De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

父の日記帳:昭和20年8月13日

2009-08-12 21:59:29 | 自分史エピソード
8月13日晴  (  )は追記注釈、○は判読不明
 お盆が来た。お迎えの日だ。朝から沼田と壕を掘る。午前中で掘るだけは終わる。後は丸太を山から切り出してきて柱と天井に張ればいいのだが今日は朝から空襲(警報)で山へ出かけられぬ。午後からは渡辺の日除け掛けをはじめる。尺めぐりの竹2本を切って柱に立てる。立派なものだ。この日除けも今日は出来上らぬ。

 とうとう一日中空襲続きだ。しかし敵機は空を飛ぶだけでこの辺には何にもしなかった。壕へは何度も入った。仕事ははかどらぬ。お盆棚は女房と子供が飾った。香穂(子)も香代(子)も家にいた。香穂は気持ちが悪いといい香代は2回も学校(厚木の女学校、バスで1時間もかかる)へ出かけて途中から空襲(警報)で引き返してきた。

 南瓜をお盆にあげるのでとる。まだ少し若い。トマト5,6個茄子3個胡瓜3本いんげん一掴み、それだけだ。花はあじさい、シュウカイドウ、桔梗、花だけは近所にも分けてやれる。

迎え火はわが子に任せ壕を掘る
迎え火をは○かりたけり決戦下
敵機去る夕べにあかしお迎え火
決戦下むかへ団子も○○めけり
妻や子や迎へ団子もつくり得し
夏がすみつんざき敵機あらはるる
○天をかき混ぜ去りし敵機あり
敵機去りて灯篭に火を入るる○○
敵襲下かなかな鳴いてくれにけり
敵襲の柱めぐりて蛍飛ぶ
敵襲の空より低き蛍かな


俳句の習作が次々出てくるが、彼は俳号(秋外城)を持った一応俳人である。東京在住中は警視庁勤めと、新聞の読者文芸欄の俳句の選者も務めていた。絵も書もやる多芸な百姓なのである。本職は剣道である。
日記に出てくる沼田(竹刀庵)と言う人は、我が家が竹刀の生産をやっていたようで、その作業所に住み込んでいた竹刀作りの2代目である。

父の日記帳:昭和20年8月12日

2009-08-12 10:17:22 | 自分史エピソード
8月12日(晴れ)
 昨日ざっと夕立が来たのでありがたいと思ったがわずか草の露ほどの雨で晴れてしまった。雷も遠くにあったが近付かなかった。今日も朝から暑い。沼田と壕を掘る。
 日曜で武(たけし)も近くに掘り始める。豪堀休暇が取れるのだそうだ。日曜日も休めない人たちだ。針金もない、くぎもない。完全な壕はできない。できるだけで我慢しなければならない。それで死んだらそれまでだ。少ない材料を無理に手に入れようとしてもだめだ。日本国民がだれも完全な壕など作る材料をもっていない。完全な壕を作って生き延びれる人がいたらその人たちに日本の一切を任せる。こう思えば早く死ぬのも生き延びて責任を負ってゆくのもいずれも国のためだ。どっちにしても同じなら若いものに生き延びてもらいたい。老人はこの少ない物資を倹約して生きること。早めに死を迎えることも国のためだ。そのように観念して乏しい材料で壕を掘る。家の山のくりの木を切り倒して柱にした。

 湯河原の海軍病舎の加藤真雄大尉が毎週一回の俳句会に出席してくれるようにと言ってきた。汽車の乗車証明書まで添えてある。行きたい。何としても行きたい。が、行けそうにない。氏は病気再発して遊んでいると書いてあった。きっと回復するだろう。彼は病気では死なない男だ。私も近頃は足ももろくなったし、暑さで立ち暗みすることもある。加藤氏にお願いして一週間も湯河原で保養したい。俳句を作りながら保養できたらこんな良いことはない。
 
