どんな運動でも上級者のフォームは美しい。しかし美しさ、というものは結果として現われるものである。だから、運動の練習においては、フォームの「美しさ」を目的するのでなく、合理的な力の出し方を求めるべきなのである。「美しさ」は、技の正しさの結果、現われてくるものである。なら、「美しさ」は、全く意識しなくてもいいか、といえば、そうは言えない。なぜなら、パワーの量や、勝つことだけを考えていると、フォームなど、どうでもいい、ということに、おちいる可能性があるからだ。パワーがあっても、自己流。勝っても自己流、ということは、起こりえることである。ほとんどの人は、運動において、「美しさ」というものを最終目的にしていないだろうし、それでいいのであるが、また、そうあるべきなのだが、「美しさ」とは、「フォームの正しさ」であり、「フォームの正しさ」とは、「合理的な力の出し方」なのである。だから、正しいフォームに到達するためには、フォームの美しさ、ということも、少しは意識すべきなのである。その意識が、少しでもあるか、ないかは大きな違いである。
以前、マット運動が出来る体育館で、バク転の練習をしたことがあるが、ある人は、連続バク転が出来たが、フォームがあまりにも、普通の連続バク転と違いすぎる。首の骨を折りそうで危険である。まあ、折らないだろうが。自分がどんなフォームか、鏡やビデオで見てみることが必要である。「美しさ」や「フォーム」というものを全く意識しないと、出来ても、その運動のあるべき合理的な力の出し方の動作にならないことがある。
以前、マット運動が出来る体育館で、バク転の練習をしたことがあるが、ある人は、連続バク転が出来たが、フォームがあまりにも、普通の連続バク転と違いすぎる。首の骨を折りそうで危険である。まあ、折らないだろうが。自分がどんなフォームか、鏡やビデオで見てみることが必要である。「美しさ」や「フォーム」というものを全く意識しないと、出来ても、その運動のあるべき合理的な力の出し方の動作にならないことがある。