2023年版 渡辺松男研究 19 2014年9月
【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)67頁~
参加者:S・I、泉可奈、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、
曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放
159 地獄へのちから天国へのちから釣りあう橋を牛とあゆめり
(レポート)
地獄へむかっている力と、天国へむかっている力とが、ちょうど均衡を保っているところに橋がある。「牛とあゆめり」を私は〈牛と成って〉という意味にとった。漱石が芥川龍之介と久米正雄に宛てて送った言葉を一首の鑑賞のヒントにした。「たゞ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です」「牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。」天国地獄というのは善悪の思想だとおもうと、そのどちらでもない中庸を、作者は独り漱石の牛のように歩んでるのではないか、と思った。(真帆)
(当日意見)
★私は牛と一緒にだと思いますが、牛と一緒じゃまずいですか?(鈴木)
★禅に牛の十牛図というのがあって、そういうのを全部呑み込んだうえで松男さんは書
いていらっしゃると思う。だから牛になるのではなく牛と一緒にでないといけない。
(可奈)
★私はニーチェなんかを思いました。『ツァラツストラはかく語りき』に、彩牛という
町が出てきてそこでツァラツストラは若い弟子達に超人になるための精神の変化を説
いたりするんですけど「橋」いうのもツァラツストラによく使われる比喩です。たと
えば「人間が偉大なのは、人間が橋であって、目的でない点にある」というように。
こんな短い引用では何も伝わりませんけれど。159番歌 は意識の上でこのニー
チェの句と重なる部分があるように思います。それと「釣り合う」というのも松男さ
ん愛用の思考パターンですよね。今日死ぬ鳥と千年生きる木が釣り合えよ、という
意味の歌もあるし。159番歌はとてもスケールが大きくて好きです。地獄からも天
国からも釣り合う所にある橋、距離ではなくてちからが釣り合うところが深いし難
しいですね。力と言っても善悪は超えたものだと思いますけど。中空に架かった橋を
牛と一緒にゆっくり歩いている〈われ〉がリアルに見えるみたいです。(鹿取)
★作者は中庸を行く、ということを言いたかったのではないでしょうか。(曽我)
★いや、松男さんは道徳のプタハ作らないです。地獄と天国とは言っても、人間の作っ
た道徳的な概念とかいうものは超えたところで思考している歌だと思います。それは
松男さんの歌全般に言えると思いますけど。(鹿取)
★牛と歩めりというところ、とても意志的なものを感じました。 (S・I)
★レポートで漱石が牛のように進めと言っているのが面白かった。幸田文がエッセーで
父の露伴が「牛の歩み」をしようという意味の句を作っていたと読んだことがある。
あの時代の文人の共通認識んでしょうかね。明治という激動の時代だから、政治家は
やたら走りまわっているけど、立ち止まって深くものを考える人は時代にブレーキの
必要性を感じていたのでしょうかね。(鹿取)
★それと牛が出てくるのは、今よりありふれていて、牛はどこにでもいる身近な動物だ
ったからじゃないですか。(真帆)
(まとめ)
発言中の鳥と木が釣り合う歌は、第二歌集『泡宇宙の蛙』にある。
〈釣り合えよ 今日死ぬ鳥のきょうの日と千年生きる木の千年と〉
釣り合う歌は、『寒気氾濫』にもあった。
〈存在ということおもう冬真昼木と釣りあえる位置まで下がる〉
幸田露伴の句は〈天鳴れど地震(ない)ふれど牛の歩みかな〉
ちなみに露伴と漱石は同じ1867(慶応3)年生まれ。露伴は〈蝸牛庵〉と号したのでゆっくり歩むことはモットーだったのだろう。
ところで、私はニーチェに思い入れがあるので、〈彩牛〉とか勝手な発言をしているが、松男さんは哲学を体系的に研究し、哲学以外にも広い知識を持っている人だ。また何よりも思索の深さや広さははかりしれない。自分の狭い知識からニーチェなど持ち出して批評しているのはとても恥ずかしい。また、泉可奈さんから出た禅の十牛図というのも興味深い。なるほど、牛を連れて橋の上を歩いている図は東洋的で、水墨画などにも描かれているような気がする。(鹿取)
