小説家はいつも死と隣り合わせである。(少なくとも私は)たとえば、プロスポーツ選手がスランプになって、スランプから抜け出せなくなったら、お払い箱のように、小説家も、小説が書けなくなったら死にたくなってくる。ただプロスポーツ選手と違って、小説家は、待つゆとりが与えられているだけ、プロスポーツ選手よりめぐまれている。
テニスは、そろそろ厭きてきた。出来るものをやっていても、面白くない。同じことを繰り返してるコーチがアホにみえる。しかし、家から近くて、手軽に、いつでも、夜も出来て、インドアなので雨の日も出来る運動といえば、ここのテニススクールしかない。なので、体を鍛えるためには、退屈でもやるしかない。
覚醒剤は一度、覚えたらやめられない。なぜなら、人間は誰しも、幸福や快感をもとめているからである。逆に言えば、幸福や快感を求めていない人間はいない。セックスの快感は言うまでもないことだが。学問や芸術などの志の高い夢の実現も、それを達成した時に起こる快感こそが、幸福感だからである。幸福感という点では、セックスしている人間の幸福感と、学者や芸術家の幸福感に、違いはない。ランナーズ・ハイとか、色々なハイ現象があるが、脳から麻薬が出でいるからである。幸福感を得ることが人間の生きてる目的だから麻薬や覚醒剤というものは、一度、その味を覚えたら、一生、やめられないのである。
どんな運動でも上級者のフォームは美しい。しかし美しさ、というものは結果として現われるものである。だから、運動の練習においては、フォームの「美しさ」を目的するのでなく、合理的な力の出し方を求めるべきなのである。「美しさ」は、技の正しさの結果、現われてくるものである。なら、「美しさ」は、全く意識しなくてもいいか、といえば、そうは言えない。なぜなら、パワーの量や、勝つことだけを考えていると、フォームなど、どうでもいい、ということに、おちいる可能性があるからだ。パワーがあっても、自己流。勝っても自己流、ということは、起こりえることである。ほとんどの人は、運動において、「美しさ」というものを最終目的にしていないだろうし、それでいいのであるが、また、そうあるべきなのだが、「美しさ」とは、「フォームの正しさ」であり、「フォームの正しさ」とは、「合理的な力の出し方」なのである。だから、正しいフォームに到達するためには、フォームの美しさ、ということも、少しは意識すべきなのである。その意識が、少しでもあるか、ないかは大きな違いである。
以前、マット運動が出来る体育館で、バク転の練習をしたことがあるが、ある人は、連続バク転が出来たが、フォームがあまりにも、普通の連続バク転と違いすぎる。首の骨を折りそうで危険である。まあ、折らないだろうが。自分がどんなフォームか、鏡やビデオで見てみることが必要である。「美しさ」や「フォーム」というものを全く意識しないと、出来ても、その運動のあるべき合理的な力の出し方の動作にならないことがある。
以前、マット運動が出来る体育館で、バク転の練習をしたことがあるが、ある人は、連続バク転が出来たが、フォームがあまりにも、普通の連続バク転と違いすぎる。首の骨を折りそうで危険である。まあ、折らないだろうが。自分がどんなフォームか、鏡やビデオで見てみることが必要である。「美しさ」や「フォーム」というものを全く意識しないと、出来ても、その運動のあるべき合理的な力の出し方の動作にならないことがある。
世の中には詐欺まがいの商法が多くある。その一つに斡旋業がある。雇用者と被雇用者の仲介をして、仲介料でもうける仕事である。医者の斡旋をしている会社もいっぱいある。今はナースや薬剤師の斡旋もするようになった。50社以上、無数にある。病院が斡旋業者に求人を申し込み、医者が応募するというものである。昔、斡旋業者が少なかった頃は儲かっただろう。なんせ、常勤医を一人、ろくでもない田舎の病院に、売り飛ばす、じゃなくて、紹介すると、ピンハネ屋、じゃなくて斡旋業者は400万円も、もうけられるのである。一人、医者を斡旋すれば、もう一年、働かなくてもいい。遊んで暮らせる。確実に医者より儲けてた。しかもネットでホームページを作るだけで、病院の方から求人以来してくるから、金も手間もかからない。しかも、もうかる。しかしである。儲かる仕事と聞くと、ちょうど芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように、というか、砂糖に群がるアリのように、というか、我も我もと、次々と同業者が出来てくる。