百姓になりたい。
リタイヤした後の第二の人生に「百姓」という選択をすべきであった。
私の言う百姓の意味は「農業従事者」ではない。字のごとく「たくさんの姓を持つ者」、ここで「姓」は役割とか手についた職とかの意味と解釈している。
百姓はまず基本に食糧を生産する。農業という仕事。その仕事を行うための道具や身に着けるもの、その他もろもろを自分で作る。昔なら草鞋を編み、むしろ・コモを編み、鎌・桑・鉈…を研ぐ。生活に必要なものを自ら山野で集めたり加工する。すなわち薪を作り籠を編む。まだまだ自ら生産したものは多い。
今の百姓は、休耕地を活かしてコメ作り・野菜作りをする。その道具や材料はコメリでなんでも用意できてしまう。しかしDIY。道具は買っても物置小屋は自分で作るし、道具の修理は自分でやる。薪ストーブは買うけれど燃料の炭や薪は自作し、コメ・野菜以外キノコの栽培、果樹の育成、山野に入って山菜など自然の恵みを集める。収穫物を加工して保存食とし、余ったものは売る。里山資本主義の原理からすれば、売って金に換えるとは限らず、地域の人と物々交換か物労交換。またはいろんな助け合いと交換する。この流通方式は地域内だけで終わるのでなく、まちの人を呼び込んで一緒に働いてもらい、その報酬の一部にも使う。暖房も風呂も飯炊き・調理も薪。
田舎ではみんなそれをやっているがそれだけでは食っていけないというだろう。だから農業は片手間になり本業はまちに求める。お金の資本主義経済の循環に加わる。
その点、里山資本主義のパイオニアはリタイヤして年金という歯止めを持っている者の特権。今のところ下手な規制があるが、休んでいる農地は無数にあり、その活用について自治体も少しずつその気になりだしている。
そういうことでリタイヤの時に「百姓」という選択に気が付けばよかった。