小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

内川聖一

2012-01-20 16:53:33 | 武道・スポーツ
内川聖一選手のブログを見たら、内川選手の奥さんの、元アナウンサーの翼夫人が妊娠五ヶ月だそうだ。男の子か女の子かは書いてない。私としては女の子であって欲しい。なぜなら、男の子だったら、父親に憧れて、プロ野球選手になりたがる可能性が強くなると思うが、絶対、父親ほどの選手にはなれないだろうから。なんせ、父親は日本一のバッティング技術を持った、日本一のバッターだからだ。翼夫人のような、綺麗な女の子が生まれて、将来は、女子アナウンサーか、女優になって欲しいものである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隠し砦の三悪人

2012-01-19 18:40:20 | Weblog
昭和33年の作品を見た。もちろん私はまだ生まれていない。紅一点の上原美佐がかわいい。(同姓同名の女優がいる)監督は黒澤明である。やはり三船敏郎は貫禄がある。姫が合戦で敵方に敗れて、家臣と、足軽二人をつれて、村人の格好をして逃げるという話である。頼朝に追われて山伏の身なりをして逃げる義経の「勧進帳」がヒントになっているような気がする。それとオードリー・ヘップバーンの「ローマの休日」とも似通うところがあるような気がする。しかし私は、足軽二人が、寝ている姫にエッチな心を出す所が面白かった。

黒澤明は、
「シナリオを書くとき、結末がわかっていて書くのはつまらないという考えである。だいたいのストーリーはあっても、書いゆくうちに作中人物が生命を得て行動しはじめ、予定とは違う方向に行きはじめたりする。そうであってこそ作品が生きる。だから明日のことはわからないほうがいい」
と言っている。

新聞とか雑誌に連載している小説は、ほとんどこうなのではなかろうか。安倍公房も、この方針で小説を書いている。

一方、三島由紀夫の小説は、ラストがビシッと決まっている。三島由紀夫はラストがまず思いついてから、書くタイプの作家なのではなかろうか。菊池寛もラストがビシッと決まっている。面白い小説を書くには、ラストから考えてストーリーを作るべきだ、と主張する人もいる。その是非は、ともかくとして、菊池寛はラストがビシッと決まっているのに、素晴らしい、面白い作品がほとんどである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

生徒も盲目

2012-01-18 06:46:53 | 武道・スポーツ
また、これはゴルフでよく見かけることであるが。ある程度、打てる人で、もっと上手くなりたいと思っている人で、上手くなる一番いい方法は、トッププロに教わることだと思っている人が、多くいることである。そういう人は、トッププロに教えを受けられる機会が与えられると涙を流して喜ぶ。しかし、それは多くの場合、違うのである。金を無駄に払うだけである。トッププロというのは、基本はマスターしている。そして、自分の体格や筋力、性格などの特性を考えて、それに合うように、アレンジした、独特のフォーム、オリジナルテクニックである場合が多いのである。これはクセではなく、自分の個性の発見、研究、達成の結果である。あらゆる芸事においていえる、「守、破、離」の「離」のフォームなのである。中級者には、中級者の自分の体の特性がある。より上手くなるためには、自分の特性を考える、ということが大事なのである。トッププロは、指導者ではない。そして、トッププロは、えてして、自分が到達した「離」の技術を人に伝えたがる傾向があるのである。それは、もっともな心理で、苦労して、努力して、工夫して、掴みとった、自分にとっての非常に貴重な技術だからである。しかしその技術は、トッププロには価値があっても、それを体格も体質も異なる人が、一心に聞いて忠実に実行しようと練習すると、かえって下手になってしまいかねないのである。大切なことは、自分にとっての真理を発見するということである。
「あらゆる知識は本当は自らを知ることである」(ブルース・リー)
では、優れたコーチとは。それは、ゴルフならゴルフの技術の基本はちゃんとマスターしている人。これだけは最低限の条件である。ただ、その人は、別にトッププロである人である必要は全くない。プロでなくてもアマチュアであっても、一向にかまわない。そして運動神経は、優れているより、むしろ普通の程度の人の方がいいのである。なぜなら、その人は、ゴルフを身につける過程で、様々な技術の獲得に、悩んで、工夫し、それを克服しててきたのだから、難しい技術を身につける方法を知っているからである。そして、その生徒の特性を理解し、その人にとっての「離」を指摘してやることの出来るような柔軟な思考の出来る本質的に頭のいい人が、コーチとしてはいいのである。さしあたって、そういう頭のいい人は、ちょっと思いつかないが、あえていうなら、それは私である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トレーニング

