人気ブログランキング 最初の一手指差し確認を~(このブログ今日もアナタに六方拝)
母親の話によると、周囲に勧められて、お互い顔も見ぬまま結婚し、所帯をもった頃の父は、やたら真面目なだけの、面白みのない男だったそうです。
まるで学生さんのような感じで、子どもっぽくて。2才年上なのに年下みたいで、何となくツマラナイ気がしたとか。
しかし後年、父は無頼派に豹変し、火宅の人でもありました。
私は、そんな父が嫌いでした。母を苦しめて、私たちに恐怖を与える父が。。。
子供のころは、「こんな人、早く死ねばいいのに」と、心の中で思ったこともありました。
まさか、長年記憶の中に封印してきた父親のことを、このようにブログに書くなど、まったく想像だにしませんでした。それだけ、私も歳をとったということでしょう。父も母も、もうこの世にはおりません。
私が学齢前ですから、今思うと、父は40才そこそこだったはずです。小さな魚船を持ち、漁師をしていました。
海のそばに建つ木造の家も、彼自身が作ったものだ、と誰かが言っていました。バラックのような家ですが、広い土間、炉辺や、いちおう人が数人住める屋根裏部屋などもあって、そこそこマトモでした。
いろんな人たちが、ひっきりなしに出入りする家でした。
なので私は、小さい頃から、大人たちのややこしい会話を聞きながら、育っているのです。大人は、子どもに肝心な事を話したりしませんが、彼らの話す口調や表情、声のトーン、前後の雰囲気などで、だいたい何が起こっているのかを、素早く読もうとする子どもでした。
小説でいえば、行間を読む、ということでしょうか。あ、そんな良いものじゃありませんね(笑)ただ、分からない言葉があっても、前後の様子から、ほぼ判断していました。
母親にはいつも、大人の話に首を突っ込むな、人の顔をじ~っと見るのは失礼だからやめなさい!、などと口酸っぱく注意されていました。
今思うと、私は、大人の会話に平気で割って入り、自分の意見を図々しく述べ、人の表情の変化を、まじまじと観察している、子どもらしくないヘンな子ども、だったのかもしれません。…多分おそらく。
乱暴者の父も、私には手を挙げたことがありませんでした。
虚弱で、呼吸をしているのがやっとの子どもであり、生意気だが、一発張り倒せば、即「危篤」状態になるのが分かりきっていたためか、その恐ろしい目で、睨みつけるだけでした。
船が漁をして帰ってくると、女性や年寄りや子どもたちが、岸壁で待っていて、皆で協力して、水揚げした魚を陸に運び入れるのです。
着岸すると、艀(はしけ)と呼ばれる板を2本ほど渡して、そこを行き来するわけです。板の幅は、40cmくらいでしょうか。人が歩くと、撓(しな)って揺れました。
女は、船に乗ることを禁じられていました。艀にも、乗ってはいけないといわれていました。船魂(フナダマ)さんは女だから、人間の女が船に乗ると、嫉妬してしまって、航海に良くない事がある、というのです。
フナダマさんというのは、たぶん、船の神様のことでしょう。「船魂」は、私が想像して当てた漢字です。
そんなわけで、船に乗って海を眺めてみたかった私は、父に頭ごなしに叱られていました。それで、諦めていたのが、ある日父の気まぐれなのか、強情な子どもに根負けしたものなのか、乗せてもらえることになったのです。
「まぁ、女といっても子どもだし、フナダマさんもそう怒らないだろう」、という理屈で。近くの沖を、15分くらい走らせてくれました。
私は、舳先から飛ぶような波しぶきを覗き込んだり、広い海を眺めたり、初めはもの珍し気にしていましたが、その船は漁船です。
観光用のキレイな遊覧船ではありません。汚いし、魚臭いし、景色も単調だし、潮風は烈しいしで、すぐに飽きました。そもそも私は、魚が苦手なのです。臭いも、触るのも、食べるのも、苦手なのです。
