De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

父の日記帳:8月21,22日

2009-08-22 11:09:17 | 自分史エピソード
8月21日晴れ
 日照り続きで陸稲の葉はよれだした。定八が畑で働いているのでどうか元気かと声をかける。ニコッと笑って死ぬまで働くのだという。吉五郎も甘藷畑に縄を張っているので何をするのかと聞いたら泥棒よけだという。縄をひいて泥棒よけになるのかわからないがカラスや雀ではないのでまさか案山子と云うわけにもいかないのだろう。新宅でもやられた、秋雄もやられたと吉五郎は言う。心配だった野菜泥棒がそろそろ出始めたかと案じられる。人心がこのようになるということは深刻なことなのだ。
 十時頃になると畑の土は暑くて踏んでいられなくなる。早めに帰って昼休みを長く取った。飛行機が馬鹿に低く飛んだ。中津の飛行機だ。日の丸もさびしく輝いた。乗り納めと云う飛び方だった。
 今日は私の母の53回の命日だ。女房が久しぶりに白米を炊いたりカボチャの供え物をした。
 さまざまなデマが飛んで戦々恐々。ちょうど百姓仕事の暇なときなので川に魚取りに行くものなぞある。香穂子は飛行場が閉まることになり今日限りで終わりと、手当てを千円近くもらってくる。わずか半年足らずの勤めでこれだけ手当てが出る。インフレを心配するのも当然だ。
 日照り続きで畑が渇く。早く雨が欲しいものだが降りそうもない天気だ。今夜はいい月だ。十三夜らしい。

8月22日曇り午後雨
 香穂子も香代子も家にいるのでにぎやかだ。ラジオは神奈川県一帯に連合国軍が駐屯するといふ。26日には飛行軍が厚木に来ると言うので驚いたり心配したりした。電車も汽車も今日から切符を売らないというのだ。婦女を他に送るにも移動証明を出さぬのでどうすることもできない。渡辺の倅が来て朝食後話をする。それがため午前中は炉辺で過ごす。朝昼晩と主食はトウモロコシだ。午後より雨。夕方風も強くなる。台風気味だ・芋も陸稲も助かる。畑の作物も息をつく。今日は避けの配給があって5合求めてくる。風も雨も強くなり過ぎぬよう祈りながら床に就く。


終戦のショックからはこのころになると落ち着きが見えてきました。日記帳の逐記はこの辺で終わりにします。その後の歴史的事実関係にかかわるところが見つかればその都度書き込んでいきます。
 父の日記帳にはご近所の人の棚卸的記述や、家族に対する不満など彼の人格を損ねるような記述もあります。日記というものは人に見せるために書いているのではないので本来そういうものでよいのかもしれません。書かれている人たちは私が知る限りすべて故人です。
そろそろ私も物ごころついて、父の記録に思い当るところ、しっかりと覚えているところも出てきます。必ずしも分かり合える父子ではありませんでした。この先、日記の中から許せない感情がまた出てくるかもしれません。それでも、最後は満足にはできなかったかもしれないが私が頼られたことは確かです。

父の日記帳:8月21日

2009-08-20 21:58:24 | 自分史エピソード
8月21日晴れ
 日照り続きで陸稲の葉はよれだした。定八が畑で働いているのでどうか元気かと声をかける。ニコッと笑って死ぬまで働くのだという。吉五郎も甘藷畑に縄を張っているので何をするのかと聞いたら泥棒よけだという。縄をひいて泥棒よけになるのかわからないがカラスや雀ではないのでまさか案山子と云うわけにもいかないのだろう。新宅でもやられた、秋雄もやられたと吉五郎は言う。心配だった野菜泥棒がそろそろ出始めたかと案じられる。人心がこのようになるということは深刻なことなのだ。
 十時頃になると畑の土は暑くて踏んでいられなくなる。早めに帰って昼休みを長く取った。飛行機が馬鹿に低く飛んだ。中津の飛行機だ。日の丸もさびしく輝いた。乗り納めと云う飛び方だった。
 今日は私の母の53回の命日だ。女房が久しぶりに白米を炊いたりカボチャの供え物をした。
 さまざまなデマが飛んで戦々恐々。ちょうど百姓仕事の暇なときなので川に魚取りに行くものなぞある。香穂子は飛行場が閉まることになり今日限りで終わりと、手当てを千円近くもらってくる。わずか半年足らずの勤めでこれだけ手当てが出る。インフレを心配するのも当然だ。
 日照り続きで畑が渇く。早く雨が欲しいものだが降りそうもない天気だ。今夜はいい月だ。十三夜らしい。