2012-01-17 23:11:21 | 武道・スポーツ
一時間半、トレーニングする。冬は寒いけど、体力が出る。4kmのランニングと、筋トレとストレッチ。ランニングは、時速10km/hで走り、疲れたら、時速6.5km/hにする。腕立て伏せも、やろうと思えば、60回は出来るだろう。今日は火曜日。剣道と書いてあったので、見にいったら、この前の居合いだった。二回は、やらせてくれなかった。だが一回で十分である。木刀でも買って、型を練習しようかとも思う。合気道とも書いてあって、一人、袴を履いた人がいたが、体験はさせてもらえなかった。体をもっと動かしたかったので、夜テニスをした。コーチは、あいかわらずバカである。火曜日の夜は、きれいな女の人(当然、主婦で子供も、中学生くらいなのではなかろうか)が、週一テニスをしている。手の力だけで、プロネーションを使ってラケットをかぶせて打って、それなりに、出来ている。サービスは、薄い握り(コンチネンタルグリップ)にすべきなのだか、クセで、フォアハンドの握り(イースタングリップ)で打っている。コーチとのラリーが終わった後、コーチは、ワンポイント、何かアドバイスするのだが、彼女には、何と言っているやら。どうせ、バカげた、技術的な同じ事の注意だろう。

そもそも頭のいい人間なら、もっと頭脳を使う仕事をするはずで、スポーツコーチなんてバカな仕事には就きゃしない。

私はこう思う。「彼女には何も注意する必要はない」と。彼女は、体力維持や美容健康のために、テニスを続けているのは間違いない。それが目的なんだから、そして、ちゃんと打ち合えるのだから、それでいいじゃねえか。健康のため、運動を続けているだけ、立派である。

私が唯一、尊敬する、武道、スポーツ指導者の南郷継正氏は、「モデルチェンジは不可能」と書いている。つまり、いったん、出来上がったフォームを変えるのは、不可能と言っている。氏は、多くの生徒を実際に指導して、見てきているので、ほとんどのケースで、そうなのだろう。つまり、彼女は、長年かけて、手の力だけで打つフォームが出来上がっているので、コーチがいくら注意しても、直りはしない、とは私も感じているところである。しかし、それでいいじゃねえか。テニスを続けている目的が、健康のためなんだから。毎回、毎回、おんなじ事を注意されては、嫌になりかねない。運動は健康のために、しないよりは、した方がいい。初心者では、そういうコーチのバカな、同じことの繰り返しの注意に、ウンザリして、やめていく人もいる。儲け主義だけのテニススクールなのに、儲け方も下手である。私には彼らが白痴に見えて仕方がない。

ただ私は、南郷継正氏の、モデルチェンジ不可能説には異論を持っている。多くの人ではモデルチェンジは極めて難しいだろうが、一部の才能とやる気のある人では、モデルチェンジは可能であると確信している。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ピッチング

2012-01-16 18:03:40 | 武道・スポーツ
バッティングセンターで打てるようになって、気持ちはいいが、もうバッティングは厭きてきた。で、欲が出てきて、前からピッチングも出来るようになりたいと思っていた。小学生の時は、少し野球はやったので、キャッチボールは出来た。しかし、それ以後、野球など全くやらなくなったため、今では、上手く投げれない。強肩の反対で、弱肩もいいとこで、ピッチャーマウンドからキャッチャーの位置に投げるのが、精一杯である。コントロールもない。投げる練習は、壁に向かって投げればいいのだから、どこでも出来る。しかし、やる気がしない。面白くないからである。そこで気づいたこと。

