西尾治子 のブログ Blog Haruko Nishio:ジョルジュ・サンド George Sand

日本G・サンド研究会・仏文学/女性文学/ジェンダー研究
本ブログ記事の無断転載および無断引用をお断りします。
 

ポリーヌ・ヴィヤルドとサンドの娘ソランジュ(1)

2014年08月20日 | サンド・ビオグラフィ


 1832年に処女作『アンディアナ』で脚光を浴び、翌年に出版した『レリア』はサンドをさらに有名な作家にさせ、こうして女性作家ジョルジュ・サンドは文壇に確かな地位を築くようになっていきます。詩人ミュッセとの大恋愛、二人のイタリアへの逃避行、それぞれの浮気、諍いと束の間の別れ、再会を繰り返し、そしてついには決別。1833年から35年は、サンドの私生活に新たな風が吹き荒れた時節でした。

 この間、ノアンの夫のもとに残してきた子供達のことは、サンドの頭から離れたことはありませんでした。とりわけ、彼らの教育は、サンドにとって最も気がかりなことのひとつでした。 

 

イタリアに滞在中、サンドはミラノから幼い娘のソランジュに愛情のこもった手紙を書き送っています(1834年7月30日ミラノ)。
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『ラ・クープ』にみる女と男 5

2014年08月19日 | サンド・ビオグラフィ


(2)ボニュス先生は、自分の洋服と赤い頭巾をエルマンに与え、女装させて彼の脱走を助け、エルマンの身代わりとなって牢獄に残る。しかしこの時、うっかり通行証書をエルマンに貸した洋服に入れたままにしてしまったために、彼は再び死刑場に連れてゆかれることになる。このとき、魔法の力で死刑執行人に雷を落とし彼を救うのは、ズィラである。彼女も男装する。馬を急がせたあまり、馬は主人の騎士を落下させ、町外れで力尽きて死んでしまうという事故が起きるが、ズィラはたずなにしがみついていた騎士のマントを着て、絞首刑台に向かうのである。(P62) こうして、二度もズィラに命を助けられたボニュス先生は、再び妖精の国に戻って女装し、幸せなベジェタリアン生活に満足し、嬉々として家事やお菓子作りに勤しむのだった。
 このように、『ラ・クープ』』では、男女の変装が交互に現れ、時にはユーモアとテンポに富む筆致で描かれている。ここでは、変装という装置により、性における男女の役割、所有と服従、あるいは異性愛の概念の基本である性差が消滅してしまっている。男女の逆転現象が古いジェンダー規範やドクサに囚われることなく、これらを軽々と超えたところで目的達成のための手段として機能しているのである。ここでいうドクサとは、ブルデユー流に言うならば、何ら疑問の対象とされることなく、ノーマルで当然のこととして見なされる社会的な思い込みと実践の総体、すなわち臆見を指す。 さらに男女の変装は、この作品全編を覆う死という重いテーマを緩和する役割を果たしていることも付け加えておこう。
 こうした男女の反転現象は、サンドの物語世界では回帰的な現象であり、サンドの創作技法の常套手段といってもよいだろう。サンドの小説では、伝統主義の人間が好みがちな「待つ女」や、女性作家に期待される美人薄命の「受け身の女」は、ヒロインとはなりえない。サンドが社会通念を「転覆させる作家」あるいは「革命的な作家」と言われる所以である。 
 サンドはフェミニズム運動に積極的ではなかったために当時のフェミニストからはアンチフェミニストと非難されたが、作家サンドは創作を通し、女性は男性と同じ教育が与えられれば、男性と同じくか、もしくは男性より優れた能力を発揮するのだと絶えず主張する。独学で学問するヒロインや男性と同じ職業を獲得する登場人物も多い。ゴンクールやボードレール等の男性作家からスケープゴートにされ、激しい批判や揶揄を浴びても怯むことなく、全世界の読者に向かって女性の置かれた不利な状況や告発し、作品の中でそれらを変装をはじめとし様々な技法を駆使し、繰り返し訴え続けた。 サンドが同時代の男性作家や多くの女性作家たちと異なる独創性は、この点にあると言えるだろう。このようなサンドの作家としての文学上の功績は、社会変革を目指すフェミニストの実践運動と同様に、評価されるべきであろう。
 