終戦の動揺も次第に落ち着いてきた。まだ何が起こるか分からないという不安はあるものの、戦争よりましだという気持ちになってきている。
この日記の転載は23日ごろまで日を追って公開したところで終わりにしたいと思う。何しろ読み解くのも相当苦労する。その後は、これまでに出てきた事件や人のその後の情報などをまとめ書きし、終戦に絡んだ事件が減ってくれば幕とする。

父の日記帳:8月20日

2009-08-19 22:51:50 | 自分史エピソード
8月20日
降伏が国民の幸福であったことが一般に知れ渡るとみんな気の抜けた顔をして百姓を始めた。今日は朝から畑に出ている者が多い。私も甘藷の施肥を負ふて西峰の畑に行く。大豆を耕して牛の草を刈って帰ると女房は米の配給を受けに出て留守だった。今日の配給は米が三分大豆七分の割合だ。

 戦争中は重荷を背負うてあへぎあへぎ歩いてきたが和平となると一時にその重たい荷物を下ろした感じで今度は足がふらふらして歩きにくいといった感じだ。重い荷物を背負っているときは喘ぎながらも一歩一歩前に踏み出して歩いていた。(いまは)足がふらついて千鳥足になる。畑の土は灰のように熱かった。炎署の太陽はいやに頭から浴びせかけてきた。

 配給のサケ缶は毎日の食膳に上った。主食はトウモロコシだ。昨日までは量が乏しくともコメや麦があったがこれからはそうもいかなくなる。今日も相変わらず子どもたちは空き缶を吐いて亡国の音を立てている。
 渡辺の娘が東京に行くと言って出て行った。貯金をみんな下ろしてくるのだという。貯金は下ろしてしまった方がいいのかそのままにしておいたほうがいいのか私にはわからなくなった。

 富蔵の倅は飛行機乗りの兵隊だったが帰ってきた。そのほかもぽつぽつと兵隊が帰ってきた。
 香穂が飛行場へ顔を出すと言って昼ごろ出て行ったが夕方帰ってきてビラを持ってきた。そのビラには皇国陸海軍としてあって、アメリカは日本の天皇を南洋諸島におこしめ奉り、さらに数千万人を奴隷として連れて行くといふ事をラジオで放送していると報じている。それに首相の○の重要放送と云う前触れで皇国護持に対して国民は血をもって守ると自ら放送した。それが5時の放送から5、6回放送しているので国民は心配し出した。今日のごとき場合は一刻一刻と様子が変わって来るのが当然で山口博士がいふ事は昨日のことで今日のことではないのだ。この分ではまた壕でも掘って生き延びる工夫をつけなければならなくなる。

 夕飯は焼きトウモロコシを1本ずつと赤いトマトを1個ずつと牛乳1杯だ。米は無くとも百姓をしていたおかげで食膳はにぎやかだ。トウモロコシで配給の不足を補っていかねばならぬのはつらいが、毎日変わったものが食せるのは骨は折れても百姓をやっていたおかげだ。
 毎晩風呂を立てる。子供たちが早く帰るので風呂を焚くことはこれがやってくれる。風呂に毎晩は入れるだけでも感謝しなければならぬ。

