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(このブログ今日もアナタに六方拝)
私がまだ、小学校に行く前だったと思います。
どこの貧しい家でも、子どもの数はけっこう(少なくとも2~3人は)おりました。子どもたちは、親の顔色を覗いながらも、とっても自由に楽しく、外で走り回って遊び、生活していました。
親は、虫の居所の悪い時は、不条理に、子どもを酷く叱りつけたりもするのでした。悪い事をした時?
いえ、それもどうなのか分かりません。とにかく、怒りが爆発するかどうかは、親の手前勝手な特権なのです。理由なんか、知りません。
現在は、「児童虐待」などといいますが、それとも違うようです。いちおう、親は一生懸命子どもを育てているのです。しかし、たまに、子どもが何か仕出かしたことで、親の逆鱗に触れたときには、「折檻」という罰が下されます。
ですから、日頃、いろんな悪さをしている子どもは、親の顔色を覗うのが、当たり前になるわけです。万一の場合、素早く逃げなくてはなりませんから。
現代では、親が子どもの顔色を覗いますので、世相が大逆転しています。わずかこの4、50年の間のことです。
当時、私は病弱でしたので、誰もいない家で(両親は仕事に行っていました)ひとりで、寝かされていることが多かったのです。幾らなんでも、そうは寝ていたくもありません。子どもですから、退屈になると家中の探検なんかをやります。
ある時、タンスの中に、紫色の布に大事そうに包まれた何かを発見しました。タンスの底の、奥の方に隠してあるようにありました。そうっと、形を崩さないように外に出し、何が入っているのかドキドキして見たら、それは戦争中の「勲章」のようでした。
父親が貰ったものでしょう。立派な箱に入っているものもあれば、箱がなくむき出しのもありました。
私は何か、見てはならない物を見たのかもしれないと思い、母に気付かれないように元通りに、細心の注意を払って同じように布に包み、元あった場所にしまいました。その時生唾を、ゴクリと呑みこんだ気がします。
私の兄は、10才くらい上だったので一緒に遊んだことがありません。不思議な事に、小さい頃に兄のいた記憶がほとんどないのです。兄は、どこで生存していたのでしょうか。
いえ、家の中のどこかにいたことは、間違いありません。兄の友人たちが来て楽しそうだったので、覗きに行った時、追い払われた事がありましたっけ。
ある日、兄は何を思ったのか、外で走り回って遊んでいる近所の男の子どもたちに、駆けっこをして1等賞になったら、賞品をあげるから、ここからあそこまで競争してみろ!と、命令しました。
近所の子どもたちは、年上のお兄ちゃんが言うことですから、素直に従い、兄のヨーイ、ドン!の掛け声で一生懸命に走りました。その度に、1等賞の子を兄は褒めて、賞品を渡していました。
それは、あの、父の「勲章」でした。勝手に持ち出して、子どもたちにあげているのです。
あの「勲章」の存在を、兄も知っていたのだ、とがく然とし、それを気安く他人にあげてもいいのだろうか?と、息を呑みました。むろん、親に言うつもりなどはありません。先のことを考えると、ただ暗澹とした気持ちになりました。兄はと見れば、へらへらと笑っているのです。
案の定、その日の夜遅くだったか、血相を変えた村の男の人が、うちに駆け込んできて、「あ、あんたんとこのSちゃんが、村の子どもらに、オヤジの勲章くれたって言ってるぞ!ど、どうなってるんだ~!」と、息せき切って叫んだ。
私は、これは大変なことになった、これから修羅場になるのか?と、すぐさま父と兄の様子を窺った。
兄は、父の方を見ながら、すぐに逃げだせる態勢をとった。以前にも、ムロ(深くて真っ暗な、床下の保存食貯蔵庫)に、ロープで吊るされたことがあったのだ。
父は、意外にも、静かだった。一瞬何が起こったのか、私には訳が分からなかったくらいだ。
父親は、…いや、いいんだ、と言った。いいんだ、Sが子どもにソレをやったのなら、ソレは貰った子どものものだ。あんたも、こんな夜に、せっかく急いで知らせに来てくれたのに、手間かけて悪かったなぁ、と言った。
息せき切って駆け込んできた村の人も、あっけにとられていたようだった。まぁ、それならいいんだけど、と言いながらも、どうにも腑に落ちない顔で帰っていった。
兄は、ひと言も叱られもせず、その場は何事もなかったかのように、静まり返っていた。不気味なほどに。。。
父親は、特に母親に対してでもなく、誰にともなく、まぁ~いいさ、そうかぁ駆けっこの1等賞の賞品にしたのか、と下を向いて独り言のように、少し苦笑いでもするように呟いていたことを、思い出した。
あの(ふだん乱暴者の)父親にとって、「戦争」がどういうものであったのか、幼い私には、まだなにも理解が出来なかった頃のお話である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/f5/4c3b222a387da591784e378b2f0c50a4.jpg)
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私がまだ、小学校に行く前だったと思います。
どこの貧しい家でも、子どもの数はけっこう(少なくとも2~3人は)おりました。子どもたちは、親の顔色を覗いながらも、とっても自由に楽しく、外で走り回って遊び、生活していました。
親は、虫の居所の悪い時は、不条理に、子どもを酷く叱りつけたりもするのでした。悪い事をした時?