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『ラ・クープ』にみる女と男 6

2014年08月19日 | サンド・ビオグラフィ

 
(3)『ラ・クープ』における男装と女装
 ところで、サンドの『ラ・クープ』においては、変装という形を借りて、同時代の社会通念を超えた、性の反転現象がごく当たり前のことのように登場する。男の女装と女の男装が、作中人物に危機を脱出させるための有効策として機能している。最も変装の回数が多いのは、王子エルマンの家庭教師のボニュス先生である。ボニュス先生は、エルネスト王子が氷河の深淵に落っこち行方不明になった廉で貴族の侍従たち20名とともに王に極刑を言い渡され、命からがら国を逃れる。妖精の谷間の近くで、ぼろを纏った飢餓状態で死にかけていたところに死体を狙ってやってきた禿鷲に手を齧られそうになり、逆にこの禿鷲を捕まえ生き血を吸って生き延びていたところを、妖精ズィラに目撃され、彼女に助けられる。妖精の国で妖精の服と赤い頭巾を借りて身につけたのが彼の最初の女装だった。女装をしたボニュス先生は、背が高く容貌のよくない妖精のように見え、小柄な妖精のレジが一時間も笑い続けるほど奇妙な格好だったが(p38)、死刑囚の彼は位の高い妖精が人間に決してみつからない場所に連れてきてくれたことに一生の恩と幸せを感じ、料理や菓子作りを生き甲斐に死ぬまで妖精の国で生きてゆくことを決意する。妖精のレジは、こどものアルマンを女装させ、歌と踊りを披露させて楽しむ。彼女は、エルマンに金のベルトのついたひだがたっぷりのピンクのスカートをはかせ、髪を整えて花で飾り、真珠の首飾りを付けたりするのだった。p38.
 さらに物語の中半では、大人になったエルマンが自国で従兄弟が王位を継承すると知り、自分の権利を取り戻すべく故郷の国に忍び込むが、官憲にスパイと疑われ投獄されてしまう。それを知ったボニュス先生は女装し、エルマンが王位の正統後継者であることを証明する王室の通行証書とともに、密かに祖国に戻る(P62)

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『ラ・クープ』にみる女と男 4

2014年08月18日 | サンド・ビオグラフィ

(2)女性性/男性性:ルソーとサンド
 では、サンド自身の性のアイデンテイテイは、どのようなものだったのだろうか。ここでは、サンドがその哲学を「モーツアルトの音楽のように心地よい」と賞賛し、自ら「ルソーの娘」と書き残したジャン・ジャック・ルソーとの比較を通し、サンド自身の性のアイデンテイテイについて俯瞰してみよう。

 男性性と女性性の逆転あるいは一つの性の中の両性の混在といった特色は、『我が生涯の記』の作者であるサンドと『告白』の著者ルソーと異なる点であり、似ている点でもある。生まれて8日後に他界した母が父イザック・ルソーに残した人生とベッドの空虚を埋めるため、少年ルソーは激しい言葉とともに父親に繰り返し強く抱きしめられ、接吻をされ続けた。「もしおまえがおまえでなかったら、どんなに愛しただろうか」という言葉とともに。こうして、ルソーは父親により去勢された。不在の母の代替となり、父親の欲望が転化され、女性化されていったのだ。したがって、50代の『告白』の作者にとって、女性性は子供の頃からの自身の性のアイデンテイテイであった、と『ルソーと批評』の著者は指摘している。 
 他方、サンドの場合には、父親を4歳で亡くし、祖母からは父の名前と間違えてモーリスと呼ばれるほど父親の代わりに溺愛され、貴族女性のしつけを厳しく教え込まれつつ、父親の家庭教師からは男子教育を受けた。ルソーのように去勢されるまでには至らなくとも、ルソーの女性化とは真逆の性である男性性が、サンドには子供時代から植え付けられていたと言っても過言ではないだろう。しかし、サンドは、一方の性に偏った性をもつのではなく、両性を備えた独自の性、あるいはどちらももたない性をもつに至り、フロベールがサンドを「第三の性」と形容した独特のアイデンテイテイを形成していったと推察される。 
 ルソーの『告白』は一種の自伝であるサンドの『わが生涯の記』と比較した場合、作家のプライベートな部分の露出度は数倍にも及ぶと思われるほど強烈であることが明らかになる。男性作家のこうした露出度に関し考察してみると、男性性が支配している、時として自虐的で露出狂的でさえある男性作家の告白は、一般にレトリックとしてゆるやかに解釈されるのに対し、これが女性作家であった場合には、スケープゴートよろしく、書いた事は片端から文字通りにとられ、あからさまに侮蔑や軽蔑の対象とされてしまう。19世紀の一部の男性作家たちは、女性作家に対しパノプチコン的な特殊なまなざしをもって彼女たちの威信を地に落とすためにアンテナを張り巡らしていたのではないかと疑いたくなるほど過激であった。文学の真の発展にも、よりよい人間世界の構築のためにも何ら貢献しない、女性作家に対する悪口と中傷、嫌がらせは、ブルデューの表現を借りれば、一部の限定された文化資本をもつ極く特殊な階層の、現代で言えばグロバリゼーションのハビトゥスから逃れられない哀れむべき種族のみが為す行為といえるのであろう。サンドはこうした第二の性の作家に対する一部の男性作家の言われなき恥辱を自ら経験し、辛酸をなめた女性作家であった。女性作家はルソーのような露出度の高い『告白』の類いの自伝を書くべきではないとサンドが強調するのは、こうした辛い経験をいやというほど積んでいたからであったと推測される。 

