今日の葉痕探し〰️タラの木
もう鶴であるはずはなし凍てし杭 青萄
アオサゆれ原始の森に黒兎
石蕗の花迫る山気と青天頂
やまぬ雪煙突は煤つまらせて
寒灯下機械居ならぶ整体院
のこさるる汝の身の暗し寒椿
脱半世紀いまも主任はラガーマン
貌みせぬ看板猫も狩の宿
やくそくの男おとのう雪おんな
春立つやふるることなき星騒ぐ
葉痕探し〰️クサギの木↑明日からはうんと寒いというので今日歩く~🚶♀️
今日の葉痕探し〰️タラの木
もう鶴であるはずはなし凍てし杭 青萄
アオサゆれ原始の森に黒兎
石蕗の花迫る山気と青天頂
やまぬ雪煙突は煤つまらせて
寒灯下機械居ならぶ整体院
のこさるる汝の身の暗し寒椿
脱半世紀いまも主任はラガーマン
貌みせぬ看板猫も狩の宿
やくそくの男おとのう雪おんな
春立つやふるることなき星騒ぐ
葉痕探し〰️クサギの木↑明日からはうんと寒いというので今日歩く~🚶♀️
わたしは、この句がずっと気になっていました。
鶴も杭も作中主体自身の投影したものだろうと
思うのですが、
「もう鶴であるはずはなし」ではなくて、
<まだ鶴であるはず>であるはずだと
わたしはおもうのです。
もう~であるはずはなし
と言われれば、
私には悲しすぎ
まだ~であるはずと
その残っているだろうところに
賭けたい気持ちがありました。
愛の表現って難しいですね。
できれば思念を深めて内側からつかみ出す、そんな作句を目標にしたいです🥵