 野菜の盗難が多くなった。お良は南瓜を十ばかり盗まれてから眼を据えた。我が家でも垣根のカボチャが少し早いが収穫する。盗まれるより早く口に入れてしまった方がよい。お良は甘藷畑と云わず、野菜畑と云わず神様のお札の古いのやら新しいのやらを竹にはさんで刺した。神様のお守りにあやかろうとしているがご利益があるのかどうか・・・。


・親父はこのころ百姓をはじめて十年目ぐらいだったと思う。農家の総領で兄弟に任せておく上での問題がたくさん出てきて、早めのリタイヤで戻ってきたものである。百姓をやっていたから助かったのだと、自分に言い聞かせている節がある。家族が住んでいた中野鍋横の住宅はまだ人に貸してあり、罹災もしなかった。
・農家にもコメがない時代だったのか。全部供出する義務があったのだろうか。おやじはお上の指示には従うという主義だったから、供出の割り当てが来れば自分の食いぶちが不足するとわかっていてもやる人だった。このころ、すでに小作米は届けらてれていなかった。年貢は金に換算されていたが、実態とはかけ離れていた。
・香穂子(長姉)が通っていたのは自宅から歩いて1時間ぐらいのところにある陸軍熊谷飛行学校 中津分教場である。厚木で撒かれたビラと云うのは下記のものであることは知られている。日記の内容からするとこれとは異なるもののようである。

陸海軍健在ナリ
満ヲ持シテ醜敵ヲ待ツ 軍ヲ信頼シ我ニ続ケ
今起タザレバ 何時ノ日栄エン
死ヲ以テ 生ヲ求メヨ
敗惨国ノ惨サハ 牛馬ノ生活ニ似タリ
男子ハ奴隷 女子ハ悉ク娼婦タリ 之ヲ知レ
神洲不滅 最後ノ決戦アルノミ
             厚木海軍航空隊

父の日記帳:8月19日

2009-08-18 22:15:23 | 自分史エピソード
8月19日晴れ
 子供たちの間でシャケの空き缶にひもをつけてぽくぽくと下駄代わりに歩くことがはやり出した。家の子供たちも今始めた。いたるところでぽくぽくという音が聞こえる。空き缶は昨日の一人当たり6個の配給品だ。そのぽくぽくという音が如何にものんびりした張りのない音だ。亡国の音だ。支那や朝鮮人が好みそうな音だ。これからは日本人の音かもしれぬ。支那や朝鮮と入れ替えになった日本だ。こんな音が国に似合ってくるとは情けない。

 人心やや落ち着きを見せてきた。和平はこの際やむを得ぬことだという心が湧いてきた。あらゆる角度からそろばんをとってみれば降伏という答えが出るに相違ないのだ。潔く玉砕するという熱情はもうさめてきた。

 今晩煙草の配給がある。これが最後の配給だそうだ。十日足らずの量だ。これを吸い終わればもう煙草にはありつけないのだ。二、三日煙草を吸わずにいた口へ1本吸いつけると頭がくらくらとぐらついてくる。何とも云われに味だ。思いきり吸えるだけ吸ってしまって潔くやめようか。あるいは1日の量を減じてだんだん減じていこうか。何としてもさびしいこと限りない。

 今日、隣家へ山口博士が来て時局をいろいろと説明してくれたそうだ。私も聴けば良かった。山口博士の話では、今この条件で降伏できればありがたいことだとのことだ。博士は陸軍の顧問だから万事よく知っているのだ。いまさら何を聞いても元に帰らぬ事だからこの煙草のようにだんだんとものを減らして生活していかねばならぬのは必定だ。女房にもよく言ってその心得で生活していくことにする。