 

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『ラ・クープ』にみる女と男 3

2014年08月17日 | サンド・ビオグラフィ

では、なぜサンドはこのようにプラトン思想をフィクションにすることができたのか。それは、サンドがフロベールのようにソクラテスの弟子プラトンの哲学に若い頃から親しんでいたからであった。このことは、ノアンの書棚にプラトン全集があったことやフロベールとサンドがメタラングを使い暗黙の了解のうちにプラトン思想について語っている往復書簡が明らかにしている。しかもプラトンの影響は、『ラ・クープ』(魂の永劫性)だけではなく、初期作品の『夢想者の物語』(人間球体論)、『新・旅人への手紙』(毒人参)『ムッシュ・ル・シヤン』(輪廻転生説)『花たちのおしゃべり』(輪廻説)といった後期作品群にその痕跡が認められる。 


 サンドの創作技法の特徴は、プラトン思想を忠実に描出するのではなく、その思想を踏襲した上で、女性作家の視点から主要登場人物を女性に設定し、まったく新たなヒロインを創造している点にある。
 強調すべきは、サンドが妖精の死をソクラテスに準えて小説化できる想像力を備えているだけでなく、プラトン哲学の小説化の技法がサンド特有の独創性に富んでいることである。『ラ・クープ』の妖精の王女は、男性をも凌ぐ世界観をもっている。来世や人間の未来を見据え、果てには人類の永遠の進歩を願う、その広大な世界観は、王女の卓越した知性と人徳ならぬ妖精の徳がもたらしたものであると作者は記しているが、このようにサンドの描くヒロインは男性に劣らぬ卓越した優秀性を示しているのである。
 先述したように、サンドは、ロマンチックな少女が夢見て終わるような類いの小説世界は描かない。ペローの王子様を待つお姫様の物語は、サンド文学には無縁である。夫に従属的なアンディヤナや正確な職業が不詳のレリヤは例外とし、サンドが描くのは、経済力を持つ自立した女性が多い。しばしば、劣性の男を導く自由の女神のような、みずからが考え、決断し、進むべき道を切り開いてゆく、たくましく叡智に富んだ、独立自尊の女性なのである。しかし、だからと言って、男装の麗人に徹し、ひたすら男を模して男と同じ道を突き進もうとするのではなく、手段として男装や男の署名を活用することはあるが、男性と同じ心勇気と決断力、行動力をもち、しかしながら、時には、一般に二義的で女性の分野の仕事とされる、家事、育児、料理、裁縫のどれか、あるいは複数の仕事もできる、男とは正反対の側面も備えている、そのような女性像こそが、サンドの創造世界に登場するヒロインである。そこに展開する物語世界では、しばしば、性における男女の役割、所有と服従、異性愛といった既成概念にとって基本となる性差が完全に消滅してしまっている。
 サンドの創作世界のヒロイン達は、男でも女でもあり、またそのどちらでもないのである。
 