【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)67頁~
参加者:S・I、泉可奈、泉真帆、崎尾廣子、鈴木良明、
曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉 真帆 司会と記録:鹿取 未放
159 地獄へのちから天国へのちから釣りあう橋を牛とあゆめり
(レポート)
地獄へむかっている力と、天国へむかっている力とが、ちょうど均衡を保っているところに橋がある。「牛とあゆめり」を私は〈牛と成って〉という意味にとった。漱石が芥川龍之介と久米正雄に宛てて送った言葉を一首の鑑賞のヒントにした。「たゞ牛のやうに図々しく進んで行くのが大事です」「牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。」天国地獄というのは善悪の思想だとおもうと、そのどちらでもない中庸を、作者は独り漱石の牛のように歩んでるのではないか、と思った。(真帆)
(当日意見)
★私は牛と一緒にだと思いますが、牛と一緒じゃまずいですか?(鈴木)
★禅に牛の十牛図というのがあって、そういうのを全部呑み込んだうえで松男さんは書
いていらっしゃると思う。だから牛になるのではなく牛と一緒にでないといけない。
(可奈)
★私はニーチェなんかを思いました。『ツァラツストラはかく語りき』に、彩牛という
町が出てきてそこでツァラツストラは若い弟子達に超人になるための精神の変化を説
いたりするんですけど「橋」いうのもツァラツストラによく使われる比喩です。たと
えば「人間が偉大なのは、人間が橋であって、目的でない点にある」というように。
こんな短い引用では何も伝わりませんけれど。159番歌 は意識の上でこのニー
チェの句と重なる部分があるように思います。それと「釣り合う」というのも松男さ
ん愛用の思考パターンですよね。今日死ぬ鳥と千年生きる木が釣り合えよ、という
意味の歌もあるし。159番歌はとてもスケールが大きくて好きです。地獄からも天
国からも釣り合う所にある橋、距離ではなくてちからが釣り合うところが深いし難
しいですね。力と言っても善悪は超えたものだと思いますけど。中空に架かった橋を
牛と一緒にゆっくり歩いている〈われ〉がリアルに見えるみたいです。(鹿取)
★作者は中庸を行く、ということを言いたかったのではないでしょうか。(曽我)
★いや、松男さんは道徳のプタハ作らないです。地獄と天国とは言っても、人間の作っ
た道徳的な概念とかいうものは超えたところで思考している歌だと思います。それは
松男さんの歌全般に言えると思いますけど。(鹿取)
★牛と歩めりというところ、とても意志的なものを感じました。 (S・I)
★レポートで漱石が牛のように進めと言っているのが面白かった。幸田文がエッセーで
父の露伴が「牛の歩み」をしようという意味の句を作っていたと読んだことがある。
あの時代の文人の共通認識んでしょうかね。明治という激動の時代だから、政治家は
やたら走りまわっているけど、立ち止まって深くものを考える人は時代にブレーキの
必要性を感じていたのでしょうかね。(鹿取)
★それと牛が出てくるのは、今よりありふれていて、牛はどこにでもいる身近な動物だ
ったからじゃないですか。(真帆)
(まとめ)
発言中の鳥と木が釣り合う歌は、第二歌集『泡宇宙の蛙』にある。
〈釣り合えよ 今日死ぬ鳥のきょうの日と千年生きる木の千年と〉
釣り合う歌は、『寒気氾濫』にもあった。
〈存在ということおもう冬真昼木と釣りあえる位置まで下がる〉
幸田露伴の句は〈天鳴れど地震(ない)ふれど牛の歩みかな〉
ちなみに露伴と漱石は同じ1867(慶応3)年生まれ。露伴は〈蝸牛庵〉と号したのでゆっくり歩むことはモットーだったのだろう。
ところで、私はニーチェに思い入れがあるので、〈彩牛〉とか勝手な発言をしているが、松男さんは哲学を体系的に研究し、哲学以外にも広い知識を持っている人だ。また何よりも思索の深さや広さははかりしれない。自分の狭い知識からニーチェなど持ち出して批評しているのはとても恥ずかしい。また、泉可奈さんから出た禅の十牛図というのも興味深い。なるほど、牛を連れて橋の上を歩いている図は東洋的で、水墨画などにも描かれているような気がする。(鹿取)
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