ブログ版馬場あき子の外国詠34(2010年12月実施)
【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。
262 国敗れ死にしをみなの亡骸(なきがら)を生きしをみなはいかに見にけむ
(レポート)
テーマだけを投げ出したような一首だが「をみな」に絞られていて、やはり女の側から鑑賞したい。かつて子供を育てながら、時代と時代の子と格闘していると考えたことがある。そうは言いながら、おおよそ人々が時代の子であるのは、子供に限ったことではない。そしてその生は世と親和し、また葛藤している。たとえば風俗、宗教また個の情念に切実に懐疑的に、一方では家族のための衣食住に、ひたすらな生活者であるをみなとして、そのようにありながら女性の側から時代への暴挙など考えられないまま、戦争等圧倒的な時代勢力にのまれてしまったりする(「国敗れ死にしをみなの亡骸」)。また生きしのいだりする(「生きしをみな」)。「死にしをみなの亡骸」とは、その背景の伝統、文化などふくめての生きざまをたどることをせず、ここでは伝聞であろう状態に即するのみの表現として、「生きしをみなはいかに見にけむ」と、時代の負への告発を同時代の「をみな」に託しているのではないか。あまりにもはるかな歴史的事象、無惨に対して、作者は言葉を失っているのか、ひかえているのか、いかがであろう。(慧子)
(当日発言)
★レポーターの言わんとすることが、私にはほとんど理解できなかったんだけど。宮女三千が身を
投げたことに対して、作者自身は261番歌(旅にきく哀れは不意のものにして宮女三千身を投
げし淵)で「哀れ」と情を吐露している。次にこの歌では、同時代、現場にいて実際亡骸を見た
女たちはどう見たのかと問うている。宮女の中には生き延びた人もいたかもしれないし、庶民は
死なずにすんだのかもしれない。そして死なずにすんだ女性たちは死んでしまった宮女たちの亡
骸を見て、かわいそう、とか自分は助かってよかったとか、そんな単純な思いであったはずはな
い。
この歌も、冒頭の詞書から推して沖縄戦の果て身を投げた女性たちのことが背景にあって詠ん
でいる。そこで生き残った女性たちは言葉を絶したもろもろを心のうちに抱え込んだに違いない。
そして、そういう沖縄に代表される犠牲を、内地にいた人々はどう見ていたか。少なくとも作者
は重く大きなものを抱え込んだのだ。それがどんなに重いものだったかは、韓国旅行詠の載る『南
島』と同じ歌集に収められた「南島」一連を読むとよく分かる。たとえば高名な一首「石垣島万
花艶(にほ)ひて内くらきやまとごころはかすかに狂ふ」などにもよく反映しています。(鹿取)
【白馬江】『南島』(1991年刊)74頁~
参加者:K・I、N・I、佐々木実之、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
日本書紀では白村江(はくすきのえ)。天智二年秋八月、日本出兵して
ここに大敗したことを太平洋戦争のさなか歴史の時間に教
へた教師があつた。その記憶が鮮明に甦つてきた。
262 国敗れ死にしをみなの亡骸(なきがら)を生きしをみなはいかに見にけむ
(レポート)
テーマだけを投げ出したような一首だが「をみな」に絞られていて、やはり女の側から鑑賞したい。かつて子供を育てながら、時代と時代の子と格闘していると考えたことがある。そうは言いながら、おおよそ人々が時代の子であるのは、子供に限ったことではない。そしてその生は世と親和し、また葛藤している。たとえば風俗、宗教また個の情念に切実に懐疑的に、一方では家族のための衣食住に、ひたすらな生活者であるをみなとして、そのようにありながら女性の側から時代への暴挙など考えられないまま、戦争等圧倒的な時代勢力にのまれてしまったりする(「国敗れ死にしをみなの亡骸」)。また生きしのいだりする(「生きしをみな」)。「死にしをみなの亡骸」とは、その背景の伝統、文化などふくめての生きざまをたどることをせず、ここでは伝聞であろう状態に即するのみの表現として、「生きしをみなはいかに見にけむ」と、時代の負への告発を同時代の「をみな」に託しているのではないか。あまりにもはるかな歴史的事象、無惨に対して、作者は言葉を失っているのか、ひかえているのか、いかがであろう。(慧子)
(当日発言)
★レポーターの言わんとすることが、私にはほとんど理解できなかったんだけど。宮女三千が身を
投げたことに対して、作者自身は261番歌(旅にきく哀れは不意のものにして宮女三千身を投
げし淵)で「哀れ」と情を吐露している。次にこの歌では、同時代、現場にいて実際亡骸を見た
女たちはどう見たのかと問うている。宮女の中には生き延びた人もいたかもしれないし、庶民は
死なずにすんだのかもしれない。そして死なずにすんだ女性たちは死んでしまった宮女たちの亡
骸を見て、かわいそう、とか自分は助かってよかったとか、そんな単純な思いであったはずはな
い。
この歌も、冒頭の詞書から推して沖縄戦の果て身を投げた女性たちのことが背景にあって詠ん
でいる。そこで生き残った女性たちは言葉を絶したもろもろを心のうちに抱え込んだに違いない。
そして、そういう沖縄に代表される犠牲を、内地にいた人々はどう見ていたか。少なくとも作者
は重く大きなものを抱え込んだのだ。それがどんなに重いものだったかは、韓国旅行詠の載る『南
島』と同じ歌集に収められた「南島」一連を読むとよく分かる。たとえば高名な一首「石垣島万
花艶(にほ)ひて内くらきやまとごころはかすかに狂ふ」などにもよく反映しています。(鹿取)
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