日光街道の杉並木の中を歩いてみる(1)

2014-06-11 19:10:00 | 空見屋のスマホで絶句

どうもこんばんは~梅雨らしい梅雨の日ですが時折止むので、そんな頃合いを見ては、杉並木に「なにやら古めかしいもの」を探しに行きますよ~

歴史民族資料館で日光街道のコピー資料を貰ったことから、ちょっと街道探検に♪ まずは「大沢宿」あたりから。近年新しい道路ができました、杉並木保護のために、昔の道は旧道のようになっています。車は通行も進入も禁止、人の姿もほとんどありませなんだ。

貰ったコピー資料が何年前のものなのか分りませんので、ハタシテ現況がどうなっているのか・・まずはボチボチ歩きながら探していきましょう。








「大沢の一里塚」↑江戸から32里目の一里塚で、ここの地名をとって「水無の一里塚」とも呼ばれています。「したに~したにぃ」と、将軍が御成りになるから「御成り街道」なんですね。

「水無」の地名の由来は諸説あり、一つはかつてこの辺の水利が悪く、畑地ばかりであったという説。もう一つは、名主・清兵衛の宅地に大きな梨の木があり、水分の多い甘い梨だったので「水梨」と呼ばれ、それが「水無」になったという説。





「大沢御殿跡」を探す↑現在は新しい道路に「御殿工場入口」バス停の名としてのみ残っておりました。

「御殿工場」って何?→江戸幕府が滅んだ明治元年(1868年)に、安西氏が請うて、この地で材木業を営んだことからその名で呼ばれたとか。





そもそも「大沢御殿」とは?嘉永4年(1627年)↑徳川3代将軍家光の日光社参にあたり、幕府が将軍休息所・装束衣帯所として設けたものです。将軍が日光東照宮をお参りすることを、特に(わざわざ)「日光社参」と呼びます。

ここから北へ伸びる県道279号(大桑・大沢線)は、老中水野忠邦が通行する際に整備されたことから、「御老中街道」とも。





これが「大沢の4本杉」です↑4本の杉が四角形の各点から、ほとんど同じ大きさで立ち、均整の取れた箱型に。互いの倒木を防ぐための植樹法による、といわれています。




案内板があるわけでなく、資料のコピーを覗き込みながら、あれかな?これかしら?違うかなぁ~と探すわけです。まぁそんな塩梅ですから、目指しても見つからない場合が多いと思いますが、そこはご勘弁下さいませ。

現に「大沢の古杉」と、八坂神社は見つけたものの、どうにも「八坂の枝喰い杉」は見当たりませんでした^^;

「大沢宿・おおさわじゅく」について(資料から)↓

この地は建久年間(1190~1199年)に源頼朝が狩に訪れ、あまりに荒地なのを見て、4人の従者(宮下・大島・安西・高橋)に開拓居住させたのが始りといわれています。地名は、頼朝がご恩沢されたということで「恩沢・おんたく」、のちに「大沢・おおさわ」になった、と伝えられました。

大沢宿は元和3年(1617年)に、日光東照宮が造営された後、江戸から19番目の宿場となり、天保4年(1833年)に飯盛女を置くことが許可され、翌年に茶屋・旅籠の往来人引止めを目的とする取り決めができると、宿場内はたいへん賑わったそうであります。




真贋のほどはさておき風入るゝ 竹之内豊明






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