始球式の時、野球の素人の大抵の人はストライクを投げられない。どんなに遅い球でも、ストライクを投げられたら、拍手が起こるだろう。始球式の前に投球練習を、しているはずである。もし、プロ野球の選手かコーチが指導しているとしたら、大変な疑問がある。野球の素人でも、数時間、練習すればストライクくらい、投げられるはずである。物を投げる、という運動は特殊な運動ではない。運動など全く無縁の仕事の人でも、ゴミ箱にゴミを投げ入れたり(これはアンダースロー)、犬を飼っている人なら公園で物を遠くに投げて犬に拾ってこさせたり、旅行で川や海に行ったら、石を遠くに投げたりすることは、あるはずである。人に物を投げて渡す、ということだって、する機会はあるはずである。ではなぜ始球式でストライクが投げられないか。

私はこう思う。
それは、始球式で投げる人は、野球選手のピッチャーの真似をして、ワインドアップから、あるいはセットポジションから、ピッチャーの投げ方の真似をして投げている人がほとんどだからである。始球式では、そうしなければならない、という固定観念に無意識のうちに、とらわれているからである。しかし、そうすると、かえって、スピードもコントロールも下手になってしまうのである。野球の素人は体の力を使って投げるという技術がないのだから、大きな動作は、かえって無意味であり、逆効果であり、投げるという運動を下手にしてしまっているのである。だからスピードもコントロールもない球になってしまうのである。では、どうすればいいか。それは、最初から、もっと正面を向き、キャッチボールの感覚で投げた方がいいのである。その方が、スピードもコントロールも、ずっと良くなるだろう。ストライクに投げることも、出来うる可能性が高くなる。

これはテニスのサービスで言われていることであるが。サービスは無理に体の力を使わなくても、手の動作がしっかりしていれば、かなりのスピードのあるサービスが打てるのである。手の動作がサービスの基本であり、体の力を使ったサービスは、手の動作がしっかり出来てから、身につけるべきなのである。

野球選手の場合は、どこのポジションの人でも、体の力を使った、スピードとコントロールのあるボールを投げる技術がある。サードや、他の内野手は、ゴロをファーストに素速く正確に投げなくてはならないし、投げれるのである。キャッチャーは、二塁へ盗塁するのを阻止するため、ピッチャーなみに、強肩でコントロールが良くなくては、つとまらない。外野手もバックホームのために、強肩でコントロールが良くなくてはならない。だから、野球選手なら、どこのポジションの人でも、いきなり投手をやってみろ、と言われても、速い球のストライクは投げられる。野手の人がピッチャーにコンバートするのも、そう難しくはないだろう。野球選手なら誰でも体の力を使って投げるという技術を身につけているのだから。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒い

2012-01-16 09:49:59 | Weblog
寒い。ドッ寒い。去年の12月から、年が明けて1月も、ドッ寒い。今は、ちょうど小寒(6日)と大寒(21日)の間である。二月はどうなるか。関東でも、ドッ寒い。東北や北海道では、耐えられないくらい寒いだろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

センター試験

2012-01-15 23:19:35 | Weblog
受験生の皆さん。お疲れさま。マッサージしてあげたいくらいである。頑張ってる人は好きである。二次試験も頑張って下さい。私も大学受験の時は非常に緊張した。もちろん一生懸命、勉強した。食って、垂れて、寝る、以外は、すべて勉強の毎日だった。今、思うと、適度に息抜きした方がよかったと思っている。私にとっては、大学受験よりも医学部に入ってからの、病気と闘いながらの勉強の方が、大学受験よりもしんどかった。私は、今はもう試験は無いからといって、気を抜いて生きてはいけないと思っている。あの頃に負けないくらい、頑張って生きなきゃ、とは、しっかりと肝に銘じているところである。

しかし今は、大学に入っても、就職がメチャクチャ厳しい。これは誰のせいか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鈴木宗男

2012-01-15 08:10:00 | Weblog
受託収賄などの罪で服役し、昨年12月に仮釈放された鈴木宗男元衆院議員が14日、テレビ大阪「たかじんNOマネー」(21日放送予定)の収録に参加。90分間、“元議員バッジ”を胸に、ムネオ節を炸裂させた。フルマラソンに挑戦するなど体力には自信の63歳。「検察に負けられない」とはじめた腹筋トレを「毎日、1セット50回を5セット、200回以上、続けています」と、体を鍛えまくっていると明かし、相変わらずの“大声”に、司会のやしきたかじんらもタジタジだった。(デイリースポーツ)