父は私を持て余し、岸壁に戻る頃には、ほとんどウンザリしていました。そして、私はこれだけでもう満足したものか、二度と、船に乗る~!とは言わなかったと思います。
父親はひどい人だ、と長年思っていましたが、記憶をたどると、こんな面白い事もあったのでした。
20才くらいの頃、父も戦争の傷あとを背負って、苦しんできたのではないか。だから、中年以後に愚連隊のようになって、無頼、火宅になったのではないか、などと考えようとしたことがありました。
何より、父は戦争に行ったことを、ひとことも話さなかった。確かサハリンにいたのだから、もしかしたら、シベリヤに抑留されていた可能性もある。
敵を殺戮に行っている戦争で、自分が生き残るためには、あらゆることをしただろう、と想像する。
兄が、子ども達への景品にした勲章も、どうして良いのか分からない、行き場を失っていた遺物だったのかもしれない、と推測した。だから、父は兄を叱らなかったのか。そんな気もする。
「勲章」を、大事にされている方々には、誠にもって失敬なお話で、心から申し訳ないことだと、この場からですが、お詫び申し上げます。
その当時の父の、足の脛やわき腹からは、まだ細かな銃弾の破片が、時々出てきていたことを、鮮明に覚えている。
(五十里(いかり)ダム湖/昨年撮影)
母親の話によると、周囲に勧められて、お互い顔も見ぬまま結婚し、所帯をもった頃の父は、やたら真面目なだけの、面白みのない男だったそうです。
まるで学生さんのような感じで、子どもっぽくて。2才年上なのに年下みたいで、何となくツマラナイ気がしたとか。
しかし後年、父は無頼派に豹変し、火宅の人でもありました。
私は、そんな父が嫌いでした。母を苦しめて、私たちに恐怖を与える父が。。。
子供のころは、「こんな人、早く死ねばいいのに」と、心の中で思ったこともありました。
まさか、長年記憶の中に封印してきた父親のことを、このようにブログに書くなど、まったく想像だにしませんでした。それだけ、私も歳をとったということでしょう。父も母も、もうこの世にはおりません。
私が学齢前ですから、今思うと、父は40才そこそこだったはずです。小さな魚船を持ち、漁師をしていました。
海のそばに建つ木造の家も、彼自身が作ったものだ、と誰かが言っていました。バラックのような家ですが、広い土間、炉辺や、いちおう人が数人住める屋根裏部屋などもあって、そこそこマトモでした。
いろんな人たちが、ひっきりなしに出入りする家でした。
なので私は、小さい頃から、大人たちのややこしい会話を聞きながら、育っているのです。大人は、子どもに肝心な事を話したりしませんが、彼らの話す口調や表情、声のトーン、前後の雰囲気などで、だいたい何が起こっているのかを、素早く読もうとする子どもでした。
小説でいえば、行間を読む、ということでしょうか。あ、そんな良いものじゃありませんね(笑)ただ、分からない言葉があっても、前後の様子から、ほぼ判断していました。
母親にはいつも、大人の話に首を突っ込むな、人の顔をじ~っと見るのは失礼だからやめなさい!、などと口酸っぱく注意されていました。
今思うと、私は、大人の会話に平気で割って入り、自分の意見を図々しく述べ、人の表情の変化を、まじまじと観察している、子どもらしくないヘンな子ども、だったのかもしれません。…多分おそらく。
乱暴者の父も、私には手を挙げたことがありませんでした。
虚弱で、呼吸をしているのがやっとの子どもであり、生意気だが、一発張り倒せば、即「危篤」状態になるのが分かりきっていたためか、その恐ろしい目で、睨みつけるだけでした。
船が漁をして帰ってくると、女性や年寄りや子どもたちが、岸壁で待っていて、皆で協力して、水揚げした魚を陸に運び入れるのです。
着岸すると、艀(はしけ)と呼ばれる板を2本ほど渡して、そこを行き来するわけです。板の幅は、40cmくらいでしょうか。人が歩くと、撓(しな)って揺れました。