病院の方では、かけもちで、というか、ほとんど全ての斡旋業者に求人を依頼しているだろうから、こうなると斡旋業者の間で競争が起こり、商談成立が簡単ではなくなってくる。募集している病院が、どの病院かは具体的には書けない。書いてしまうと、応募者がそこに電話して、話がまとまってしまうから斡旋業者は商売が出来なくなってしまうからである。そこでキャンセル商法というのを無い知恵しぼって考え出した。商談がまとまった後でキャンセルすると、キャンセル料を払う条件をつけるのである。このキャンセル料は給料の全額である。まあ、自由主義経済国家では、契約自由の原則があるから、どんなえげつないことをしても法に抵触しない限りかまわない。しかし、このキャンセル商法に目をつけて、えげつないことをしている所も、かなりある。というのは、募集している病院の実名は出せない。それをいいことに、もう応募が決まったと分かっている病院の募集でも、会社に力が無くて、ほとんど商談成立できないと自分でもわかっている斡旋業者は、病院からの募集を出しておくのである。商談は、もう決まってしまいました、という返事を何日も待たして応募者を焦らす。そして応募者がキャンセルするのだけを、待つのである。見事、ひっかかかれば、(複数人ひっかけることも出来る)何の手間も金もかけないで大金を手にすることが出来る。
やろうと思えば、募集が実際にはなくても、募集している病院があるとアップすることも出来る。こうなると完全なインチキだか、さすがにそこまではしていない。だろうと信じたいものである。だが、やろうと思えば何の問題もなく出来る。だが、もう決まった募集でも出しておくというのをやってる所はある。その目的は一つはキャンセル商法のためであり、もう一つは、八百屋と同じで、野菜が少ししか置いてない八百屋は野菜がたくさんある八百屋と比べると見劣りしてしまうからである。さびれた個人商店なのに大手スーパーのように見せかけるためである。ある力のない斡旋業者に電話でそのことを言ったら、数時間後に、ネットから求人が全部、消えてしまった。思わず笑ってしまった。
良識的に考えれば。ある商品を買うと、売り手と買い手が約束したとする。ここで、買い手が途中で気が変わって、買わないと言ったら、それは買い手の方の責任だから、キャンセル料をとるというのは、おかしくない。しかし、売り手が商品をなくしてしまったり、他の人に売ってしまったりして、商品が売り手の責任でなくなってしまって、そして、なくなっている事を知っている上で、相手が気づかないことをいいことにキャンセル料を取るというのは、おかしいことである。法的にはどうだか知らないが、振り込め詐欺に等しい。だから良識のある斡旋業をしようというのなら、情報をいち早く応募者や閲覧者に伝える迅速さをもつかどうかである。
やろうと思えば、募集が実際にはなくても、募集している病院があるとアップすることも出来る。こうなると完全なインチキだか、さすがにそこまではしていない。だろうと信じたいものである。だが、やろうと思えば何の問題もなく出来る。だが、もう決まった募集でも出しておくというのをやってる所はある。その目的は一つはキャンセル商法のためであり、もう一つは、八百屋と同じで、野菜が少ししか置いてない八百屋は野菜がたくさんある八百屋と比べると見劣りしてしまうからである。さびれた個人商店なのに大手スーパーのように見せかけるためである。ある力のない斡旋業者に電話でそのことを言ったら、数時間後に、ネットから求人が全部、消えてしまった。思わず笑ってしまった。
良識的に考えれば。ある商品を買うと、売り手と買い手が約束したとする。ここで、買い手が途中で気が変わって、買わないと言ったら、それは買い手の方の責任だから、キャンセル料をとるというのは、おかしくない。しかし、売り手が商品をなくしてしまったり、他の人に売ってしまったりして、商品が売り手の責任でなくなってしまって、そして、なくなっている事を知っている上で、相手が気づかないことをいいことにキャンセル料を取るというのは、おかしいことである。法的にはどうだか知らないが、振り込め詐欺に等しい。だから良識のある斡旋業をしようというのなら、情報をいち早く応募者や閲覧者に伝える迅速さをもつかどうかである。