ここで出てくる山口博士とはその後私が世話になった医者と思われます。私はこの翌年4月16日から高熱を出して生死の間をさまようことになります。終戦のころ、隣家には使われていない診療所があり、その後地位の高い医者が開業していました。当時手に入れるのも困難なはずの薬品が豊富にあり、的確な治療で助かっています。肺炎をさらにこじらしたものでもしかしてそこにはストレプトマイシンは無理としてもペニシリンぐらいあったのかもしれません。この日記帳に出てくる山口博士に違いないと思います。この先生は往診の時も見たこともないしっかりした注射薬の入っていた空き箱をお土産に持ってきてくれました。診療所に連れられて行った時も目の前で新しい箱を取り出し、封を切って中のアンプルを他の箱に移して私にくれました。未使用の薬包紙が何年か後にまでたくさん持っていたのはこの医者がくれたものだと思います。私が元気になって学校に戻るころその診療所は再び閉まっていたような気がします。母はそのお医者さんのおかげで助かったんだよと言っていました。父の日記帳にはどう書いてあるか楽しみです。

亡国の音と書かれる缶詰の空き缶のぽっくりは2この缶の底に穴をあけてひもを通し首にかけて歩くものです。

父の日記帳:8月18日

2009-08-17 22:44:29 | 自分史エピソード
8月18日晴れ
 煙草が無くなったので蕗の葉を干して吸う。アジサイの葉を吸う。○○の葉も吸えるという。蕗の葉より山アジサイのほうが煙草にやや近い。煙草が無くなればこれを吸った。

 お茶だけはふんだんにあるので十分のめるのがうれしい。今年はトマトがうまくない。不思議に思われてならなかったが歯が欠けてトマトをかみ砕く奥歯のかみ合わせが悪くなったのが原因と思われる。

 昼の目ざめも朝の目覚めも悪い。こんな破滅的な気持ちに一体全体だれがしたんだ。軍人だ。軍人の強がりが国を誤ってしまったのだ。戦争前は米国の兵隊など問題にしていなかったが、それが意外にも歯が立たない。段違いの強さに負けているのだ。荒木貞夫など満州をとっておけば世界を相手に戦っても負けはしないと常に言っていた。明治天皇から三代目でついに本の黙阿弥となってしまった。徳川時代に帰って巻きなおしをしなければならないのだ。三代目が一番難しいと昔から言われている。その三代目で日本もついに滅びたのだ。
   


終戦から3日目にして日本人はここまで悟っている。新聞は3日くらい遅れて配達される。情報を得るのも難しいはずだ。まだ政府の反省や軍の締め付けがまったく解かれたわけではない。だれも真実を伝えに来ているわけでもない。
 このとき父は56歳である。書いていることは何とも年寄りである。

父の日記帳:8月17日

2009-08-16 22:19:17 | 自分史エピソード
8月17日晴れ
旱天の朝は曇っている。今日は西峯の畑を久しぶりに見回ると粟をつぶして蒔いたきびが粟と仲良く伸びている。どちらを抜くのも惜しい種だ。雑草も多いが照り続きなので拾うように抜ける。甘藷の施肥は糠をもって行ったが雑草抜きに半日終わる。

14,15,16日の新聞が(まとめて)届いていて大きな見出しだけを見てやめる。新聞なぞ見たくないのだ。敵の1機が空高く我が物顔で飛んでいるのに対してサイレンは警戒警報を鳴らせる。ふざけている感じだ。こればかりでなくあらゆるものがみなふざけているように思われてならぬ。現実とは思われないものばかりだ。そのうち何かあらわれてこの悪夢を覚まさせてくれるかと感じられる。一戦を交えてやるのだというのも夢の中のような感じだ。手をあげて降参したということも遠い昔の出来事のように感じられる。行き交う人が潔く最後の一戦をやるんだと元気な声で言うがこれも昼寝夢ではあるまいかと思われた。

