう、別の人間の内側に入り込んで、その人の身体と意識を通じて、未知の世界を経験することだと私は思っている。
私の場合はとくに「未知の人の身体を通じて」世界を経験することに深い愉悦を感じる。
だから、私が小説を評価するときのたいせつな基準は、私がそこに嵌入し、同調する「虚構の身体」の感覚がどれくらいリアルであるか、ということになる。
私が自分の生身の身体で世界を享受しているのとは、違う仕方で、私よりもさらに深く、貪欲に世界を享受している身体に同調するとき、小説を読むことの愉悦は高まる。
それからサンドの『愛の妖精』に出会った。ファデットの身になってランドリとシルヴィネのどちらを好きになればいいのかを考えているうちに、急に胸が高鳴り、頬が熱くほてってきた。小説の中の登場人物に深く同一化すると、遠い国の、遠い時代の、見知らぬ人の人生を内側から生きることができると知ったのはジョルジュ・サンドのこの小説によってであった。
内田樹先生もブログでサンドについて次のようにお書きになっておられました!
小説を読むというのは、(哲学でも同じかもしれないけれど)、別の時代の、別の国の、年齢も性別も宗教も言語も美意識も価値観もちがう、別の人間の内側に入り込んで、その人の身体と意識を通じて、未知の世界を経験することだと私は思っている。
私の場合はとくに「未知の人の身体を通じて」世界を経験することに深い愉悦を感じる。
だから、私が小説を評価するときのたいせつな基準は、私がそこに嵌入し、同調する「虚構の身体」の感覚がどれくらいリアルであるか、ということになる。
私が自分の生身の身体で世界を享受しているのとは、違う仕方で、私よりもさらに深く、貪欲に世界を享受している身体に同調するとき、小説を読むことの愉悦は高まる。
それからサンドの『愛の妖精』に出会った。ファデットの身になってランドリとシルヴィネのどちらを好きになればいいのかを考えているうちに、急に胸が高鳴り、頬が熱くほてってきた。小説の中の登場人物に深く同一化すると、遠い国の、遠い時代の、見知らぬ人の人生を内側から生きることができると知ったのはジョルジュ・サンドのこの小説によってであった。