サルトルと現実主義者(PART 1)
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■『現実主義者 馬鹿の見本』
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デンマンさん。。。、どういうわけでサルトルと現実主義者というタイトルでオイラを呼び出したのですかァ~?
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オマエは不満なのォ~?
だってぇ~、オイラは「生きる価値のないクズの廃人」だと自分で認めているような「現実主義者」と自称する この馬鹿と一緒に登場したくないのですよ。。。
あのさァ~、オマエは、そう言うけれど オマエだって、この愚か者と同じぐらいにネットでは有名なのだよ。。。
マジで。。。?
ちょっと次の検索結果を見てごらんよ
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「太田将宏」と入れて検索すると 1,320,000件もヒットするのだよ!
デンマンさんがオイラのことで記事を書いてネットで広めているのですよ。。。 でも。。。、でも。。。、オイラはバカじゃありません!
いや。。。 ネットでも、オマエがバカなことは広まっているのだよ! ウソだと思うなら次の検索結果を見てごらんよ!
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「太田将宏はバカだ」と入れて検索すると、199,000件もヒットするのだよ!
だから、デンマンさんが「太田将宏はバカだ」という下らない誹謗・中傷の記事を書いてネットで広めているのですってばああああああああああああ~♪~!
ムカついて大声を張り上げなくても聞こえるのだよ! 落ち着けよう!
オイラは、とにかく、この現実主義者と名乗る男と一緒にされたくないのですよ。。。 この男はオイラとは比べ物にならないほどの愚か者なのですよ! ちょっと、次の検索結果を見てくださいよ!
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「現実主義者 馬鹿」を入れて検索すると、 15,200,000件もヒットするのですよ! オイラがいくら馬鹿だとしても、現実主義者の愚かさには足元にも及ばないですよ!
つまり、オマエは何が何でも現実主義者と同じ場所には出たくないのだなァ~?
当たり前でしょう! この愚か者と一緒にして欲しくないのですよ。。。 第一、サルトルと現実主義者とオイラが いったいどのような関係があるのですかァ~?
あのさァ~、僕がどうしてオマエを呼び出したかというと、オマエはかつて次の記事を書いたからだよ!
A.10 Georges Bizet (1838 – 1875)
H. Berlioz以来の国籍不明な音楽を書いたG. Bizet(草紙地:Georges Bizetの本名は、Alexandre-César-Leopold Bizet、という怖ろしく立派な名前であるとのことである。)の<<Carmen>>は、私としては、始めから終りまでlibretto無しに聴いても退屈しない唯一のオペラであった。
吉田秀和は、――私は、このオペラが嫌いであった、ことに気がついた。―― と書いている。自戒の念をも込めて書くのであるが、こういう言い方は、卑劣でなければ愚劣であろう。英語では、これをSillyと言う。何せ、吉田は、理由になるようなことは書いていないので、私は、これが理由であるかどうかは、しかとは知らないが、<ハバネラ>にしろ、<花の唄>にしろ、劣情を催させる、といったのなら言い過ぎであるのなら、少なくとも扇情的なものがあるのは確かであろう。それが健全であるかどうかは、むしろ、聴き手の側に要因があるのではないか。吉田は、ただ単に、自分がその扇情的なものに飽和したのに過ぎないのではないか。私は、正直に言おう。私は、これらの曲から劣情を催されるのが好きであった、と。更に言えば、この作品から、ある宿命的な情念のようなものを聴き取るのは、私だけではないことも私は知っている。扇情的な場面の為に扇情的な音楽を書いて何が悪い。それは、文書を読む際にも文脈を考慮することなく言葉尻をあげつらうのに似てはいないか。
初演の当時、―― 卑しい女工や娼婦、あるいは脱走兵、といった反社会的な登場人物たち、―― と、途惑った評論があったそうな。女工が反社会的、とは畏れ入った話であるが、今日の評論も本質的には大差がない、と私には思われる。
