押尾学の事件で、保護責任者遺棄致死という罪があるのを知った。それまでは知らなかった。裁判員制度の導入で何か裁判が迅速化しすぎてしまっているように思う。それが目的で、裁判員制度が導入されたのか。
血中濃度はウソをつかない、という被告側の医者の証言が大きなインパクトを与えたようだが。なら動物実験をしてみれば、本当の真実、パーセントはより正確にわかる。つまり実験動物に、被害者と同じ血中濃度の合成麻薬を投与し、救急車で運んで、何パーセント蘇生させることが出来るか、実験してみればいい。なぜ、それをしないのか?少なくとも2~3回は簡単に実験できる。机上の理論だけで、パーセントを決めているのは、おかしい。まあ、こういう場合、本当に厳密に真実を突きとめようとしたら、時間をかければ、かけるほど真実が正確にわかる。
法律は日常の良識とは食い違う場合がある。たとえば川で子供が溺れていても、それを通りかかって見た人は、保護する責任がなければ素通りしても、何の罪もないことになる。しかし、これは良識ではちょっとおかしい。何も、自分が危険をおかして川に飛び込むまではしなくても、大声で人を呼ぶなり、携帯で119するなりしてもいいではないか。それが良識である。しかし、確かに、それをしなかったからといって罰するというのも、またおかしい。まあ、マスコミに知られたら、冷たい人として非難されることはあるだろう。マスコミも権力のようなものである。さらに、自分に、急ぎの用があったりした場合には、罰するというのは、おかしい。ただ、日本国民である以上、日本国民としての権利と義務というものは、あるはずである。急ぎの用がない場合、日本国民としての良識的義務としての責任というものは、日本の法解釈では、無い、としている。ということになる。
この法律は実は江戸時代からあって、木枯らし門次郎は、それを知っていたので、「あっしにゃあ関係のねえこってす」と言って素通りしたのである。まあ、溺れている人間が、実は泳げて、溺れている演技をしているだけで、人を溺死させて、有り金かっさらおうという悪人である、ということだって考えられないわけではない。
中国でも、「君子。危うきに近寄らず」と論語で孔子が言っている。
血中濃度はウソをつかない、という被告側の医者の証言が大きなインパクトを与えたようだが。なら動物実験をしてみれば、本当の真実、パーセントはより正確にわかる。つまり実験動物に、被害者と同じ血中濃度の合成麻薬を投与し、救急車で運んで、何パーセント蘇生させることが出来るか、実験してみればいい。なぜ、それをしないのか?少なくとも2~3回は簡単に実験できる。机上の理論だけで、パーセントを決めているのは、おかしい。まあ、こういう場合、本当に厳密に真実を突きとめようとしたら、時間をかければ、かけるほど真実が正確にわかる。
法律は日常の良識とは食い違う場合がある。たとえば川で子供が溺れていても、それを通りかかって見た人は、保護する責任がなければ素通りしても、何の罪もないことになる。しかし、これは良識ではちょっとおかしい。何も、自分が危険をおかして川に飛び込むまではしなくても、大声で人を呼ぶなり、携帯で119するなりしてもいいではないか。それが良識である。しかし、確かに、それをしなかったからといって罰するというのも、またおかしい。まあ、マスコミに知られたら、冷たい人として非難されることはあるだろう。マスコミも権力のようなものである。さらに、自分に、急ぎの用があったりした場合には、罰するというのは、おかしい。ただ、日本国民である以上、日本国民としての権利と義務というものは、あるはずである。急ぎの用がない場合、日本国民としての良識的義務としての責任というものは、日本の法解釈では、無い、としている。ということになる。
この法律は実は江戸時代からあって、木枯らし門次郎は、それを知っていたので、「あっしにゃあ関係のねえこってす」と言って素通りしたのである。まあ、溺れている人間が、実は泳げて、溺れている演技をしているだけで、人を溺死させて、有り金かっさらおうという悪人である、ということだって考えられないわけではない。
中国でも、「君子。危うきに近寄らず」と論語で孔子が言っている。