壕を掘ることも必要だが畑に来てみると捨てておけないので今日は畑の仕事をすることにした。甘藷はおそ植えはそのままでいる。さつまは蔓が伸びない。意外に雑草も少ない。干天の故だと思う。中曽根前の芋は思いのほか元気だ。ここで雑草抜きを2日続けたらきれいになるのだがと思う。壕堀はやめてこの方に取り掛かりたい。昼の帰りにかごいっぱい草を刈って帰る。土手の草を刈って右足のくるぶしの下をかまで誤って切る。血が流れることはなはだしい。泥まみれの足に血が絡んで自分の脚ながら気味が悪いありさまだ。

家が恋しくなってかごを背負って畑道を帰っていくと敵機が真上を飛んでいる、時々気中の音が聞こえるがふざけているようだ。しかし、馬鹿にしてふざけても頭の上から撃たれたら馬鹿らしいので桑の木の下を歩いた。今日は畑で働いている者もなかった。やや人々の気持ちも落ち着いてきたらしい。それでも降参するのがほんとだという人は一人もいない。心のうちではどうでも人前だけ元気に見せかけている。笑えぬ悲劇だ。

こんな悲劇を人間が演じている間に家の牛は盛りが出て鳴き続けた。遠くの方を眺めて牛はさびしげになく。尾を引いてなく。じれったそうに鳴く。あきらめきれぬといった風にも鳴く。勝手にしろと言った風にも鳴く。交尾に連れて行く暇なぞ無いので勝手に鳴かせておく。乳は近頃やっと1日1升くらいしか出さぬ。草は2かごぐらいぺろりと平らげる。しかし、いつも一籠で我慢させているので乳の出も悪いことは知っているが2籠刈る元気が出ないのだ。

 家に帰るとガソリンを埋めに出るようにというふれが回る。飛行場からこのにガソリン22缶が配給になったものだという。それを埋めておこうというのだ。シャベルや鍬をもってみな集まる。仕事はいたってはかどらぬが話はたゆる間がない。電気屋の萬蔵がうんと食って死ぬんだ、アメリカに食われる前にみんなで食ってしまえという。三郎はこれに賛成して牛でも馬でも豚でもみんな食ってしまおうという。どうせみんなアメリカ人に食われてしまうのだという。精米(所)の松さんは毎日1羽ずつ鶏をつぶして食っているという。畑の甘藷を見渡して信太郎がいう。この甘藷が食えるようになるまで生きられようかと。みな食い物にがつれているので遂い喰うことを言い出すのだ。若くて年寄りじみている民蔵はそんな話はよせやい、もっと元気を出せやいと云ふ。民蔵は今少し経てばせがれも南洋から帰って来るから気楽に暮らせると思っていたのでそんな話を聞かされると心配になりだしたのだ。南洋あたりに出征している兵隊が無事に内地に帰って来ることができるかという心配が皆にあった。遠くの島で武装を解かされて捕虜になって無事にここまで帰って来ることができるかと急に顔を曇らせてしまった。寅之助の長男はビルマにいたのだが死んでいるのか生きているのかもわからなかった。生きてみじめを見るより死んでいてくれたらいいと思うと声を詰まらせてつくづくという。組合長の歯医者の正は物知り顔に日本はまだ4万台の飛行機があるのだ、ガソリンもいくらでもあるのだ軍備も立派なものがあるのだ。それでいて沖縄にも出ず空襲にも出て戦おうともせず、今手を揚げるのは重臣が皆スパイなのだ、戦わせなかったのだ5月ごろからもう和平の交渉を始めていたんだ、ともっともらしいことをいう。吉五郎はこれに付け加えて鈴木首相も米内海相もスパイなのだ、見ろ、今度の海相も米内がでやあがったではないかと云ふ。萬蔵は今度は、日本の海軍なぞ軍艦が一隻もないではないか、いつなくして仕舞ったんだと云ふ。何一つ国民に知らせずに働かせてばかりいて本土決戦だ決戦だと言っていながら決戦もしないで降参するなってドイツを笑えた義理ではないという。今に見ろ、アメリカのやつらに奴隷にされてうんと絞られて死ぬのだ、誰もそう言ってさびしく髭面を曇らせて憤慨した。
私はそんな話を聞かされてぶらぶらドラム缶の穴を掘っているよりか早く帰って温かい牛乳の一杯も飲みたかった。いつの間にか日が傾いて背中を夕日が射ているのだ。陰にすべき木もない。今日は風さえ吹かなかった。