いえ、それもどうなのか分かりません。とにかく、怒りが爆発するかどうかは、親の手前勝手な特権なのです。理由なんか、知りません。
現在は、「児童虐待」などといいますが、それとも違うようです。いちおう、親は一生懸命子どもを育てているのです。しかし、たまに、子どもが何か仕出かしたことで、親の逆鱗に触れたときには、「折檻」という罰が下されます。
ですから、日頃、いろんな悪さをしている子どもは、親の顔色を覗うのが、当たり前になるわけです。万一の場合、素早く逃げなくてはなりませんから。
現代では、親が子どもの顔色を覗いますので、世相が大逆転しています。わずかこの4、50年の間のことです。
当時、私は病弱でしたので、誰もいない家で(両親は仕事に行っていました)ひとりで、寝かされていることが多かったのです。幾らなんでも、そうは寝ていたくもありません。子どもですから、退屈になると家中の探検なんかをやります。
ある時、タンスの中に、紫色の布に大事そうに包まれた何かを発見しました。タンスの底の、奥の方に隠してあるようにありました。そうっと、形を崩さないように外に出し、何が入っているのかドキドキして見たら、それは戦争中の「勲章」のようでした。
父親が貰ったものでしょう。立派な箱に入っているものもあれば、箱がなくむき出しのもありました。
私は何か、見てはならない物を見たのかもしれないと思い、母に気付かれないように元通りに、細心の注意を払って同じように布に包み、元あった場所にしまいました。その時生唾を、ゴクリと呑みこんだ気がします。
私の兄は、10才くらい上だったので一緒に遊んだことがありません。不思議な事に、小さい頃に兄のいた記憶がほとんどないのです。兄は、どこで生存していたのでしょうか。
いえ、家の中のどこかにいたことは、間違いありません。兄の友人たちが来て楽しそうだったので、覗きに行った時、追い払われた事がありましたっけ。
ある日、兄は何を思ったのか、外で走り回って遊んでいる近所の男の子どもたちに、駆けっこをして1等賞になったら、賞品をあげるから、ここからあそこまで競争してみろ!と、命令しました。
近所の子どもたちは、年上のお兄ちゃんが言うことですから、素直に従い、兄のヨーイ、ドン!の掛け声で一生懸命に走りました。その度に、1等賞の子を兄は褒めて、賞品を渡していました。
それは、あの、父の「勲章」でした。勝手に持ち出して、子どもたちにあげているのです。
あの「勲章」の存在を、兄も知っていたのだ、とがく然とし、それを気安く他人にあげてもいいのだろうか?と、息を呑みました。むろん、親に言うつもりなどはありません。先のことを考えると、ただ暗澹とした気持ちになりました。兄はと見れば、へらへらと笑っているのです。
案の定、その日の夜遅くだったか、血相を変えた村の男の人が、うちに駆け込んできて、「あ、あんたんとこのSちゃんが、村の子どもらに、オヤジの勲章くれたって言ってるぞ!ど、どうなってるんだ~!」と、息せき切って叫んだ。
私は、これは大変なことになった、これから修羅場になるのか?と、すぐさま父と兄の様子を窺った。
兄は、父の方を見ながら、すぐに逃げだせる態勢をとった。以前にも、ムロ(深くて真っ暗な、床下の保存食貯蔵庫)に、ロープで吊るされたことがあったのだ。
父は、意外にも、静かだった。一瞬何が起こったのか、私には訳が分からなかったくらいだ。
父親は、…いや、いいんだ、と言った。いいんだ、Sが子どもにソレをやったのなら、ソレは貰った子どものものだ。あんたも、こんな夜に、せっかく急いで知らせに来てくれたのに、手間かけて悪かったなぁ、と言った。
息せき切って駆け込んできた村の人も、あっけにとられていたようだった。まぁ、それならいいんだけど、と言いながらも、どうにも腑に落ちない顔で帰っていった。
兄は、ひと言も叱られもせず、その場は何事もなかったかのように、静まり返っていた。不気味なほどに。。。
父親は、特に母親に対してでもなく、誰にともなく、まぁ~いいさ、そうかぁ駆けっこの1等賞の賞品にしたのか、と下を向いて独り言のように、少し苦笑いでもするように呟いていたことを、思い出した。
あの(ふだん乱暴者の)父親にとって、「戦争」がどういうものであったのか、幼い私には、まだなにも理解が出来なかった頃のお話である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/f5/4c3b222a387da591784e378b2f0c50a4.jpg)