スウィングガールズという2004年の映画を見た。わりと面白い。私は8回のシナリオ教室にも出たことがあるので、シナリオの書き方は知っている。シナリオ教室は面白く、勉強になった。自分の書きたい小説を書くのはマスターベーションだから、やめろ、とか、枷が大事、とか言っていたが、こういう事は、直観力で、教えられる前からわかっていた。
私は、女子高校生は太腿が太すぎるので、また、スレッカラされはじめてくるので、あまり好きではないが、彼女らは太腿が太すぎなかったので、好感が持てた。
些事の小さなユーモアの連続を、語り手が淡々と語ることで面白くしようとしている手法である。
私はジャズは、高度なのになるとわからないが、映画に出てくる、「シング・シング・シング」とか「イン・ザ・ムード」とかは、わかるし、心地いい。ジャズはコントラバスの低い重い音が、目立たない土台で、指揮者のように全体のリズムをとっているようで、あれが好きである。
私は、女子高校生は太腿が太すぎるので、また、スレッカラされはじめてくるので、あまり好きではないが、彼女らは太腿が太すぎなかったので、好感が持てた。
些事の小さなユーモアの連続を、語り手が淡々と語ることで面白くしようとしている手法である。
私はジャズは、高度なのになるとわからないが、映画に出てくる、「シング・シング・シング」とか「イン・ザ・ムード」とかは、わかるし、心地いい。ジャズはコントラバスの低い重い音が、目立たない土台で、指揮者のように全体のリズムをとっているようで、あれが好きである。
私は女とほとんど話が出来ない。そういう人は私以外でもいると思う。なので、そういう人の心理を私の心理を言うことで、わけのわからない人の心理を察して欲しいと思って書こう。私は大学の時も、卒業して就職してからも、女と全く自然な話が出来ない。なので、私は硬派な男だとか、女を嫌っている人間とまで誤解された。しかし私は硬派ではない。いつも女を心の中で想っている。私の書く小説にしたって女の出ない小説など書く気になれない。なのに、私は女と話が出来ないのである。といっても、これは状況による。私は女と二人きりなら、自然にいくらでも話が出来るのである。何も私が話題が豊富なわけでもない。私は世のあらゆる事に興味をもっているから、義理ではなく、話を聞くのが好きなのである。しかし、多くの男女がいる中だと、つまりは、ある組織の中だと、女と全く話が出来ないのである。これは、私が女と親しく話しているのを、人に見られるのが、耐えられないからである。女とデレデレしているのを他人に見られたくないのである。だから話せないのである。つまりは私の軟派な性格を他人にさとられるのを怖れているのである。だから女と二人きりなら、他人に知られることがないから、自然に話せるのである。しかし、私は自分が軟派な男なのかどうかも、実はよくわからない。私は、女に見向きもしない硬派な強い男とか、女と付き合っても、甘えたり、ネチネチ女を意識したりしない男らしく堂々とした男に憧れて、そうなりたいと思っているからである。つまりは、現実では、心の中では、軟派な性格だけれど、硬派な男になりたいという理想を持っているのである。現実と理想が、大きく違っているのである。
つくづく人間は自分のことがわからないものだと思う。
つくづく人間は自分のことがわからないものだと思う。
私はテレビドラマを全く見ない。なので的場浩司は、はいすくーる落書き、しか見ていない。あれは良かった。的場浩司とは、ひとことで言って、抜き身のドスなのである。狼や虎が生まれつき気性が荒々しいように、氏は、生まれつき狼のような性格なのだ。確かに、リングの中でルールのあるボクシングの試合をしたら彼はプロボクサーには勝てないだろう。しかし、ルールのないケンカではその保証はない。口より手が先に出るタイプである。おそらく彼は暴力団事務所に一人で殴り込みをかけられるのではなかろうか。おそれを知らぬ人間である。武術家というのは実は強い人間ではなく、弱い人間であり被害妄想患者であり、たえず脅えているのである。弱いから自分を守る武器を身につけなくてはならないのである。しかし氏には、わからない面が多々ある。はいすくーる落書き、で、なぜ斉藤由貴をかわいい、と思わないのか疑問だった。好みのタイプではなかったのか。彼女のような女は、男なら、みな、憧れると思うのだが。松田勇作は、全てが理解できる。理解できない所はない。松田勇作は気性が強いが、抜き身のドスではない。ユーモアがあり、女も好きである。やはり的場浩司は本当の硬派で、異常な潔癖症であり、理解が難しい人間である。