日暮れてから帰ると、女房がシャケの缶詰の配給がありましたという。かごいっぱいのシャケの缶詰だ。全部で42個。一人6個ずつの配給があったとのこと。家庭を持っている者には2俵ずつの配給だったという。いよいよ軍隊の解散になったのだ。ガソリンも食料もすべて配給して軍隊もおとなしく手を揚げて降参するらしい。壕を掘る必要はなくなったがあっけない寂しさも感じられた。やはり兵隊も弱いのだ。これでは本土決戦と言ってもいい結果は得られなかったのだ。和平が一番だったのだ。重臣はスパイではなく本当に先を見ての降参だったのだ、と思はざるを得なかった。何にも知らされぬ国民は強がりばかりを言っているが実際は手も足も出ぬまで参っていたのだ。国民の強がりも口先だけで内心は良かったと安心しているのだ。今日の人たちは百姓で何にも知らぬ連中だが内心決して本土決戦を望んでいないのはその顔にありありと書いてあった。

我々は日本海軍も陸軍も世界無比に強いものと信じていた。日本人は大和魂があると信じていた。死ぬときは必ず天皇陛下万歳と唱えて死ぬ兵隊と信じていた。それがみなウソだったのだ。私は先年ある帰休の兵隊に聞いたことがある。死ぬ時に天皇陛下万歳など行って死ぬ兵隊は一人も見かけなかった。皆、こんなにわれわれを苦しませやがる重臣たちを恨んで死ぬものばかりだったと言っていた。私はそれをはなはだ意外に聞いたが、その時さえそれがふと真実ではないかと思ったが、やはり本当だったのだ。日本人も命が惜しい通常の人間だ。しかし、この例外が爆弾を背負って敵にあたった特攻隊の勇士たちだ。これだけは本当の日本人だったのだ。
 昨日今日早朝より十時まで霧か雨のごとく昼ごろまで草の露しげし
 晴れながら雨の降りいる暑さかな
 焼け土へ露降りこぼす日照り粟



父の日記帳:8月16日

2009-08-16 09:40:55 | 自分史エピソード
8月16日晴れ
寝覚めが悪く夜が明けた。女房は勝手でことこと音をさせていた。その音を聞いてうとうととしておきる。炉はまだ火が焚きつけたなかった。かまどもやうやう火が付き始めたばかりだ。6時に間もない炉辺で湯を沸かして茶を飲みタバコを吸う。牛の草を刈りに出る元気もない。
ラジオを聞いても天皇陛下が民草に深く○しんえん遊ばせて米英と和を結ぶに至る次第をくどくどと繰り返している。しかしそれで収まるかどうかが問題だ。軍人が承知するかどうかが問題だ。ここ数日の様子でどんな変化が表れてくるか知れぬ。東京の方は相当騒いでいるという噂も耳にした。厚木辺へ兵隊がビラをまいているという者もいる。最後の一戦を決行するという意気なのだ。国民の多くもそれに心を寄せている。しかし勝ちぬけるとは思っていない。国民が全滅するまで戦うというのだ。敗戦のみじめさを見るより死を選ぶというのだ。和を乞うことに賛同するものもあった。一時の屈辱をしのんで百年後の基を作ろうというのだ。友軍機が空を飛んだ。どうも形勢が不穏なので沼田と相談して明日から壕堀を続けることにした。今日夕刻、渡辺の日除けを沼田と仕上げる。午後、牛の草刈りに向山まで行って八分目ばかり刈ったらつくづくいやになって帰る。畑も田んぼも働いている人は一人もいない。みな仕事なぞ手につかぬと言っている。川には真っ黒に日焼けした子供たちが水浴をしていた。今日は敵機も来ないのでさびしいような安心のような言いようのない心地だ。
日除け作る今日一日のゆとりかな
戦いのひまにつくりし日除けかな

