De cela

あれからいろいろ、昔のアルバムから新しい発見まで

続・剣道教師(父の日記帳から)

2009-09-01 16:37:34 | 自分史エピソード
続剣道教師
都内と県内でいくつかの学校での非常勤講師をもっていた。終戦年内に次々辞表を出させられる。昭和21年2月14日の日記を転載してみる。

 厚木中学から来てくれと云うので朝6時過ぎに中津バス停で一番に乗る。着くと学校はまだ始まっていなかった。生徒に挨拶してくれと校長が云う。全校生徒を一カ所に集めて校長が長たらしい話をした後私が壇に上った。一通りのあいさつで引き上げようとしたが生徒のいたずら顔が目に付いたので、ちょっと話を加えた。
 マッカーサーは流石に偉いと言ってしまった。
アメリカをやっつけろという気になって剣道を正課にしたのは間違いであった。いやいやだがちょっとやってみようくらいの気持ちで剣道をはじめて剣道の精神がわかるものではない。生兵法大けがのもと。宮本武蔵でも塚原朴伝でも戦わずして勝つことを旨としていた。武と云う字は戈を止めると書く。戦わずして勝つこれ善の善と云っている。荒木大将なぞは私と一緒に修行していたのだが結局は生兵法しか身についていなかったのだ。取り返しのつかない大けがをしてしまった。剣道は日本人には自然に備わっている。捨てておいても滅びるものではない。私ははじめて分かった。日本の剣道は平和を愛好する民族を作るものだ。そういう剣道を学校から除き去るということはマッカーサーが真の剣道の精神を知らぬからだ。考えてみると今までの学校剣道は生兵法者を大勢作り上げただけだ。真の剣道の達人は捨てておいても出てくる。(禁止しても)日本の剣道は滅びない。
そう言ってしばらく生徒達の目を見ると私と生徒たちはしっかりと結ばれていることを感じた。一言話しておいてよかった。



かすかな記憶で、終戦前、朝暗いうちから近所の青年たちが庭にやってきて親父から打ち込みの訓練を受けていた。それに私も加わっていた。
しかし、戦後親父が竹刀や木刀を振る姿は見ていないし、私にもぴたりと教えることをやめた。剣道しか仕事がなかったおやじであるが意外と冷静にこれを見ていたのだ。俳句の世界に入っていったこともそういう気持ちにさせた理由の一つかもしれないが、仮に剣道復活に動いていたら戦後の立場も変わっていたかもしれない。名声をすべて捨てて慣れない百姓に身をやつしたのもなんとなく理解できて来た。