※4年ぶりに支部の勉強会を再開しました。
久しぶりの、リアル松男研究です。
2024年度 渡辺松男研究2の33(2024年6月実施)
Ⅳ〈白骨観〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P164~
参加者:M・A、岡東和子、鹿取未放、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
司会と記録:鹿取未放
251 秋深き石なるものを見つづけて石なるものと吾といわしぐも
(事前意見)
秋深く、石となったものを見続けて石となったものと、私といわし雲が(ここに)居るよ。直訳すればこうで、はて、なんのことやら・・・。感じられるのは命の巡りのはかなさとそれを突き抜けた明るさ。タイトルの「白骨観―体に対する執着を捨てるための修行法。不浄である体を観想する」からイメージを膨らますと、生きているゆえの欲望や悩みを抱え生きている作者が、すでに死して石となったものを見ている。すると、だんだんその石と同化して心が静まってきた。そしてゆったりといわし雲を見ている。そんな姿が、私には見えてきた。(菅原)
(当日発言)
★レポートを読んで「石となったもの」というところが気になりました。「石であるも
の」であって死んで石になったわけではない。そして石と吾と鰯雲が同時存在的に
並んでいる。見続けてというのは誰が見続けているのか分からないし、石が何かも分
からないのですが、とにかく三者三様のものが並んでいて、それだけ…というか。無
生物と生物と風、ですかね。理 屈はいらないんじゃないかな。(M・A)
★松男さん、俳句もやっているので「秋深き」あたりにはそういうものが入り込んでい
るのかなと思います。あと「雲」は松男さんのキーワードですね。しょっちゅう出て
きて重要な役目をしているようなんですが、大方は永遠とか悠久の象徴のようです。
2つ先にも「村びとは年取り ている村はずれ大きなる穴ありて雲とぶ」という雲を
詠んだ歌ががあります。(鹿取)
★俳句だと「秋深し」ですが、これ連体形ですよね。そうするとこれは「石」に掛かっ
ているのか、それともここで切れているのか、ちょっと分からなかった。それはおい
て、この歌、石といわし雲は自然界のもので、それと吾が何の関係もなくただ存在し
ている。理屈ではなく、ただあるということが大事なのではないかな、解釈する必要
はないと思います。この作者、とて も鋭い人で、手放し方がうまいので深いなと思
います。(A・K)
★「秋深き」は連体形ですが、ここで切れるんだろうと思います。石なるものを見続け
ている吾がいて、見られている石があって、それらの上にいわし雲が浮かんでいる。
吾が見続けている石は現実に目の前にあるのか、空想のものかそれは分からないけど
見続けているのだから、石と吾には関係性はある。でも、深い秋の空間に石と吾とい
わし雲が存在していて、それは理屈ではないというのはその通りだと思います。
(鹿取)
★この石はマグリットの「ピレネーの城」のように、宙に浮いているのかもしれません
ね。(A・K)
★うーん、さっき言ったことと矛盾するかもしれないけど、渡辺さんの歌って理屈っぽ
いよね。言葉で関係づける理屈じゃなくて、投げ出してるものの向こうに意味をみつ
けてね、というか、禅問答をしかけられているような理屈っぽさ。私が読み慣れてな
いだけかもしれないけど。(M・A)
★平易な言葉を助詞で繋いで並べているけど、無味乾燥という感じは全くしない。哲
学がある一方、広がりがありますね。「秋深き」と言ってこうすごーく広がりがあ
る。何も言っていないけど深い。(A・K)
★「白骨観」という題がちょっと難しいです。(岡東)
★そうですね、でもまあ、これ一連の題だから、全ての歌をこの題に直結して考えなく
てもいいのかなと思います。(鹿取)
★自分の白骨を思い浮かべて瞑想するんですね。(M・A)
★キリスト教でもありますよね。食卓に骸骨、されこうべを置いて、それを見ながら
食事をする。(鹿取)
★そうすると白骨観といわし雲も繋がっているんですね。石なるものを見続けて、だ
からこれも観想の歌なんですね。(M・A)
久しぶりの、リアル松男研究です。