鈴木宗男氏には、徹底的に日本の腐敗した東京地検特捜部および検察を叩いてほしい。検察官は手前の出世とプライドのことしか考えてないエゴな悪の組織である。

日本の政治の足を引っ張っているのは、手前の出世のために国策捜査をしている東京地検特捜部と、記者クラブに、どっぷり浸かっている無能な怠慢ジャーナリストの二つの存在が大きい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死刑

2012-01-14 00:22:33 | 考察文
「小川新法相、死刑執行に前向き姿勢」(産経新聞)

世界には死刑がない国がある。死刑を廃止している国で、ある凶悪犯罪の事件のニュースを聞いた時、私が最初に感じたことは、「おそろしい」のひとことである。最高刑が死刑ではなく、無期懲役としてしまうと、「何人、人を殺そうが、どんなことをやっても死刑にはならない。刑務所の中で、衣食住を与えられて、生きていける」と考える人が出てきて、犯罪が増えてしまうのではないか、という危惧である。しかし、死刑を廃止している国で、犯罪が増えているのかどうかの統計的な違いは、あるのかどうかは、知らないが。何となく、統計的には有意に犯罪が増えてはいないような気がするが。しかし日本の場合は、検察による、でっちあげの冤罪の判決が多すぎるから、死刑は慎重にすべきだと思う。それと、失業の問題である。不景気で職がなければ、食べていけない。失業者は、何か犯罪をして、刑務所に入れば、衣食住が確保される、と考える人も出てもおかしくないと思うが。しかし、実際には、そういうことは、まずないだろう。とすると、死刑を廃止しても、犯罪が増えるということも、まずないだろう。

ちなみに、昔は、公開処刑が当たり前だった。昔は、死は公然と語られていた。そして、「生のことは密やかに語れ」と言われていた。(生)とは、生きること、セックスのこと、そして産まれてくる赤ん坊のこと、などである。現代では、それが完全に逆転してしまっている。(生)のことは、めでたいこと、楽しいこと、として堂々と語られる。文部科学省も性教育には積極的である。一方、(死)のことは、医療にせよ、死刑にせよ、安易に語ってはならないもの、となってしまっている。しかしソクラテスが言うように、「哲学とは死の練習」なのである。つまり現代では、哲学がなくなってしまっているのである。しかし、

「死を直視しない人間は、生も直視しない」(浅野浩二)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

片岡義男

2012-01-13 21:47:38 | Weblog
ずっと(五年くらい)前だが、「夏と少年の短編」の短編というのを図書館で読んで気に入ってしまった。文章がピリッとしていて、味があっていい。著者は片岡義男である。6篇くらいの短編集だか、その全てがいい。ブックオフに行ったら、売っていたので買った。それで片岡義男という作家にも興味が出て、他の長編を何冊も買ったが、他の作品は、文章もストーリーも、全然、好きにはなれなかった。こういう事も結構あるのである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日はセンター試験か

2012-01-13 21:27:02 | Weblog
明日はセンター試験か。「がんばれ受験生」とか、書いてあるけど、そんなのは当たり前である。受験生はみな頑張るにきまっている。そんな、月並みなことしか言えないようでは、発想が貧困である。

「リラックス。リラックス。受験生」
「本試験ではなく模擬試験だと思って解きましょう」
「なあに。今年、ダメだって来年があるさ」
「勝とうと思うな。思えば負けよ」
「たかが試験。別に死ぬわけじゃなし」

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カンニング

2012-01-12 23:30:52 | 考察文
ニュースで、世界の色々な試験のカンニングのことを言っていた。携帯や、電子機器が発達すれば、カンニングは、どんどんしやすくなっていく。しかし私はカンニングなんて全く興味ない。私は人生でカンニングをしたことが一度もない。そんなの面白くないのである。困難な事だから、やりがいがあるのである。難山に挑む登山家と同じである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文は人なり、か?