終戦の詔書をうけての内閣告諭

2009-08-15 18:17:49 | 自分史エピソード
64年前の今日
 玉音放送を聞いて意味がわからなかったという声は多いにもかかわらず、「父の日記帳」からも田舎の百姓たちでさえみな敗戦であることを理解していたことがわかる。疑問に思ったがやはり玉音放送の後、「終戦の詔書をうけての内閣告諭」という解説がなされていたことがわかった。その内容の記録を見つけることができないが、敗戦ではないと息巻いていた人たちさえ本当は理解していた筈である。
 「父の日記帳」は終戦の翌日から、人々の動揺と気持ちの変化が続く様が読み取れるものである。終戦で平和になったのだという考えと、軍がただではおかないだろうという不安、それによって壕を掘り続けるべきかどうか迷うさま、厚木航空隊の扇動ビラの入手などである。しかし、現実は軍の物資はどんどん配給されるし、飛行機の解体に駆り出される現実から次第にもう戦いに巻き込まれることはないんだと悟っていく。
 
 毎年、戦没者慰霊祭などで首相は先の大戦で亡くなった人に対する鎮魂の言葉はある。戦没者が礎となって今の日本の繁栄があるという感謝の気持ちがある。しかし、なんとも納得できない。皆さんは当時の国の誤った政策により無駄死にをさせてしまいました、という謝罪の言葉が何時の政府によって出るのでしょうか。

 無知な政府を作らせないのは我々有権者の権利である。この8月30日に奇しくも総選挙がある。

父の日記帳:8月15日

2009-08-14 21:33:31 | 自分史エピソード
終戦の日
8月15日
今日正午重大放送があると予告しているので多分本土敵上陸に対する決戦の国民の覚悟を要請するくらいのものと思っていた。今日は松根割の日割で6時に国民学校の校庭に集まる。切れぬのこぎりで松の根をひいているうちに12時になった。重大放送は天皇陛下が勅書を御自ららお読みになるのだ。それが意外にも無条件降伏といふことになったのだ。後で鈴木首相の声も聞いた。意外なことで顔を上げることもできぬ。私は松根割の昼飯に帰宅していてこのことを聞いた。私はこれだけ聞いて炎天下を校庭に行く。松根割の用もなくなったので薪割りと鋸を担いで帰った。ちりぢりに皆帰った。隣近所の男も女も集まって顔の色を変えている。
家の前の木陰では朝鮮人の靴直しが仕事をしている。1足の修理代が30円だといふ。わずかの間に百円ばかり札を集めて帰っていく朝鮮人は元気だ。店でも精米でも(近所の雑貨やと精米所のこと)豪堀は中止だ。そんな用はなくなったのだ。せっかく骨を折って掘ったものが用のなくなったというのもさびしい。
今日の日のことは細密に書きたいが書けない。ただ驚くばかりでまとまった感じができないのだ。学徒動員で工場に勤めていた香代が早く帰ってきた。明日一日休みで明後日から学校に出席するのだという。工場も中止なのだ。香穂は常通りの時間に帰ってきた。彼は中津飛行場に勤めていたのだが第一期は終わったのだ。戦争は負けたのではない、明日も同様に努めるのだと言っている。
午後からはラジオを離れずに聞いた。しかし野良着のままだ。女房に早風呂を沸かしてもらって昼湯に入る。そしてラジオを聞いた。今は心が騒いで書けない。今日のことは落ち着いたときに書いて見ようと思う。