親父に暗い物置に入れられてました。
賞品で、勲章をあげるなんて、
お兄さん、気前がいいですね。
また、トーコさんのお父さんも、
気も心も大きい人だったんですね。
ただ、環境が変わって、選択肢が増えて、ゆとり(遊び…何か起きても影響が少なくすむ間合い)がなくなって、事が大きくなって…小学生殺害予告の2ちゃんねるの書き込みもそうなのかも知れません。
お父さまはすごいですね。僕には出来ません。
理不尽なものに立ち向かう知恵がつくという意味では、子供が親の顔色をうかがうってのはいいこと…なのかもしれません。
子供の顔色うかがってどーするんでしょう?それでも親か!(怒)
…でも、老いては子に従いますけどね(爆)
今日は気持ちよく晴れています。
花粉さえ飛んでいなければね--
子供の頃ちょっとは理不尽な事があっても、勲章の一件でお父様の立派な一面を知ることが出来、幸せでしね。
そこらじゅうで子供の遊ぶ声が聞えたのに今は静かです。
スーパーのゲームの所にたむろしていたりします。
リンクしていただきありがとうございました。私も致しました。
少し前に月夜だから魚が少ないねーと母と話したので月齢を調べました。
お話の夜の月ですね。
私も親は働きに行ってましたから、昼間は一人で
家の中を冒険(捜し)しました。
ドキドキしながら・・・
大した物は無いのですけど!
一銭硬貨を見つけては、何枚か持って駄菓子屋さんで
あめを買った思い出があります。
あぁ~こうして思い出してみると、私も古い人間なんですね。
海軍に行ったようです。
戦争の話は父はあまりしませんでした。
自分が乗っていた軍艦が撃沈され、
海に飛び込んで必死で船から離れ
(離れないと船が沈む時に吸い込まれる
そうです)仲間の船に助けられたという
話だけは聞きました。
父は裁縫なんかも自分でやってました。
軍隊生活の名残でしょうかね。
酒乱の気さえなければいい父親だったのに。
最後の月まで。
勲章を勝手に持ち出した兄が、何を考えていたのか、全く分かりません。特別、深い考えがあったとは、(普段の言動からして)思えないのですが、単に家に目ぼしい物がなかったからかもしれません。超貧乏ですから(笑)
勲章は数個あったと思いますが、子ども達に好きなのを選ばせたので、良さそうなものから無くなって、残っていたのは少しでした。それも、引越しを繰り返しているうちに、散逸したようです。
父には、「勲章」への執着はなかったようでした。
返信が遅くなってごめんなさいね~
子どもに、不自由を押し付けてきた社会が、可哀想な子どもを作ってきた気がします。
伸び伸び育てたいですよね、誰だって。伸び伸び、育ちたいですよ、子どもの方だって。
でも、それが許されない状況にあります。今の若い親が良くないのは、その上の親にも問題があります。
伸び伸び、というのは、野放図とは違います。放任というのでもありません。叱らない、ということでもありません。難しいですね、子育ては。
いつだったか、友人と話していて、「自分が生んで、自分が育てた子に、なぜそんなにも遠慮する必要があるのだろう!」なんて、話をしたことがあります。
老いては子に従え。私は、”是々非々”で行きたいと思います(笑)
応援とコメント、ありがとうございました
月の写真は、携帯カメラで、しばらく前に写したものです。当時のこの事件の夜も、こんな月夜だったような気がして。。。
村には当時、街灯もありませんでしたから、月明かり、星明りで、外を歩くのでした。けっこう、見えます。
父は、決して立派な人ではなく、、、それでも、多少マトモな時もあったのかなぁ、なんて(笑)
子どもが外で、賑やかに遊んでいると、うるさがる人もいるのです。でも、子どもの声も聞こえないなんて、幾ら静かでも「変」ですよね。
私には、楽しげな鳥のさえずりに聞こえて、嬉しいですけれど(笑)
リンクしていただいて、感謝です。コメントはしてないですが、応援は2つして来ましたよ~
こちらも応援とコメントを、ありがとうございました
昔の家ですから、探検もけっこう怖いです。
屋根裏部屋なんかもあって、はしごをかけて上るのですが、そこには当時手伝いに来ていた人が、3人くらい寝起きしていました。
そこは、そ~っと、覗いただけです(笑)トイレも、電気がついてなくて、夜は、ロウソクに火をつけて持っていって、ロウソクを置く台に置いてから用を足すのです。
不便だったけれど、今思うと、面白い世界でしたね。応援とコメント、ありがとうございました