ところで、ある一人の女があばずれである、ということは、その女の資質によるものなのか、はたまた、その女に与えられた環境、条件によるものなのか、二人の娘の父親である私としては気になるところである。なにせ、国籍不明で、なおかつ、世界で最も上演回数の多いオペラの一つにある<<Carmen>>である。女性そのものにある共通した実態がそこにあるのではないか。それが資質である故だとすると、それは全ての女に、程度の差こそあれ潜在しているのではないか、とでも考えなければ<<Carmen>>の初演当時の偏見に満ちた反応を超えられないことになろう。そうであるとしたならば、その資質が或る条件(草子地:単数または複数である。)のもとに顕在化する、と推察するのが自然ではないか。その情念は、確かに、F. Nietzscheのいったように、高貴な処女の愛ではなく、運命としての無邪気で残酷な愛、であろう。いや、まった。そもそも、高貴な処女の愛など、存在するのであろうか。不肖な私は、そんなものは、未だかつて、この世界の何処に於いても、経験したことがなかった。いや、経験したくもないのである。もっと実存的な人間関係の方が現実であろう、と確信している。
吉田秀和は、また、Luluの方が椿姫よりも実存的だ、と書いていた。例によって理由はなし。それだけでは、<実存>とは、たんなる気まぐれのことではないか。何か、予想もつかない動きをする女、人間が<実存的>である、といった程度か。私も<<Lulu>>は、実存的だ、と考えているが、結論が同じであるのが却って困る、というのによい例である。ここで、私は、言換えよう。作品としてのA. Bergの<<Lulu>>は、その時代性もあって、必ずしも、創作者の意識の程度にはかかわらずに、実存主義的であった、と。
F.M. Dostoyevskyの<カラマーゾフの兄弟にて>、グルーシェンカが、ドミトリに言って頂戴、私は一度は貴方を愛した、と叫んだが、学生の頃の私も、これは実存的だ、とうっかり思った。実存的であることと実存主義的であることとは区別した方が良いのであろうか。いや、実存主義的であることは、人の選択によるが、勘違いしないで欲しい、人は実存(的)でしか在りえないのである。それに責任を負うという意味で、人は実存主義的でなければならない、と、今は流行らない主義に私は未だ固執しているのである。吉田は、多分、せいぜい、何か、人格の不連続性みたいなものを実存的、との程度で言ったのであろう。それだけならば、次のようにも反論できる:
Luluは、一度でも、誰かを愛したことがあったであろうか。より実存的と言うよりは、ただ単に生理的に不感症だったのではなかったか。MarthのLuluに対する言葉にはlesbishな暗示もある。
それだけのことにも解釈できる。繰返すが、この作品はLuluが実存的であったのでは無い。作品としての<<Lulu>>の創り方が実存主義的であったのである。Luluは情婦であるとか、Luluは娼婦である、とか彼女の本質を規定できない劇の創り方になっているからである。何?、吉田も同じことを言ったのかも知れない? では、彼がそのように記述するべきであった。
多分(草子地:どうして、こうも、何度も、多分、と書かねばならないのだろう。)、吉田によれば<<Carmen>>も<<Luku>>程には<実存的>ではなかったのであろう。私も、今では、<<Carmen>>のなかでは、先にあげた<ハバネラ>と<花の唄>ぐらいしか好きな曲は無くなってしまった。両方ともに官能的であり頽廃的でもあろう。特に、後者の終りの方で、遠く聴こえる軍隊のラッパの音との重なりが、何とも、演劇的にも、音楽的にも効果的であり、耳をそばだたせるのである。音の重なり方やrythmeの重なり方が、いまだ、新鮮に聴こえるのである。
蛇足(コーダ):
あばずれ、という言葉は男に対しては言わない。男には、あばずれは存在しないからだ、とある女に言ったとき、それは、私が女を知らないからだ、と言い返された。こういう口答えを、英語では、personalizationという。一般論で言っていることを、無思慮に個人に転化しているからである。私が首を傾げるのは、こういう卑劣でなければ愚劣としか言いようのない反応をする女は、東洋系、特に日本人の女に多い。二人の娘の父親としては残念ではあるが、やはり男と女は違う。こうした、知的あばずれにならないように、気をつけて育てよう。
125-126ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やフランス語やラテン語が入り混じっている。。。
デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。
それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!
134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?
いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。
マジで。。。?
僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。
A.10 ジョルジュ・ビゼー
(1838 – 1875)
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エクトル・ベルリオーズ以来の国籍不明な音楽を書いたビゼーの<<カルメン>>は、私としては、始めから終りまで歌劇の台本無しに聴いても退屈しない唯一のオペラであった。
(草紙地:ジョルジュ・ビゼーの本名は、アレクサンドル=セザール=レオポール・ビゼーという怖ろしく立派な名前であるとのことである。)
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吉田秀和は、「私は、このオペラが嫌いであった、ことに気がついた」と書いている。
自戒の念をも込めて書くのであるが、こういう言い方は、卑劣でなければ愚劣であろう。
英語では、これをSillyと言う。
何せ、吉田は、理由になるようなことは書いていないので、私は、これが理由であるかどうかは、しかとは知らないが、<ハバネラ>にしろ、<花の唄>にしろ、劣情を催させる、といったのなら言い過ぎであるのなら、少なくとも扇情的なものがあるのは確かであろう。
それが健全であるかどうかは、むしろ、聴き手の側に要因があるのではないか。
吉田は、ただ単に、自分がその扇情的なものに飽和したのに過ぎないのではないか。
私は、正直に言おう。
私は、これらの曲から劣情を催されるのが好きであった、と。
更に言えば、この作品から、ある宿命的な情念のようなものを聴き取るのは、私だけではないことも私は知っている。
扇情的な場面の為に扇情的な音楽を書いて何が悪い。
それは、文書を読む際にも文脈を考慮することなく言葉尻をあげつらうのに似てはいないか。
初演の当時、「卑しい女工や娼婦、あるいは脱走兵、といった反社会的な登場人物たち」と、途惑った評論があったそうな。
女工が反社会的、とは畏れ入った話であるが、今日の評論も本質的には大差がない、と私には思われる。
ところで、ある一人の女があばずれである、ということは、その女の資質によるものなのか、はたまた、その女に与えられた環境、条件によるものなのか、二人の娘の父親である私としては気になるところである。
なにせ、国籍不明で、なおかつ、世界で最も上演回数の多いオペラの一つにある<<カルメン>>である。
女性そのものにある共通した実態がそこにあるのではないか。
それが資質である故だとすると、それは全ての女に、程度の差こそあれ潜在しているのではないか、とでも考えなければ<<カルメン>>の初演当時の偏見に満ちた反応を超えられないことになろう。
そうであるとしたならば、その資質が或る条件(草子地:単数または複数である。)のもとに顕在化する、と推察するのが自然ではないか。
その情念は、確かに、ニーチェのいったように、高貴な処女の愛ではなく、運命としての無邪気で残酷な愛、であろう。
いや、まった。
そもそも、高貴な処女の愛など、存在するのであろうか。
不肖な私は、そんなものは、未だかつて、この世界の何処に於いても、経験したことがなかった。
いや、経験したくもないのである。
もっと実存的な人間関係の方が現実であろう、と確信している。
吉田秀和は、また、ルルの方が椿姫よりも実存的だ、と書いていた。
例によって理由はなし。
それだけでは、<実存>とは、たんなる気まぐれのことではないか。
何か、予想もつかない動きをする女、人間が<実存的>である、といった程度か。
私も<<ルル>>は、実存的だ、と考えているが、結論が同じであるのが却って困る、というのによい例である。
ここで、私は、言換えよう。
作品としてのアルバン・ベルクの<<ルル>>は、その時代性もあって、必ずしも、創作者の意識の程度にはかかわらずに、実存主義的であった、と。
(lulu001.jpg)
ドストエフスキーの<カラマーゾフの兄弟にて>、グルーシェンカが、ドミトリに言って頂戴、私は一度は貴方を愛した、と叫んだが、学生の頃の私も、これは実存的だ、とうっかり思った。
実存的であることと実存主義的であることとは区別した方が良いのであろうか。
いや、実存主義的であることは、人の選択によるが、勘違いしないで欲しい、人は実存(的)でしか在りえないのである。
それに責任を負うという意味で、人は実存主義的でなければならない、と、今は流行らない主義に私は未だ固執しているのである。
吉田は、多分、せいぜい、何か、人格の不連続性みたいなものを実存的、との程度で言ったのであろう。
それだけならば、次のようにも反論できる:
ルルは、一度でも、誰かを愛したことがあったであろうか。
より実存的と言うよりは、ただ単に生理的に不感症だったのではなかったか。
ゲシュヴィッツ伯爵令嬢のルルに対する言葉にはレスビアン的な暗示もある。
それだけのことにも解釈できる。
繰返すが、この作品はルルが実存的であったのでは無い。
作品としての<<ルル>>の創り方が実存主義的であったのである。
ルルは情婦であるとか、ルルは娼婦である、とか彼女の本質を規定できない劇の創り方になっているからである。
何?、吉田も同じことを言ったのかも知れない?
では、彼がそのように記述するべきであった。
多分(草子地:どうして、こうも、何度も、多分、と書かねばならないのだろう。)、吉田によれば<<カルメン>>も<<ルル>>程には<実存的>ではなかったのであろう。
私も、今では、<<カルメン>>のなかでは、先にあげた<ハバネラ>と<花の唄>ぐらいしか好きな曲は無くなってしまった。
両方ともに官能的であり頽廃的でもあろう。
特に、後者の終りの方で、遠く聴こえる軍隊のラッパの音との重なりが、何とも、演劇的にも、音楽的にも効果的であり、耳をそばだたせるのである。
音の重なり方やリズムの重なり方が、いまだ、新鮮に聴こえるのである。
追記(コーダ):
あばずれ、という言葉は男に対しては言わない。
男には、あばずれは存在しないからだ、とある女に言ったとき、それは、私が女を知らないからだ、と言い返された。
こういう口答えを、英語では、personalizationという。
一般論で言っていることを、無思慮に個人に転化しているからである。
私が首を傾げるのは、こういう卑劣でなければ愚劣としか言いようのない反応をする女は、東洋系、特に日本人の女に多い。
二人の娘の父親としては残念ではあるが、やはり男と女は違う。
こうした、知的あばずれにならないように、気をつけて育てよう。
(赤字はデンマンが強調)
125-126ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
つまり、たまたまオイラが上の記事で「実存主義」に言及したのでサルトルと現実主義者というタイトルを付けてオイラを」呼び出したというわけですか?
その通りだよ!
でも。。。、でも。。。、オイラは、あの馬鹿のことには触れてませんよ。
確かに、上の記事には「現実主義者」と呼ばれている“馬鹿の見本”は登場してない。。。
当たり前でしょう! オイラは、“馬鹿の見本”と呼ばれるような愚か者とは関わりたくないのです。。。
あのさァ~、オマエの気持ちは僕にもよ~♪~く分かるのだよ!
だったら、こういう話題の記事にオイラを呼び出さないでくださいよ。。。
でも、オマエは「実存主義」を理解しているのだろう?
もちろんですよう。。。 でも、オイラは、あの愚か者が言う「現実主義者」ではありません!
その事については僕も十分に理解している!
それなのに、どういうわけでオイラを呼び出したのですか?
なぜなら、オマエが「実存主義」に言及したので、「現実主義者」と名乗るネットで有名になりつつある この“バカの見本”が実存的であるかどうか? 僕はオマエに尋ねたかったからだよ。。。
分かりました。。。 オイラにも この愚か者について言いたいことがあります。。。 でも、デンマンさん自身は、どう思っているのですか? この“バカの見本”は実存的ですか?
実は、僕が学生時代に日本で買った本がたまたま実家にあったので読んでみたら次の個所に出くわしたのだよ。。。
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サルトルが、釘にとって時間は永遠の現在しかないが、人間の時間にはつねに未来がある、といっているのは(『ドス=パソス論』を参照)、人間がたえず未来に向かって現在を乗り越えてゆき、自己自身の外に自己を投げかけてゆく、つまり投企してゆくからです。
実存ということばが、ラテン語の「外に歩みでる」という意味の動詞ex-sistoの名詞化であるのはそのためです。
そしてそのような人間存在が実存と呼ばれるのです。
(84ページ)
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
『「サルトル」入門』
著者: 白井浩司
1968(昭和43)年12月10日 第9刷発行
発行所: 株式会社 講談社
つまり、このサルトル入門の書によれば、人間がたえず未来に向かって現在を乗り越えてゆき、自己自身の外に自己を投げかけてゆくような人間存在が実存と呼ばれるのだよ。。。
「現実主義者」と自称している あの“馬鹿の見本”は未来に向かって現在を乗り越え、自己自身の外に自己を投げかけていますか?
いや。。。 アイツは勉強しない、努力しない、失敗しても反省しない。。。 だから、偏差値30台のクソ大学しか卒業できなかった。。。 卒業したと言うよりも、留年すると他の学生に迷惑をかけるし、大学の評判もさらに悪くなるので、追い出されたのだよ!
要するに、そもそも大学で勉強するような人間ではないのですね。
その通りだよ。。。 しかも、そろそろ50歳になろうというのに、今だに偏差値30台であった事実がトラウマになっていて、「学歴社会」、「イジメ自殺社会」という極めて自己中心的な考え方に縛られて、現実を見ようとしない。。。 「井の中の蛙(かわず)」になっている! 自分の将来について考えようともしないで、10年前からイジメ自殺被害者に向かって「オマエもオイラと同様に生きる価値のないクズの廃人だ!」と嫌がらせのコメントを書いている。
つまり、ネットでは蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われ、憎まれ、恨まれ、シカトされるか馬鹿にされているのですね。。。
そういうことだよ! 要するに、この「現実主義者」にはサルトルが言ったように「永遠の現実」しかない! たいていの人間には未来がある。。。 でも、この「井の中の蛙(かわず)」には未来がない!
つまり、“馬鹿の見本”のこの男は、サルトルの目に“釘”と同じように映ってしまうのですね!?
そういうことだよ。。。 で、オマエは、この“馬鹿の見本”について、どう思うの?
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■『現実主義者 馬鹿の見本』
デンマンさん! この“馬鹿の見本”が今日の記事を読めば、言うことは決まってますよ!
「現実主義者」は何と言うの?
また、次のようなコメントを書きますよ。。。
2 無題
一般社会は貴様らネトウヨの戯言に呆れかえってんだよ、ボケッ!!
現実主義者 2018-09-29 04:48:43
8 無題
うるせぇな、学歴社会不感症のクソドネトウヨの逆恨みは見苦しいぞ。
現実主義者 2018-09-30 18:19:41
19 無題
アタマに来るんなら、ネトウヨ節やめちまえ。
現実主義者 2018-10-07 12:26:22
24 無題
アタマに来るのは、貴様がネトウヨだからだろ、ボケが!!
現実主義者 2018-10-11 13:15:04
『アタマにくる一言@現実主義者』のコメント欄より
(2018年9月29日)
この“馬鹿の見本”は馬鹿の一つ覚えで“ネトウヨ!”しか言えないのですよ! この男には「永遠の愚かな現在」しかなく、人間存在としての未来はありません!
マジで。。。?
この男は実存とは程遠い男ですよ! 要するに「井の中の蛙」ですよ。。。 この男が自分で認めているように「生きる価値のないクズの廃人」ですよ。。。 こんな下らない男をデンマンさんは、いつまで相手にするつもりなのですか?
でも。。。、でも。。。、この“馬鹿の見本”にもちゃんと生きるだけの価値がある!
まさかァ~? デンマンさんはマジでそう思っているのですかァ~。。。? それは綺麗事でしょう!?
いや。。。 オマエや僕に生きる価値があるように、この愚か者にも生きる価値がある。。。
信じられません! いったい、どのような生きる価値がある、とデンマンさんは言うのですか?
反面教師として生きる価値があるのだよ!
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(すぐ下のページへ続く)