同情というのは、共感に対して、劣る感情だが、同情する人というのは、自分の価値観で、つまりは荒削りに他人を見ている場合が多い。相手の価値観とか、相手の立場になってデリケートに相手を見ようとすると、相手が即物的に不幸な立場であっても、同情の気持ちが起こらなくなる事もある。即物的に不幸な立場であっても、精神が満足している人、精神が活き活きとしている人には、同情という劣った感情は起こらなくなることもある。
私が尊敬する人間の基準は、その人の能力ではなく、もっぱら人格、人間性である。きれいごとのようだが本当である。能力というのは、天分の才能のによると思われがちだが、それは違うと思う。人格にも、色々な徳があるが、真面目とか情熱とか努力とかも人格の一つの徳である。努力する人間というのは、何事に対しても真剣で一心不乱に頑張るから、能力がめきめき上がっていくのである。だから能力のある人をも私は尊敬する。どんなに才能があっても、遊んでいて、上手くなることはない。
例などいくらでもある。たとえば私は、ユーミンを尊敬するが、確かに彼女は、音楽感覚が先天的に優れているのだろうが、遊んでいて、あれほど、たくさん優れた曲は作れないだろう。常に新しいものを探し、頭を酷使して考えぬいているからこそ、優れた曲が作れるのだろう。だから頭がヘトヘトに疲れる日々を送っていると思う。ビートルズとかサザンとか、その他、全ての作曲家も同じである。
一曲、優れた曲を作って一世風靡しても、一曲だけでおわってしまう人もいる。そういう人は、あきらめずに作曲をつづけていれば、まだまだ可能性があったかもしれない。
文学では谷崎潤一郎がいい例である。谷崎の初期作品は美的価値はあっても、それ以外の価値は少なかった。谷崎は全てを書きつくしてしまうと、だんだん作品の質が低下していった。それでも谷崎はあきらめなかった。筆を捨てなかった。そのため谷崎はスランプを克服し、初期作品を上回る美的価値以上の芸術作品を作り出した。「猫と庄三と二人の女」「春琴抄」「痴人の愛」など実に素晴らしい。
徳田虎男にしても、彼は秀才ではなかった。人並みの学力しかなかった。しかし彼は超人的な努力家で、一日16時間勉強することを自分に課し、それを実行し、大阪大学医学部に入った。
だから私は能力とは人格だと思っている。
例などいくらでもある。たとえば私は、ユーミンを尊敬するが、確かに彼女は、音楽感覚が先天的に優れているのだろうが、遊んでいて、あれほど、たくさん優れた曲は作れないだろう。常に新しいものを探し、頭を酷使して考えぬいているからこそ、優れた曲が作れるのだろう。だから頭がヘトヘトに疲れる日々を送っていると思う。ビートルズとかサザンとか、その他、全ての作曲家も同じである。
一曲、優れた曲を作って一世風靡しても、一曲だけでおわってしまう人もいる。そういう人は、あきらめずに作曲をつづけていれば、まだまだ可能性があったかもしれない。
文学では谷崎潤一郎がいい例である。谷崎の初期作品は美的価値はあっても、それ以外の価値は少なかった。谷崎は全てを書きつくしてしまうと、だんだん作品の質が低下していった。それでも谷崎はあきらめなかった。筆を捨てなかった。そのため谷崎はスランプを克服し、初期作品を上回る美的価値以上の芸術作品を作り出した。「猫と庄三と二人の女」「春琴抄」「痴人の愛」など実に素晴らしい。
徳田虎男にしても、彼は秀才ではなかった。人並みの学力しかなかった。しかし彼は超人的な努力家で、一日16時間勉強することを自分に課し、それを実行し、大阪大学医学部に入った。
だから私は能力とは人格だと思っている。
押尾学の事件で、保護責任者遺棄致死という罪があるのを知った。それまでは知らなかった。裁判員制度の導入で何か裁判が迅速化しすぎてしまっているように思う。それが目的で、裁判員制度が導入されたのか。
血中濃度はウソをつかない、という被告側の医者の証言が大きなインパクトを与えたようだが。なら動物実験をしてみれば、本当の真実、パーセントはより正確にわかる。つまり実験動物に、被害者と同じ血中濃度の合成麻薬を投与し、救急車で運んで、何パーセント蘇生させることが出来るか、実験してみればいい。なぜ、それをしないのか?少なくとも2~3回は簡単に実験できる。机上の理論だけで、パーセントを決めているのは、おかしい。まあ、こういう場合、本当に厳密に真実を突きとめようとしたら、時間をかければ、かけるほど真実が正確にわかる。
