小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

考えることと覚えること

2010-12-01 03:41:44 | Weblog
大学の教養課程の物理化学の講師に、「受験勉強は覚えるだけの勉強であって、ダメで、考える勉強が大切だ」と言って、覚えることには価値がないような主張をしていた先生がいた。忘れることを自慢までしていた。
これは誤りである。まず、覚えるということ自体が頭を使わなくては、つまりは考えなくては、出来ない事である。どうやって大量の知識を覚えるか、その方法に創意工夫の能力が要求される。

次に、知識というものは、考えるための道具である。道具が無ければ、あるいは、道具の数が貧弱であれば、たとえば大工なら立派な家を建てることは出来ない。

この先生が言わんとしたい事は、道具をたくさん持っていても、それを使う頭がなければダメだ、ということだろう。確かにそういうケースもあるだろう。知識だけあって、知識の持ち腐れになっている人も確かにいる。先生は、「知識など、覚えなくても辞書に書いてある」などとも言っていた。

しかし人間がものを考える時は、自分の頭の中にある知識こそが、考えるための有効な道具となるのである。知識と思考は分離したものではなく、一人の人間の頭の中で、有機的に相互に関係しあっているものである。

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守 破 離

2010-12-01 02:11:45 | 武道・スポーツ
運動において、最大の力を出すために、いくつもの運動要素がある、というのがほとんどのスポーツにおいていえる。たとえば球技においてはスイングという動作では、体重移動、腰の回転、手首のスナップなどは、どのスイングにもあることだろう。人によってフォームが違うのは、これらの運動要素の内、自分の体格や筋力などを考えて、どの運動要素により重点を置いているか、ということでフォームの違いというものが出来てくるのである。これは、プロや選手などの一流プレーヤーにおける、「離」である。高校野球でも、甲子園に出てくるほどのピッチャーともなれば、それぞれ、投げ方に自分なりの特徴があるが、これはクセではなく「離」の段階であろう。クセと個性とは違う。

たとえば、蹴り、にしても、空手、カンフー、ムエタイ、カポエラ、サバット、少林寺拳法、など、同じ、蹴るという運動なのに、違うのは、蹴り、に含まれる運動要素の内、どの運動要素を主にしているか、ということで違いが出来てくるのだろう。

しかしである。運動の上達の途中段階においては、自分に出来る、ある運動要素を意識して有効に使う、研ぎ澄ます、という事は、決して自己流のクセになってしまうわけではない。それは上達の足がかりとなるものである。

どんな運動でも、何も考えなくても、練習していれば、あるレベルまでは到達することができる。しかし、その限界を突破し、「完全」の域にまで到達するには、考えることが必要になってくる。

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