小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

バンパイヤ・テニススクール

2010-12-29 16:45:43 | 武道・スポーツ
儲け主義を優先させると怪我人を多くする。と昨日、書いたが、それは昨日まさに、その光景を目の当たりに見たからである。私はどうも、おりこうさんの大人にはなかなか、なれなくて、(なろうとは努力しているのだが)たいした事じゃないなら、諍いを起こさないために黙っているが、あまりにもひどいと、つい口が出てしまう。そのため人生でかなり損をしている。私は、スクールに行く前に、おっかしなルールをつくっているので、来年からどうするかに迷って、「儲け主義を優先させると怪我人を多くしますよ」と言ってしまったのである。

それでスクールに行ったら、となりのコートで一人の高齢者が、コーチと二人でレッスンしているのを偶然、見たのである。その老人は、何か体調が悪いか、体力が衰えて息切れしているのか、関節痛があるのか、で、コーチと二人きりでのレッスンだったが、老人は全くついていけず、はじめは休み休みやっていた。それでも、ついていけず、ついにベンチに座って会話をするようになった。「休み休みやりましょう」とでも言ったのだろう。技術も、とても中級者とはいえず、初級者のレベルである。長年、続けているために、いつまでも初級者では格好悪いから、相手の体裁のために実力がなくても中級者としたのだと察する。武道で言えば、名誉段というか、功労賞というか。そういう類だろう。それも危険である。コーチは莫迦の一つ覚えのサービスを手本として見せていた。ついに、老人は途中で引き返し、レッスンは中止となった。

年をとるにつれて椎間板の水分は減っていくのである。体力が落ちていくのである。運動機能、全般が低下していくのである。体に問題がある時は休む。こんなのは当たり前である。自分の健康は本人が一番よく知っている。それなのに、なぜスクールに来たのか。休むと、無駄に金だけ払い続けるだけになるから、勿体ないと思って、無理してやって来たのだろう。体を鍛えようと、定期的に自分の意志で積極的に来ている人なら、運動は健康にいい。しかし、週一回で、何となく続けていて、やめられないルールを作ってしまうと、「今日は休みたいな」と思っても、こういう事態を作るのである。この場合、運動は、百害あって一利なし、である。腰痛や、大体骨頭骨折、脊椎分離、すべり症などを起こしかねない。プロスポーツ選手のように、いつも体力を鍛えていれば、デッドボール(野球の場合)をうけても、クーリングして、続けることは出来る。しかし、何となくの惰性で通っている老人では話が全く違う。やめられないようなルールにしているスクール管理者が悪いのである。他人が怪我して、車椅子や寝たきりになっても知ったこっちゃなく、自分らが金をいかにとるか、という儲けしか考えていないなら、バンパイヤ(吸血鬼)テニススクールとでも名前を代えた方がいい。

実際、以前、ある生徒が大きな怪我をしたらしい後に、コーチは、「あの人、もうダメだよねー」とあっけらかんとした他人事のような口調で言っていた。

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具一寿

2010-12-29 13:26:20 | 武道・スポーツ
実戦カンフーの達人、具一寿氏は、次のようなことを述べている。

「日本には、才能も素質もない中国拳法師範が多くの書籍を著わし、単純な感化されやすい人々に先生と呼ばれて得意になり、凡人には理解が困難な理論でまくしたて、われこそは真正拳法家という顔をしてのさばっている。しかし、氏の著わした理論などは正しい面が多いが、氏の演ずる写真を拝見すると思わず吹き出してしまう。氏が学んだ師は名人であるかもしれないが、氏のつきでた尻とみずから敵の打ちやすい所へ技をかける戦闘法は素人には区別できずとも真のカンフーを学ぶ者なら、見抜く事は容易である。またある氏は空手の威力で戦い、カンフー服を着てあたかもカンフーであると書籍を著わしている。またある氏は、柔術で戦う自分が最強であるかのような顔をしているが、ある著名な拳法家に食い物にされた人である。三氏のうちで才能も素質もない前者よりも後者二人の良い所は、後者二人はそれぞれ、違う武術を長い間訓練しているので写真など見ても隙がない。ただ二人にはカンフーの才能がない。一方前者は、写真やビデオテープで見ると隙だらけで、現在名師になってしまったのは、憲法界の七不思議の一つである。真のカンフーを訓練する者の間では、彼らを肴にして語られる場合が多く、またこのような者を素人のうちに見抜ける者はたいへんな才能を備えていると言えよう。」
(具一寿「中国拳法戦闘法」より)

前者とは、松田隆智さんのことである。後者の、空手家とは笠尾恭二さんのことである。柔術家とは、佐藤金兵衛さんのことである。

「このような者を素人のうちに見抜ける者はたいへんな才能を備えている」というのはちょっと大げさである。たいへんな才能などなくても見抜くことは出来る。それより技術が十分でない人を肴にして笑いものにするという、つまらないことをしている人間の方が人格的に問題がある。人格に問題があると思考能力にも欠点が出てくる。氏の理論にも多くの誤りがある。氏の「筋肉を鍛えるトレーニングは避け、特にキャットストレッチや、腕立て伏せなどで、背中と胸に筋肉をつけてしまうと、強力な打撃が打てないばかりか一生、カンフーと言うものは出来なくなる恐れがある。」という見解は全くの誤りである。本人がしっかりと目的とするものを獲得しようとする意志をもっていれば可能なのである。松田隆智さんは人格がしっかりしているから、人格のしっかりしている人を、私は批判する気には全くなれない。カンフーの基本の手の形の、掌と拳を合わせる形の意味は、(色々あるが)技術と基礎体力の両方が大切である、という意味でもあるのである。

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しごき論

2010-12-29 12:43:55 | 武道・スポーツ
空手の指導者を指導している南郷継正氏は、指導者の指導能力のなさをボロクソに批判している。氏にも、いくつかの誤りはあるが、大筋では正しい。氏を天才と呼んでも間違いではないと私は思っている。氏の「しごき論」の中の文の一部を引用しよう。

「ところが、技には創りあげる期間をおかねばならない、また、崩れやすいものであるということが理解できぬ指導者は、その技を創ることの中身が全然わからないために、使い方さえうまくなれば、それでまともな上達コースを歩いていると信じてしまって、「しごけ」ば強くなるものだから、「しごき」を万能と思い、それでまともな上達コースを辿っているとばかりに思いこんでいるものである。そしてその選手のお粗末な技の限界がやってくると、努力が足りないとか、もっと「しごか」ねばとか、肝心のお粗末な技のことなど全然省みもしないか、或いは、技をモデルチェンジするときにおきる大いなる障害をどれほどのものかも知りもしないで、技を直してやったのに、なぜ直してやった通りに使えないのかとか、直した技を使いきっていないと、あいつは才能がないのだとか、ともかく、自己の指導能力が0点なのを棚に上げて選手を叱りとばすのが、プロ野球コーチ諸君の大半なのだと言ったら、彼らは怒りだすであろうか。」
(南郷継正「武道の理論」より)

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