法律は日常の良識とは食い違う場合がある。たとえば川で子供が溺れていても、それを通りかかって見た人は、保護する責任がなければ素通りしても、何の罪もないことになる。しかし、これは良識ではちょっとおかしい。何も、自分が危険をおかして川に飛び込むまではしなくても、大声で人を呼ぶなり、携帯で119するなりしてもいいではないか。それが良識である。しかし、確かに、それをしなかったからといって罰するというのも、またおかしい。まあ、マスコミに知られたら、冷たい人として非難されることはあるだろう。マスコミも権力のようなものである。さらに、自分に、急ぎの用があったりした場合には、罰するというのは、おかしい。ただ、日本国民である以上、日本国民としての権利と義務というものは、あるはずである。急ぎの用がない場合、日本国民としての良識的義務としての責任というものは、日本の法解釈では、無い、としている。ということになる。
この法律は実は江戸時代からあって、木枯らし門次郎は、それを知っていたので、「あっしにゃあ関係のねえこってす」と言って素通りしたのである。まあ、溺れている人間が、実は泳げて、溺れている演技をしているだけで、人を溺死させて、有り金かっさらおうという悪人である、ということだって考えられないわけではない。
中国でも、「君子。危うきに近寄らず」と論語で孔子が言っている。
血中濃度はウソをつかない、という被告側の医者の証言が大きなインパクトを与えたようだが。なら動物実験をしてみれば、本当の真実、パーセントはより正確にわかる。つまり実験動物に、被害者と同じ血中濃度の合成麻薬を投与し、救急車で運んで、何パーセント蘇生させることが出来るか、実験してみればいい。なぜ、それをしないのか?少なくとも2~3回は簡単に実験できる。机上の理論だけで、パーセントを決めているのは、おかしい。まあ、こういう場合、本当に厳密に真実を突きとめようとしたら、時間をかければ、かけるほど真実が正確にわかる。
法律は日常の良識とは食い違う場合がある。たとえば川で子供が溺れていても、それを通りかかって見た人は、保護する責任がなければ素通りしても、何の罪もないことになる。しかし、これは良識ではちょっとおかしい。何も、自分が危険をおかして川に飛び込むまではしなくても、大声で人を呼ぶなり、携帯で119するなりしてもいいではないか。それが良識である。しかし、確かに、それをしなかったからといって罰するというのも、またおかしい。まあ、マスコミに知られたら、冷たい人として非難されることはあるだろう。マスコミも権力のようなものである。さらに、自分に、急ぎの用があったりした場合には、罰するというのは、おかしい。ただ、日本国民である以上、日本国民としての権利と義務というものは、あるはずである。急ぎの用がない場合、日本国民としての良識的義務としての責任というものは、日本の法解釈では、無い、としている。ということになる。
この法律は実は江戸時代からあって、木枯らし門次郎は、それを知っていたので、「あっしにゃあ関係のねえこってす」と言って素通りしたのである。まあ、溺れている人間が、実は泳げて、溺れている演技をしているだけで、人を溺死させて、有り金かっさらおうという悪人である、ということだって考えられないわけではない。
中国でも、「君子。危うきに近寄らず」と論語で孔子が言っている。
グランドストロークのフォアハンドはそれなりに出来るのにサービスが上手くない人がいる。これは疑問である。なぜなら、フォアハンドとサービスは、ほとんど同じ原理なのである。横向きのスタンスも同じであるし、体重移動、腰の回転、手首のスナップ、プロネーションと運動要素が同じである。野球で言えば、サービスはオーバーハンドの投げ方なのに対し、フォアハンドはサイドスロー、またはアンダースローの投げ方といえる。サービスはテニスで唯一、一人で練習できるものである。コートでやった方が、ずっと効果があるのだが、壁打ちでも出来る。サービスが出来るようになったからといって、即、フォアハンドも上手くなるわけではないが、そういう人は、一人で練習するというとをしない人なのだろう。