2024年度 渡辺松男研究2の33(2024年6月実施)
Ⅳ〈白骨観〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P164~
参加者:M・A、岡東和子、鹿取未放、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
司会と記録:鹿取未放
251 秋深き石なるものを見つづけて石なるものと吾といわしぐも
(事前意見)
秋深く、石となったものを見続けて石となったものと、私といわし雲が(ここに)居るよ。直訳すればこうで、はて、なんのことやら・・・。感じられるのは命の巡りのはかなさとそれを突き抜けた明るさ。タイトルの「白骨観―体に対する執着を捨てるための修行法。不浄である体を観想する」からイメージを膨らますと、生きているゆえの欲望や悩みを抱え生きている作者が、すでに死して石となったものを見ている。すると、だんだんその石と同化して心が静まってきた。そしてゆったりといわし雲を見ている。そんな姿が、私には見えてきた。(菅原)
(当日発言)
★レポートを読んで「石となったもの」というところが気になりました。「石であるも
の」であって死んで石になったわけではない。そして石と吾と鰯雲が同時存在的に
並んでいる。見続けてというのは誰が見続けているのか分からないし、石が何かも分
からないのですが、とにかく三者三様のものが並んでいて、それだけ…というか。無
生物と生物と風、ですかね。理 屈はいらないんじゃないかな。(M・A)
★松男さん、俳句もやっているので「秋深き」あたりにはそういうものが入り込んでい
るのかなと思います。あと「雲」は松男さんのキーワードですね。しょっちゅう出て
きて重要な役目をしているようなんですが、大方は永遠とか悠久の象徴のようです。
2つ先にも「村びとは年取り ている村はずれ大きなる穴ありて雲とぶ」という雲を
詠んだ歌ががあります。(鹿取)
★俳句だと「秋深し」ですが、これ連体形ですよね。そうするとこれは「石」に掛かっ
ているのか、それともここで切れているのか、ちょっと分からなかった。それはおい
て、この歌、石といわし雲は自然界のもので、それと吾が何の関係もなくただ存在し
ている。理屈ではなく、ただあるということが大事なのではないかな、解釈する必要
はないと思います。この作者、とて も鋭い人で、手放し方がうまいので深いなと思
います。(A・K)
★「秋深き」は連体形ですが、ここで切れるんだろうと思います。石なるものを見続け
ている吾がいて、見られている石があって、それらの上にいわし雲が浮かんでいる。
吾が見続けている石は現実に目の前にあるのか、空想のものかそれは分からないけど
見続けているのだから、石と吾には関係性はある。でも、深い秋の空間に石と吾とい
わし雲が存在していて、それは理屈ではないというのはその通りだと思います。
(鹿取)
★この石はマグリットの「ピレネーの城」のように、宙に浮いているのかもしれません
ね。(A・K)
★うーん、さっき言ったことと矛盾するかもしれないけど、渡辺さんの歌って理屈っぽ
いよね。言葉で関係づける理屈じゃなくて、投げ出してるものの向こうに意味をみつ
けてね、というか、禅問答をしかけられているような理屈っぽさ。私が読み慣れてな
いだけかもしれないけど。(M・A)
★平易な言葉を助詞で繋いで並べているけど、無味乾燥という感じは全くしない。哲
学がある一方、広がりがありますね。「秋深き」と言ってこうすごーく広がりがあ
る。何も言っていないけど深い。(A・K)
★「白骨観」という題がちょっと難しいです。(岡東)
★そうですね、でもまあ、これ一連の題だから、全ての歌をこの題に直結して考えなく
てもいいのかなと思います。(鹿取)
★自分の白骨を思い浮かべて瞑想するんですね。(M・A)
★キリスト教でもありますよね。食卓に骸骨、されこうべを置いて、それを見ながら
食事をする。(鹿取)
★そうすると白骨観といわし雲も繋がっているんですね。石なるものを見続けて、だ
からこれも観想の歌なんですね。(M・A)
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