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『祝杯』にみる女と男 2

2014年08月16日 | サンド・ビオグラフィ

ébauche

 III. 妖精の王女の死にみる女と男
(1) ソクラテスの死と妖精の王女の死
 『ラ・クープ』には、ソクラテスが毒杯を仰ぐ場面を連想させる妖精の死が描かれている。
では、ソクラテスはどのように死を迎えたのだろうか。

   いとも無造作にらくらくと」毒杯を飲み干すのを見て弟子たちが悲しみと嘆きのあま
   り慟哭する中、ソクラテスはしばらくあちこちをあるきまわっていたが、やがて足が
   重たくなってきたと言って、仰向けに身体を横たえた。足の方から麻痺してゆくこと
   を知っている毒薬担当官は、身体の部分を触れては感覚があるかソクラテスに聞いて
   いたが、下腹部辺りまで来た時、弟子のクリトンが師に「他に言う事はないか」と訊
   いたが、返答はなかった。少し後で、ぴくりと身体が動き、顔の覆いを除けてみると、
   その目はじっと固くすわっていた。

 以上が『パイドン』に書かれているソクラテスの最後の様子である。
 では、サンドは妖精の王女の死に方をどのように描いているのだろうか。
 毒杯を仰ぐ決心をした王女は、死を目前にしズイラに遺言を残す。それは、医療に関する妖精の知識をエルマンに教えること、それから、人間たちが科学の進歩により優れた治療法を開発し、叡智と徳により殺人や無駄な争いをなくすようにという願いの言葉だった。そして、最後に彼女が毒杯を仰いだ後、断末魔の苦しみに襲われるようであったら、「死、それは希望なり」 という言葉を繰り返し彼女に言ってほしいとズイラに頼んだのだった。  

  ズイラの涙を前にして決心が鈍ることを恐れた王女は、彼女に「永遠にこの世を去って
  ゆく前に、地上の美の純粋な発現を見たいから薔薇の花を持ってきて欲しい」と頼んだ。
  ズイラが戻ってくると、王女は氷河の塊の側に座っていた。頭を無造作に腕の上にもた
  れさせて。もうひとつの手はぶらりとぶらさがり、空の杯は衣服の端に転がっていた。
  ズイラは彼女が眠っているのだと思った、しかし、その眠り、それは死であった。
                           
  三日間待ったが、王女の覚醒はおこらなかった。ズイラは、静謐でおごそかな顔がゆ
  っくりと硬直してゆくのを見た。彼女は絶望して逃げ去った。氷は次第に彼女の顔の
  輪郭の上になお一層ひろがってゆく忘却を石化させ、その美しい生命を石像に変えて  
  いった。  
                    
 ソクラテスと妖精の王女の死に方の違いは歴然としている。哲学者は妻子や愛人を遠ざけ、男性のみの複数の弟子達にみとられ、男の死を迎えている。さらに今際の際の描写が科学的、実証的である。彼が遠ざけるのは女子供であり、同性の男たちは自分の側に置いている。そこには、女たちを傷つけたくないという気遣いもあるだろうが、それ以上に「男には男の世界」という男性性を男性のみの封じられた磁場に帰す、女性排除の論理が見え隠れしているとは言えないだろうか。
 ソクラテスは最後の最後に、毒薬担当官に杯の中の一部を神に捧げてもよいか、と尋ね、担当官に毒薬はきっちり致死量が測ってあるので不可能だと断われているが、この場面は死の直前のソクラテスに一瞬のためらいが生じたたことを匂わせている。最後の彼の言葉は、弟子のクリトンに言った「アスクレピオスに鶏のお供えをせよ」という一言だった。
 これに対し、女性である妖精は、妹と呼ぶ最愛の友に、薔薇の花をもってきてほしい、と言って故意に彼女を自分から遠ざけ、誰にもみとられることなく、孤立無援の中で死んでゆく。誰かがいると決意が鈍ると考えたからであった。ここには、一瞬の躊躇をみせたソクラテスより屈強の信念をもつ妖精の王女の決断力と勇気が垣間みられる。それは文化範疇の視点からみれば、男性的でさえある。氷にもたれかかって死ぬという死後の気遣いを垣間みせている点で、死後のすべてを周囲が面倒をみてくれる恵まれた男性ソクラテスとも異なる。男性哲学者の場合は、男が周囲に甘え、側近がそれを見守っている。王女の場合には、一切の甘えがない。これは文化表象の観点からみると、妖精の死に方は極めて男性的であり、情熱と理性を連想させる薔薇の花と氷は、妖精の王女にふさわしい女性性を象徴していると言えるだろう。

 一般に妖精の物語から連想されるのは、魔法の棒を一振りすれば魔法のお陰で奇跡の世界が目の前に広がる子供向けの楽しいおとぎ話である。しかし、サンドの妖精の世界では、魔法の棒を使ったおとぎ話は本当ではないと作者は断言している。サンドがある種の読者向けの保護を必要とする女らしいとされるか弱なヒロインを描くことは決してない。むしろ、その真逆のヒロインを創造しているところに、19世紀の男性中心のブルジョワ社会に対する女性作者の厳格な批判精神が認められる。サンドが想像/創造する妖精の国では、妖精の王女が国を治め、妖精たちが国の掟を遵守することにより一国が機能している。そこで展開されるのは、長い間、歴史的に男性の分野のものとされてきた哲学や政に携わる女たちの世界の物語である。サンドは妖精という非現実のモデルを駆使し、そこに愛と死といった極めて人間的なテーマを織り込み、現実世界ではあり得ない物語を重層的な虚構の世界の中に描いている。しかもそこには、暗黙の共犯関係を示唆する男と女のシンメトリーの構図が立ち現れる。
 先述した「死は希望である」というライトモチーフからも推測されるように、妖精の王女の死はソクラテスの死にオーバーラップしている。この物語を締めくくる最後の一行が「死、それは希望なり」であり、この言葉が弟子たちに残したソクラテスの教えとまったく同じであることは注目に値する。死んでゆく妖精は、毒杯を仰ぐという行為において、さらに死後の永遠の魂を信じるという点においても、ソクラテスと二重写しなのである。サンドはソクラテスの死に際の様子を熟知した上で理想的な死に様を王女に託して描いたと断言しても決して過言ではない理由がここにある。
 
 

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『ラ・クープ』にみる女と男

2014年08月15日 | サンド・ビオグラフィ

愛と死:「死、それは希望なり」
 これまで妖精の死生観をめぐりサンドとプラトン思想の連関性を考察してきたが、サンドの創作の根本にある思想は、他の作品についても言えるように、つねに「愛」である。
 恋愛も友情も禁じられている妖精たちは「人間はいつも情熱的に何かを愛していなくてはならない」と人間の世界を軽蔑しているが、少年エルマンは妖精の国の愛の不在に気づく。
  
  エルマンは妖精の王国で欠けていたものに気づいた。かれは可愛がられ、教育を与え
  られた。守られ、よい物をたくさん与えられた。しかし、彼は愛されていなかった、
  だから、彼は誰をも愛すことができなかった。P50.

氷河のエルマンの落下を口で加えて必死に守ったエルマンの犬の方が、妖精たちが知らない愛を知っていたと作者は次のように付け加える。

  彼に変わらぬ愛情を示したのは、犬だった。忠実な動物は、時折、彼に「愛しているよ」
  と言っているように思われた。エルマンは、なぜかわけもなく、泣いた。P48.

 彼はきっと僕に似た魂をもちたかったんだ。でも彼には目しかそのことを語れるものがなかったんだ。
 時折、僕はその目に涙を見たよ。僕は君のために泣けるよ、ズィラ。それは軽蔑してはいけない弱さの
  証なんだ。P83.

 エルマンを通し人間の世界を知り始めたズィラは、妖精でありながら「愛とは純粋でなにか力強いもの」だということを理解し、いつの間にかエルマンを愛してしまう。しかし、エルマンは、自分を育ててくれたズィラには、母親に対する肉親愛しか感じられない。彼は彼女の愛を退け、人間の女性ベルタを愛し結婚し、4人の子供を設ける。すると、ズィラは夫婦の子供の一人を強引に養女にしてしまうが、幼い子はある日、母親恋しさのあまり衰弱し死んでしまう。その夜、夢の中でズィラは、この子供に「来て!」と呼ばれる。そしてズィラは、妖精の王女のように毒杯を仰ぐ。人間の愛を知り、あの世で自分を必要とするエルマンの子との愛に生きるために。場面が急展開するこの物語の最後は、次のような一節で終わる。

 エルマンは大きな墓を作り、二人をそこに納めた。夜の間に、見えない手がそこにある文言を書いた。「死、それは希望なり」と。

「死、それは希望なり」したがって怖れるには足りない。ソクラテスが語り、『ラ・クープ』の中で何度も繰り返されたこの言葉こそ、サンドが最愛のマンソーに伝えたかった言葉であったに違いない。