2012-01-12 23:01:09 | 考察文
文章を読むと、面白くて、そのため、その人、本人も面白い人だろうと思ってしまうが、本人は、文章のイメージとは違うという人も、結構いる。文章と、実際の人物とどっちが、本当なのか、といったら、これは難しい問題である。直接、話すと、人は、その時の感情が入ってしまうから、その点、文章は冷静に書けるから、文章の方が、より、その人の性格を正確にあらわしている、というケースもあるだろう。

かく言う私は、文章と、実際の私とは、ものすごい違いがあると思っている。文章では、結構、強がって不遜に書いているのも多いが、これは、梶原一騎の漫画、「愛と誠」の太賀誠の影響がかなりあるのである。大体、私の、このブログの文章とホームページに出している小説とは、全然ちがう。小説は私の感性の表現であり、ブログは、私の理性の表現である。安倍公房が言っているように、私は小説と考察文を、完全に別のものとして使い分けている。

実際の私は、このブログの文章とは全く違い、大人しく無口で、礼儀正しく、謙虚で、しょっちゅう、ふざけている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根性

2012-01-12 21:59:21 | 武道・スポーツ
投手生活29年の工藤公康選手は、現役を続ける秘訣は、走ること、しかも、自分の意志で、走ること、であって、勝負は、「オレは誰より練習してきた。人が練習していない時も練習してきた」ということが自信である、と言っていた。いい根性している。私といい勝負である。

今日は、トレーニングジムで二時間トレーニングした。筋トレと4kmのランニングとストレッチである。そしてテニスをした。テニスは私にとって目的でも趣味でもない。手段である。体力を衰えさせないための。(多少は、趣味の要素も、あるが)トレーニングジムの練習は、慣れたが、筋肉だけしか鍛えられない。瞬発力、敏捷性、判断力、反射神経、など運動機能、全てを衰えさせないためである。運動するようになって、駅の階段で、前は、上りも下りもエスカレーターを選んでしまっていたが、今は、階段でも全然、疲れなくなった。

少し前に、工藤投手が、野球を知らない、お笑いのチームに、コーチをして、小学生の(普通のレベルの)少年野球チームと対戦する、という企画の番組があったが、お笑いのチームが惨敗したが、私には、どうしても、あれは、大人は、わざと下手にやって、大人が子供に負ける面白さを目的としたものとしか、思えない。誰にでも自分の本命というものがある。作曲家なら作曲。小説家なら小説創作。実業家なら、自分の事業。というように。しかし本当に一生懸命、生きている人間なら、自分の本命でない他の事でも、一生懸命やると私は思う。私は根性というものは、自分の本命だけには使うが、他のことでは使わないとは思えにくい。少なくとも私はそういう人間である。たとえば、優れた曲を無数に作り続けている、努力家の作曲家がスキーをやったら、やはり一生懸命やると思う。あるいは、いつも頑張っている人は、息抜きも必要であり、息抜きも、自分の本命の仕事をより充実させるために、必要な休息と、とらえていると思う。全ての人がそうではないと思うが。精神が若い人は、何事にも一生懸命になると思う。精神が大人になっている人は、そうではないのかもしれないが。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダーツ。ゴーカート

2012-01-04 21:27:36 | Weblog
たまたま、隣の町のバッティングセンターに行ったら、ゴーカートとダーツをやっていたので、やった。ダーツは初めてである。が、結構、命中できる。これは、ダーツの矢は、前の方が重くて、後ろがプラスチックで翼状になっているから、矢が刺さってくれやすい。のである。もっと難しいものかと思っていた。体の力は、むしろ使わないで、肘から先だけで投げた方がいい。ゴーカートは、五百円で10周できる。逆ハンを使わないと、スピンしてしまう。結構、スピードが出る。だが二度、やりたいとは思わない。こんなものが楽しいのか?いや。一人だから、つまらないのである。卓球もやっていたが、卓球は一人では出来ない。可愛い彼女と卓球やりたい。それなら面白いかもしれない。しかし、もしかすると、それもすぐ厭きてしまうような気もするが。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする