床上手再訪
■ 『頭が良くなるクラシック (2008年5月9日)』
デンマンさん。。。、おとといの9日にはクラシックを持ち出して、少しは格調高くなったと思っていたのに、また下ネタに逆戻りですか?
うん、うん、うん。。。そう言われてみると僕は弁解できないのだけれど、ちょっと気になることがあってね。。。
一体何が気になっているのですか?
川上宗薫のことですよう。
作家ですよね?下ネタを扱った小説をたくさん書いていましたよね?
レンゲさんも、やっぱりそう思っているのですか?
だって、川上宗薫は純文学の作品を書いた事はないと思いますわ。それで、デンマンさんはどうして川上宗薫の事が気になるのですか?
■ 『床上手 (2008年5月7日)』
僕は5月7日に上の記事を投稿したのですよう。その時に「床上手」をフリー百科事典『ウィキペディア』で調べてみたのですよう。
それで。。。?
残念ながら、そのものズバリの項目はありませんでした。次のようなページが表示されたのですよう。
検索結果
問い合わせ: "床上手"
項目名とは一致しませんでした
■ 四畳半襖の下張 ... 、「この女思ふに老人の旦那にでもよくよく仕込まれた床上手と覚えたり」と男が思うあたりには、作者の観察の鋭さ ...
6 キロバイト (9 words) - 2008年4月23日 (水) 13:59
■ 川上宗薫 床上手としても名を馳せ、女性雑誌に「お手伝いさん募集」の ...
13 キロバイト (95 words) - 2008年4月8日 (火) 06:38
■ オールナイトフジ *床上手、IEKI吐くまで(片岡鶴太郎)
27 キロバイト (137 words) - 2008年4月14日 (月) 12:59
■ 月姫 (ゲーム) : とある理由からかなりの床上手。
68 キロバイト (543 words) - 2008年5月5日 (月) 16:43
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
僕は川上宗薫のファンではないけれど、週刊誌でこの人の作品をいくつか読んだことがあるのですよう。
やっぱり、下ネタの作品がデンマンさんは好きだったのですねぇ~?
好きだったのですね?と尋ねられれば、嫌いではなかったですからね。。。うへへへへ。。。
つまり、好きだったわけでしょう?
でも、僕は川上宗薫の書いた本を買ってまで読んだことはないのですよう。
でも、週刊誌は買って読んだのですか?
いや、週刊誌も買って読んだことがない。。。うしししし。。。
クズカゴから取り出したり、電車の網棚の上に置き忘れてあった週刊誌を取り上げて読んだのですか?
まあ。。。そういうことですよう。うへへへへ。。。
ずいぶんとしみったれた話ですわねぇ~?
やだなあああぁ~。。。なんだか、急に僕を見下げたような目つきで見ないでくださいよう。第一。。。下ネタ専門に書く作家を僕は純文学を書く作家と比べたら数段下に見ていましたからねぇ。。。
つまり、本や週刊誌を買ってまで下ネタ作品を読まない。。。デンマンさんは、そう思っていたのですか?
そうですよう。
それなのに、どうして川上宗薫の事を調べてみる気になったのですか?
やっぱり、ちょっと懐かしくなりましたよう。
つまり、懐かしく思う程度には川上宗薫の作品を読んでいたのですわね?
いや。。。、懐かしく思うのは作品のためではなくて、この人がちょっと変わっている人だなぁ~。。。と思っていたからですよう。
どう言う所がですか?
この人が銀座のバーか、どこかのキャバレーのホステスと同棲していた頃の話が、週刊誌のインタヴュー記事として写真入で載っていたのですよう。
いつ頃のことですか?
はっきりとは覚えていないけれど、昭和50年(1975年)頃だと思いますよ。相手のホステスと一緒に写っていて、こういう下ネタ作家も居るのかと思って。。。当時の僕は川上宗薫を“奇人”だと思っていましたよう。
。。。で、デンマンさんがこの記事で取り上げたと言うことは、何か驚くべき発見でもあったのですか?
そうですよう。。。そうですよう。。。ちょっと川上宗薫の経歴を読んでみてくださいよう。
川上 宗薫 (かわかみ そうくん)
1924年4月23日生まれ。
1985年10月13日に亡くなる。
愛媛県生まれの小説家。本名はむねしげと読む。
日本基督教団メソジスト派の牧師・川上平三の子として愛媛県東宇和郡宇和町卯之町(現在の西予市)に生まれる。
大分県と長崎県で小学校時代を送り、1937年、鎮西学院中等部に首席入学。
第七高等学校や長崎高等商業学校の入試に失敗し、1943年、西南学院に入学。
1944年秋、長崎県大村の陸軍連隊に入隊。
しかし肋膜炎を意図的に悪化させ、敗戦までの約1年間を入院患者として過ごす。
1945年8月9日、母と2人の妹を長崎原爆で喪う。このため父は棄教。
宗薫は退院の手続きが偶然遅れたために被爆を免れた。
1946年に西南学院商科を卒業。
1946年、九州大学法文学部哲学科に入学、のち英文科に転科。
1947年6月に最初の妻と入籍。大学に在籍する傍ら、長崎女子商業高等学校で英語を教えて生計を立てる。
1948年3月、長女が誕生。
1949年12月、大学4年生の時、『西日本新聞』の懸賞論文に『文学作品を読むこととは』を応募し三等に入選、賞金1000円を獲得。
このころ学友会文藝部で小説を書き始める。
1949年6月、『九大文学』に処女作『綿埃』を発表。
同じ頃、同誌に川上翠雨の筆名で俳句を発表。
ウィリアム・ブレイクで卒論を書いて1950年に英文科を卒業した後、海星高等学校で教鞭をとるも1学期で退職し、千葉県柏市に移住。
1950年から千葉県立東葛飾高等学校夜間部で英語を教える傍ら、北原武夫に師事して小説家を志す。
1952年、同人誌『新表現』『日通文学』に参加。
1955年、『企み』を『文學界』に、『或る目醒め』を『群像』に発表して商業デビューを果たす。
1954年から1960年まで芥川賞候補に計5回挙がったが受賞を逸する。
この間、1958年、『新潮』6月号に『文学をよそうと思う』を発表。
1959年、友人の水上勉が服の行商のかたわら書き上げた長篇『霧と影』を、河出書房の編集者坂本一亀に紹介する。
だが、その後売れっ子作家となった水上に傲慢な振る舞いがあったことから、1961年、『新潮』6月号に短篇小説『作家の喧嘩』を発表。
文壇的成功で先を越された自らの心情を戯画化した作品だったが、この作品のモデルにされた水上勉から名誉毀損で訴えられそうになり、菊村到や田畑麦彦に調停を依頼したが失敗。
このため複数の新聞社の文化部記者に「小説に書かれたことを事実と思わないでくれ」と懇願し、『朝日新聞』の匿名コラムで「世の中には変わった作家もいるものだ。
自作を宣伝するためにこんなことを言って歩いている」「作家にあるまじき卑劣な根性」と批判されたことがある。
(この匿名コラムの筆者は百目鬼恭三郎だった)。
一方、水上の側でも川上夫妻をモデルに小説『好色』を書いた。
このとき、川上の妻と思しき女性の陰部に関する事実めかした描写によって川上夫妻は大きく傷つけられ、特に川上夫人は自殺まで考えたという。
この間、1960年に東葛飾高等学校を退職していたが、水上勉とのトラブルにより文芸誌からの註文が途絶え、持込原稿すら拒絶されるようになったため、大村彦次郎編集長の誘いで大衆文学の世界に進出。
『小説現代』1966年6月号に発表した『リボンの過失』で中間小説誌デビューを果たす。
1968年頃から官能小説の分野に進出、「失神派」と呼ばれるに至る。
流行作家になってからは妻子と別れ、
中野新橋の芸者と所帯を持ち、
銀座の複数ホステスと同棲し、
最後は30歳下の音大生と結ばれた。
1979年、食道潰瘍の手術を受ける。
1984年、リンパ腺癌が発見される。
東京女子医大病院で闘病生活を送った後、1985年10月13日、東京都世田谷区成城の自宅にて死去。
作品への評価と人物像
川端康成は川上の愛読者であり、ある出版社から現代文学全集が企画されたとき、編集委員の一人として川上の作品を推したことがあった。
筒井康隆もまた川上の純文学作品を高く買っており、『夏の末』を読んで感動のあまり一晩眠れなかったことがあると語っている。
一方、師の北原武夫は川上の自伝的小説『流行作家』を贈られた際、その読後感として「君は生れながらに絶対に傷つくことのできない人なのです。失恋や何かしてちよつと傷ついても、その傷は永くは君の中に止まらず、すぐさまそれが癒えてしまふ人なのです」「その点、さういふものを必至の心の糧とする純文学といふのは元来君にとつては不向きで今のやうな仕事の方がずつと君には向いてゐます」(1973年3月9日付川上宛書簡)と批評した。
原爆で3人の家族を喪ったにもかかわらず、原爆体験についてほとんど何も書かなかった。
「ああいうことを売りものにしたくないんだ」と発言したこともあった。
例外的な作品の一つが初期の『残存者』であった。
床上手としても名を馳せ、女性雑誌に「お手伝いさん募集」の広告を出した時には、川上に手を付けられることを期待した全国の女性から応募が殺到したこともある。
「性豪」と呼ばれることもあったが、実際には身長163センチ、体重55キロの小柄な体格だったので、初めて会った女性から「もっと大きい人かと思ったわ」「もっとギラギラした感じの人かと思ってました」と言われることが多かった。
愛犬家であり、特に巨大で獰猛な犬を好み、『闘犬記──アメリカン・ピット・ブル』(新潮社、1985年)のように犬に関する薀蓄を傾けた著書もある。
犬に限らず猛獣が好きであり、その理由について「これは、自分の中に、“自分は弱者だ”という意識があるせいにちがいない。
強いものへの憧れである」と語っている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
それで、デンマンさんがあえて川上宗薫を記事で取り上げる気持ちになったのはなぜですか?