女は、船に乗ることを禁じられていました。艀にも、乗ってはいけないといわれていました。船魂(フナダマ)さんは女だから、人間の女が船に乗ると、嫉妬してしまって、航海に良くない事がある、というのです。
フナダマさんというのは、たぶん、船の神様のことでしょう。「船魂」は、私が想像して当てた漢字です。
そんなわけで、船に乗って海を眺めてみたかった私は、父に頭ごなしに叱られていました。それで、諦めていたのが、ある日父の気まぐれなのか、強情な子どもに根負けしたものなのか、乗せてもらえることになったのです。
「まぁ、女といっても子どもだし、フナダマさんもそう怒らないだろう」、という理屈で。近くの沖を、15分くらい走らせてくれました。
私は、舳先から飛ぶような波しぶきを覗き込んだり、広い海を眺めたり、初めはもの珍し気にしていましたが、その船は漁船です。
観光用のキレイな遊覧船ではありません。汚いし、魚臭いし、景色も単調だし、潮風は烈しいしで、すぐに飽きました。そもそも私は、魚が苦手なのです。臭いも、触るのも、食べるのも、苦手なのです。
父は私を持て余し、岸壁に戻る頃には、ほとんどウンザリしていました。そして、私はこれだけでもう満足したものか、二度と、船に乗る~!とは言わなかったと思います。
父親はひどい人だ、と長年思っていましたが、記憶をたどると、こんな面白い事もあったのでした。
20才くらいの頃、父も戦争の傷あとを背負って、苦しんできたのではないか。だから、中年以後に愚連隊のようになって、無頼、火宅になったのではないか、などと考えようとしたことがありました。
何より、父は戦争に行ったことを、ひとことも話さなかった。確かサハリンにいたのだから、もしかしたら、シベリヤに抑留されていた可能性もある。
敵を殺戮に行っている戦争で、自分が生き残るためには、あらゆることをしただろう、と想像する。
兄が、子ども達への景品にした勲章も、どうして良いのか分からない、行き場を失っていた遺物だったのかもしれない、と推測した。だから、父は兄を叱らなかったのか。そんな気もする。
「勲章」を、大事にされている方々には、誠にもって失敬なお話で、心から申し訳ないことだと、この場からですが、お詫び申し上げます。
その当時の父の、足の脛やわき腹からは、まだ細かな銃弾の破片が、時々出てきていたことを、鮮明に覚えている。
(五十里(いかり)ダム湖/昨年撮影)
そりゃあそうだったでしょうよ!
そんな感じですね。
お父上には深い部分(ひょっとしたら意識下?)での苦悩があったのでしょうか。
戦火ををくぐって戦った末、敗戦の責めを背負って戻ってきた方が、安易には無頼派や火宅の人にはならないのではないでしょうか。
経営手腕もおありだった一徹な船主だった。
もちろん、子供だったトーコさんには理解出来なくて当然でしょうが、(銃後にいた単なる軍国少年の私にも発言の資格はないが)、苦悩の果ての行為だったようにも思います。
私の叔父にも復員軍人がおりまして、なんとなく得心できます。
生意気を言っているようで、気持ちが落ち着きませんが、コメントを投稿させて頂きます。
父はこの後、最終的に事業にも失敗し、家族を連れて、逃げるように転地しました。
宮本輝さんの小説ではないですけれど、まるで「流転の海」のようでした。
父は、世間への恨みつらみで、破れかぶれになったのでしょうか。よく分かりませんが、私は大人になって、それなりに理解しようとしたことはあります。
本当に、家族それぞれが「流転の海」に、投げ出されたような人生だったのでした。
思い切って、このような事(戦争にまつわる話など)を書けたのは、ひよどりさんやささゆりさんとの、貴重な”ご縁”だと思っています。感謝しています。
コメント、ありがとうございました(合掌)
今回の内容は
「海に出て 木枯らし帰る ところなし」
山口誓子
でしょうか。
そして一雄「火宅の人」輝「流転の海」ですか~。
う~ん。今回のエントリーの答えは。。。