 よく指摘されるように、サンドのフィクションに登場するヒロインは、消極的な女の子ではなく、一部の作品を例外とし、自立した独立自尊の精神をもつ健気な一人前の娘たちである。サンドは、ロマンチックな少女が夢見て終わるような類いの小説世界は描かない。ペローの王子様を待つお姫様のおとぎ語は、サンド文学には無縁なのである。夫に従属させられるアンディヤナや正確な職業が不詳のレリヤは例外とし、サンドが描くのは経済力を持つ自立した女性である。『モープラ』のエドメに表象されるように、しばしば、あたかも女性より劣った立場におかれた男性を導く自由の女神のように、みずからが考え、決断し、進むべき道を切り開いてゆく、たくましい叡智に富んだ、独立自尊の女性である。
 これらの女性達は『腹心の秘書』やこの物語におけるように、ヒロインが国を治める最高権力である場合さえある。
 女性達が闊達に人生を生きるサンドのフィクションの世界では、既知の事柄とされている男女の役割が、何ら問題を起こすことなく、両性の間で自由に行き来している。しかし、だからと言って、こうしたヒロインたちは男装の麗人に徹し、ひたすら男を模して男と同じ道を進もうとするのではなく、手段として男装や男の署名を使用することはあるが、男性と同じ心意気、勇気と決断力、行動力をもちつつも、時には、一般に二義的で女性の分野の仕事とされる、家事、育児、料理、裁縫のどれか、あるいは複数の仕事もできる、男とは正反対の側面も備えている、男女二つのどちらの性も備えている、そのような人間像こそが、サンドの創造世界に登場するヒロインである。
 女性が男性より劣るとされた時代に、スケープゴートとして恰好の標的とされたサンドは、19世紀の心ない男性批評家たちのドクサをきっぱりと拒絶し、性も社会階級も一つしか存在すべきではないと考えるに至ったのは、自明の理であったと推察される。

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THE NATIONAL HABITUS Ways of Feeling French, 1789–1870

2014年08月14日 | 出版

 Aims and Scope Stories about border crossers, illegal aliens, refugees that regularly appear in the press everywhere point to the crucial role national identity plays in human beings' lives today. The National Habitus seeks to understand how and why national belonging became so central to a person's identity and sense of identity. Centered on the acquisition of the national habitus, the process that transforms subjects into citizens when a state becomes a nation-state, the book examines this transformation at the individual level in the case of nineteenth century France. Literary texts serve as primary material in this study of national belonging, because, as Germaine de Staël pointed out long ago, literature has the unique ability to provide access to "inner feelings." The term "habitus," in the title of this book, signals a departure from traditional approaches to nationalism, a break with the criteria of language, race, and ethnicity typically used to examine it. It is grounded instead in a sociology that deals with the subjective dimension of life and is best exemplified by the works of Norbert Elias (1897–1990) and Pierre Bourdieu (1931–2002), two sociologists who approach belief systems like nationalism from a historical, instead of an ethical vantage point. By distinguishing between two groups of major French writers, three who experienced the 1789 Revolution firsthand as adults (Olympe de Gouges, François René de Chateaubriand and Germaine de Staël) and three who did not (Stendhal, Prosper Mérimée, and George Sand), the book captures evolving understandings of the nation, as well as thoughts and emotions associated with national belonging over time. Le Hir shows that although none of these writers is typically associated with nationalism, all of them were actually affected by the process of nationalization of feelings, thoughts, and habits, irrespective of aesthetic preferences, social class, or political views. By the end of the nineteenth century, they had learned to feel and view themselves as French nationals; they all exhibited the characteristic features of the national habitus: love of their own nation, distrust and/or hatred of other nations. By underscoring the dual contradictory nature of the national habitus, the book highlights the limitations nation-based identities impose on the prospect for peace.

 

Marie-Pierre Le Hir

THE NATIONAL HABITUS

Ways of Feeling French, 1789–1870

Stories about border crossers, illegal aliens, refugees that regularly appear in the press everywhere point to the crucial role national identity plays in human beings’ lives today. The National Habitus seeks to understand how and why national belonging became so central to a person’s identity and sense of identity. Centered on the acquisition of the national habitus, the process that transforms subjects into citizens when a state becomes a nation-state, the book examines this transformation at the individual level in the case of nine- teenth century France. Literary texts serve as primary material in this study of national belonging, because, as Germaine de Staël pointed out long ago, literature has the unique ability to provide access to „inner feelings.“ The term „habitus,“ in the title of this book, signals a departure from traditional approaches to nationalism, a break with the criteria of language, race, and ethnicity typically used to examine it. It is grounded instead in a sociology that deals with the subjective dimension of life and is best exemplified by the works of Norbert Elias (1897–1990) and Pierre Bourdieu (1931–2002), two sociologists who approach belief systems like nationalism from a historical, instead of an ethical vantage point. By distinguishing between two groups

Culture & Conflict 4

Approx. 396 pp.

