かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 78

2022-05-08 11:36:18 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究2の11(2018年5月実施)
    【夢みるパン】『泡宇宙の蛙』(1999年)P57~
     参加者:泉真帆、A・K、T・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放


78 夢にわれ妊娠をしてパンなればふっくらとしたパンの子を産む

        (レポート)
 何にでもなりきる作者はこの度パンになり、妊娠によってパンの子、そのような柔和なものを産む。掲出歌において、作者は夢によって規定を越え、妊娠をするパンになるのだが産む性へ越えてゆくことに含羞のようなものがあったのか、夢の力を借り、性のないパンという設定をしているように思える。
     (慧子)

       (当日発言)
★初めてこの歌を読んだとき、男性が子を産む歌を作ることにほんとうにびっくりしました。しか
 し柔らかくはうたわれていますが、性を越えて出産をうたうということに斬新なものを感じまし
 た。(真帆)
★この歌は歌壇でも話題になりましたよね。A・Kさん、いかがですか?(鹿取)
★私は今日初めて参加しました。事前に送ってもらった資料に鹿取さんが渡辺松男さんのこんな
言葉を引用されていました。

……在ることの不思議、無いことの不思議、生命のこと、そういう次元を詠まなかったなら、
  私(に)とって歌は意味のないものになっていました。存在に寄り添うこと、それを掬うこと、
  それを包むこと、あるいは包まれること、それに成りきること、それらのことはいつもこちら
  側にいる自己同一的実体的作歌主体にとどまっているかぎり不可能なことでした。
                   (「かりん」2010年11月号)

 それから今日鹿取さんが配ってくださった寺井淳さんの評論(「居心地の悪い親切――『けやき
 少年』と『ヰタ・セクスアリス』」「かりん」2005年8月号)を読んで、ああ、渡辺さんっ
 てこういうんだと。この二つの文章を前提にすると何となく分かるような気がします。宇宙的な
 幻想的なものと現実的なものが溶け合ったような感じ、夢想なんだけど分かるような感じ、「夢
 に」と断っているところが用意周到だと思うのですが、感覚的に触感として伝わるような、言葉
 をうまく使っていますよね。(A・K)
★そうですね。この歌は「夢に」とあるので、本人の述懐や寺井さんの論を読まなくとも、こちら
 側の歌として奇抜だけど充分楽しくかわいらしく読めます。この先だんだんそういう枠が取り払
 われるんですけど。『けやき少年』のあとがきで、この歌集に収められた歌は平行世界の記憶の
 断片で自分にとってはリアルなんだというようなことを言っていますけど。掲出歌は何かを生み
 出したいって思っているわけで、世界に対する松男さんの立ち位置が出ている歌だと思います。
 幼児的な感じもするのですが、世界を投げ出していないところが読者としても希望が持てて楽し
 いなと思います。(鹿取)

        (まとめ)
 当日配布した寺井さんの渡辺松男歌集『けやき少年』に対する評論は長いので引用しきれないが、要点のみ箇条書きにする。(鹿取)
  ・歌群の向こうにひとりの人間の像が結べないから居心地が悪い
  ・近代的な自我主体による発話ではない
  ・意図して現代短歌を異化しようとしている

 また、川本千栄氏が掲出歌と82番歌(子を孕みひっそりと吾は楠なればいつまでも雨のそばにありたり)ほか数首を引いて次のように書かれているので紹介する。
   ユングによると全ての男性は深層意識にアニマ(内なる女性)、女性はアニムス
  (内なる男性)を持っているとされている。そう考えると、これらの歌は渡辺の深
  層にあるアニマの声なのだと言うことができる。
    私の知らない「私」―渡辺松男に見る「深層の私」二、ユング心理学で読む渡辺松男
              (「D・arts」創刊号 2003年4月) 


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