又ネット船でお邪魔します~。
相変わらずうまいなぁ場面が見えるようです。
私は文章の上手下手は、身を切っているかどうかだと思っています。
プロかアマかの違いもそこにあると思います。
お父さんの事も、ご苦労が有った事も、皆栄養、皆素材です。きっと実りますよ。
家の父も戦友会には行きますが、家族に戦争の話はしません。
TVの戦争映画も見ません。
昔、コンバットってあったんですが、入れると寝に行っていました。
そういう経験を若い人にさせないよう、良く見張っていようと思います。
船外機などもないころで手漕ぎの舟でした。
小学2~3年くらいになると釣りに必ず出されました。
夏などご午前3時頃起こされてタイ釣りに出ました。
タイを釣る前に餌となるエビを捕ります。
大きな石を取り付けた網を海底に沈めてそれを引きます。
自分の背丈くらいの櫓(ろ)を一生懸命漕ぎました。
北斗七星や白鳥座、七夕の星などがきれいに輝いていたのをよく覚えています。
タイは今でいう「テンビン」という道具で釣りましたが、キラキラと輝いて海面に上がってくる姿はきれいでした。
太陽が上がる頃に釣りは終わりです。
「タイをエビで釣る」という言葉を知ったのは大人になってからでした。
懐かしい昔を思い出させて頂き、ありがとうございました。
生まれたような気がします。
今のトーコさんは、この歩んで来た道から成り立っているのではないでしょうか?
尊敬します。私も子供の頃は貧乏と苦労したと思っていましたが、まだまだトーコさんには及びません。
五十里ダム湖のなんと綺麗なこと!
青々とした湖に吸い込まれそうです。
山口誓子ですか?いろいろと、ソノ、教養が深そうで、私は付いてゆけるのでしょうか、そんなアナタに。。。あはっ!
先ほどブログの方に伺ったのですが、ナイスバディの女性専務って、やはり森と山ちゃんさんの奥さまのような気がしてきました(ゾ~ッ)
あの頃の空。どう考えても”青”かったですね。空を見上げては、わが身の器の小ささを知る。世界は広いんだぜぃ~(笑)
コメント、ありがとうございました(合掌)
今、晩ご飯を食べて帰ってきました。エビフライ定食です。もう、何も食べられません、、、ってサイダーを飲んでいますが(笑)
身を切る。知っています。身を切るって、素顔の自分と正面から向き合う事ですから、怖いですよね。私には、とてもできない、無理なことだと思います。
私は、いろんな事があったのですが、それほどでもなし、なんて。少し、アホなんでしょうかね。
実は、その後の人生も、さらに尋常じゃありませんでした。でも、それがあって、今の自分があると思っていますから、それで帳尻は合っているはずです。
「コンバット」、泣けるような良い番組でした。でも、戦争モノは、今も見るのが辛いです。
コメント、ありがとうございました(合掌)
まぁ~、お爺様が、漁に?
山小屋さんも、いろいろな体験があるのですね。力仕事と、美しい自然とのコラボレーション、、、素晴らしいですね。
エビでタイを釣る。タイは、高級魚ですから、エビも仕方がないですよ(笑)
光る海と、光るテンビンと、光る鯛の姿。一遍の詩が出来そうです。
爽やかなコメント、ありがとうございました(合掌)感謝!
その時は、苦しかったけれど、今は笑って話せます、たぶん。元々、深刻ぶっても、ホントは「隠れ能天気」なのかもしれません(笑)
文章を褒めていただいて、ありがたいのですが、心の中では、強く打ち消してしまう自分がいます。なかなか、屈折していますね~。苦労をすると、こころが捻じ曲がるといいますが、それも真実でしょうね。
少しずつ、まっすぐに直して行きたいと思っています。今後とも、ヨロシクお願いします
こちらから会津に向かう途中に、五十里湖ダムがあります。殺風景な場所ですが、水はきれいなようで、のぞいていると、飛び込みたくなりますよ(あ、うそうそ)あはは。
温かいコメント、ありがとうございました(合掌)