RRP € 99.95 / *US$ 140.00 ISBN 978-3-11-036291-6

eBook

RRP € 99.95 / *US$ 140.00 ISBN 978-3-11-036306-7

Print + eBook

RRP € 149.95 / *US$ 210.00 ISBN 978-3-11-036307-4

Date of publication July 2014 Language English

Subjects

Cultural History
Subjects, Topics, Motifs
Literary Theory
Romance Studies
Literary Studies

of major French writers, three who experienced the 1789 Revolution first- hand as adults (Olympe de Gouges, François René de Chateaubriand and Germaine de Staël) and three who did not (Stendhal, Prosper Mérimée, and George Sand), the book captures evolving understandings of the nation, as well as thoughts and emotions associated with national belonging over time. Le Hir shows that although none of these writers is typically associated with nationalism, all of them were actually affected by the process of nationaliza- tion of feelings, thoughts, and habits, irrespective of aesthetic preferences, social class, or political views. By the end of the nineteenth century, they had learned to feel and view themselves as French nationals; they all exhibited
the characteristic features of the national habitus: love of their own nation, distrust and/or hatred of other nations. By underscoring the dual contradictory nature of the national habitus, the book highlights the limitations nation-based identities impose on the prospect for peace.

Marie-Pierre Le Hir, University of Arizona, Tucson, AZ, USA. 

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サンドからサラ・ベルナールまで

2014年08月13日 | その他 autres


オークションがおこなわれるそうです。パリにて10月21日とのこと。

ちなみに17歳の男装姿のサンドの肖像画(油絵)が、およそ3000ユーロとのこと、現在の円に換算すると41万円程度でしょうか。かつて、サンドが採集し標本にした蝶を手に入れた方が、高級車並みのお値段だったという話を聞いたことがありますが、それに比べると、一桁違うのではないかと思うような金額ですが、果たして。。。

 

au catalogue avec une estimation autour de 3.000 euros, tout comme une rare huile sur toile représentant George Sand à l'âge de 17 ans, habillée en garçon, réalisée par le peintre Jean-Baptiste Bonjour.

De George Sand à Sarah Bernhardt, 300 oeuvres célébrant les grandes figures féminines aux enchères

Des peintures, photos et sculptures dont le moulage d'une main de Sarah Bernhardt estimé 3.000 euros, parmi 300 oeuvres célébrant les grandes figures féminines, seront proposées aux enchères le 21 octobre à Paris, a annoncé la maison de ventes Piasa.

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サンドのフェミニズム:その独創性(試訳3)

2014年08月12日 | サンド・ビオグラフィ

 

 サンドのフェミニズム思想に関し、他の特定のフェミニストたちが問題とし展開したフェミニズム運動のテーマと比較してみよう。サンドは確かに女性の自由、平等と自立を主張した。しかしながら、夫婦それぞれの離婚の権利を要求してはいるものの、結婚制度そのものを問題とはしていない。そこにサンドのフェミニズム思想の独創性があった。

 

 他方、恋人同士の自由な結びつきを批判するようなことはないにしても、サンドは自らの実際の人生でそのことを証明したように、「売春婦が生活の糧を得るために、あるいはクルティザン(高級娼婦)が豪勢な贅沢を手にしたいがためにおこなうことにも似ている」「愛が不在の男女の結合」を厳然と非難している。

 

 このようなサンドの考えは、当時は激しい批判と痛烈な嘲弄の対象とされた。ミュッセでさえ、『白ツグミの物語』の中で、彼女の作品を皮肉を込めて揶揄している。「サンドは、いつも機をとらえては政府を攻撃し、雌の白ツグミたちの女性解放を主張している」と、ミュッセは書いたのだった。

 

 

白ツグミ

ツグミの画像は、非常に充実した次のサイトからお借りしました。

http://miyanooka1.sakura.ne.jp/tsugumi.html

 

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