 トマトがぽつぽつ熟して夕食膳にのる。去年より胡瓜もなすも収穫が少ない。供出するだけのものがない。茗荷は早くから取り始めて朝晩の汁に入れるほどしかない。


私の記憶の中に、海軍将校の服装をした人が親父と親しくしている場面がある。彼が我が家に逗留中に目の下の中津川を超低空で上流に飛ぶ米軍機があった。あとで、近くの橋が機銃の被害にあったということを知ったが、そのときにその将校はステテコ姿で青梅を拾って庭の端まで走って行って投げつけてきたシーンが記憶に焼き付いている。当然ふざけ半分だった。その将校は何者か気になっていたが、この日記帳にたびたび出てくることがわかった。
彼がくれたという汽車の乗車証明書とは何なのか、そんなものがあったとは知らなかったが、歴史の事実を知りたい。

父の日記帳;昭和20年8月11日

2009-08-11 10:18:13 | 自分史エピソード
終戦記念日が近づいてきました。戦争は歴史のかなたに追いやられていきます。でも、64年前に終わった戦争は、日本が犯したもっとも罪深いこと。世界の人々にも日本国民すべてに対しても・・・。その政治の意志の下でうごめく庶民の記録が手元にありましたので、私の幼少のころの記憶とともに明かしていきます。

8月11日
私と沼田(竹刀庵)と二人で土蔵跡に壕を掘り始めた。孟宗竹の根がはびこって大仕事だ。女房がいり豆を作って茶をいれてくれた。渡辺はご苦労様とも言わない。すぐ目の前で働いているのだからご苦労様ぐらいいだろうに。娘もいたって無関心だ。シャツの汗を絞った。警報が鳴った。空襲も鳴った。それでも鍬を離さなかった。
敵機なきわが機とぶすずみかな
涼しさや日の丸付けし飛機飛べば
豪堀や古き欅を盾として
観念の豪堀りはじむ○○○
壕を掘る人来てじゃがいも喰い尽す


そのころすでに庭隅には防空壕が掘られてあり、空襲警報のたびに私らはそこへ逃げ込んでいました。このころは本土決戦に備えてさらに強固な壕が必要だったのでしょう。渡辺という名前が出てきますが、我が家の離れ(親父が作った座禅堂)に疎開してきていた女性です。土蔵の跡地の壕掘り作業はわたしの記憶にもはっきりあります。ご近所の、住みよさそうな壕を訪ねてあるって、我が家にももっといい壕があったらいいなと子供心にも思っていました。よい防空壕があることがその家のステータスでした。

終戦前後のリアルな日記

2009-08-10 12:53:29 | 自分史エピソード
父の日記帳
このブログで、しばらくの間「父の日記帳」を披露してみたい。それも昭和20年の終戦前後に絞って・・。今の私の年より10年以上若い時に終戦を迎えている。解読するのも簡単でないが、削ることはあっても加えることは無いという前提で書き写していく。

昭和20年8月10日
今日は百姓をせずに家で農業要員の登録申請を書いていた。9時ごろ空襲警報が鳴った。近所の者が2人来て私の山に壕を掘ることを許してくれと言ってきた。どこでも好きなところに掘りなさいと言ってやった。隣の肇も掘らせてくれと言ってきた。これも掘りなさいという。豪堀りの日当が35円と食事という相場だそうだ。
我が家でも新しく壕を掘ろうと、竹刀庵と渡辺と3軒で使うものを掘ることにした。渡辺が金を出し、私が労力と材料を出し竹刀庵は労力だけを出すということにした。
アメリカ一国でさえ負け戦なので、この上ソ連が敵に回っては国民はとても負けだと観念した。この敗戦を何とか生き抜こうと考えた。壕を掘って身を守り、焼き物などを土に埋めたり、食料をかこったりした。しかし布団や衣類を壕におけばすぐ湿気てダメになってしまった。○も壕へはかこえなかった。金にしてもっている方が安全だという者もいたが金で物が買えなくなるのは当たり前だから品物で持っていたほうが得だ。
食糧を蓄えておくことが一番だが、それを焼かれたらそれまでとあきらめるより仕方がない。どこに隠したらよいかいい考えは浮かんでこなかった。家に火が付いたら取り出すことなどとてもできない。どうにもならないと観念した。