 毎年、この日が近づくと気になることがある。わたしは、この放送を意味がわからないながら家族と一緒に畳に座って聞いている。この放送はこの日記帳によく出てくる「渡辺」さんの住んでいる我が家の離れに集まって聞いた。渡辺さんのラジオはよく聞こえたからという理由もあったろう。
 天皇陛下の勅語の後「・・・どうだ恨めしいか・・。」という声が私の耳に残っている。時代が過ぎてこれが空耳だったかどうか毎年みんなに確かめるのだが、誰も記憶にあるという人は出てこない。毎年のこの記念日の放送特集でもそのことが話題に上ることは無い。しかし、父の日記帳で、やはりこの言葉か、それにごく近い言葉が鈴木貫太郎首相から発せられたのではないかという確信のようなものが持てた。


父の日記帳:8月14日

2009-08-13 22:16:28 | 自分史エピソード
8月14日曇り

 早朝から警報が鳴る。何回も鳴る。解除になっては鳴る。沼田と渡辺の日除けを作るのだ。牛の草を刈っていても鳴る。朝飯を食っていても鳴る。沼田と渡辺の日除けを作る。この際日除けなぞ手を出している場合ではないのだがと思うと気がせく。沼田も黙々と働いている。竹を割って細縄で組んで上に載せる。意外なほど立派にできる。

 高橋義三郎が小作金をもってくる。彼は66歳だというがまだ百姓をやっている。せがれの○が牛車を曳くので金回りがいい。壕も2カ所掘ったといふ。66歳になっても命が欲しいと見える。孫たちを思えばやるだけはやっておきたいといふ。私たちはもういい日に死ぬことは出来ないとあきらめているが—といふ。私はまだ彼より10年若いのだがいい日に立ち返って死ぬることも難しい。金があっても財産があっても労働力がない家ではろくな壕も掘ることもできない。労働力のある家では立派な壕も掘れるのだ。山林の木材など人のものもわれのものもなくなっているのだ。人の土地でも山へでも勝手に壕を掘る。それに何の抗議も言えない。今日は立派な家より立派な壕が欲しいのだ。金○や土地や山林なぞは何の役にも立たなくなって今はただ労力ばかりが第一の財産になったのだ。労働力の不足な家族ほどみじめなものはなくなった。人にすがって壕を掘らねばぬ。しかし自分の身を守るに精いっぱいな人たちは金を積んでも壕堀に来てくれる者はなかった。

 今日は私は沼田と向山から杉の丸太を切って運んだ。9尺ばかりに切って担いで川を越して1本ずつ担いで来るのはなかなかつらい仕事だった。

 渡辺のばあさんは寝そべって団扇をつかっている。まだ金がものを言うと思っているのだ。
 お盆でも坊主は棚○にも来なかった。お寺の坊主は出征しているが誰か代わりに来ても良さそうなものだ。坊主も手不足で回りきれないのだろう。高橋大介と和田隆一両家の新盆に線香あげに行く。今日は空襲は無かった。渡辺が中元をくれた。紙に包んだ中に30円入れてあった。中元にせめて百円くらいは包んでくる気前が欲しいと思った。私の欲でなく彼のためなのだ。

国民義勇隊結成
なぜしこに熱砂を踏んでわれも兵
空襲もなし大蜘蛛の畳這う
敵襲下小さき輪をかき蛍落つ
壕堀の炎天に出ていこいけり


戦前からすでに実質地主より小作人のほうが金持だった。とくに我が家はこの数年前まで東京在住で不在だったため土地の権利上のいろいろな問題が起っていた。
父は日記上でご近所の一人一人を棚卸し、悪口三昧を書く。母や子供たちにはただただきつく、姉たちもこのころから面と向かって反抗していた。私も、反抗的とは言えなかったが母の味方だった。
日記の中で、農家の仕事の詳細やご近所や家族の悪口に及ぶものは読み飛ばして転載は控える。父の33回忌をとっくに過ぎた今になっても許せない感情が出てくることがあるから。