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二人の母親

2023-06-12 03:46:57 | 歴史四方山話

 

二人の母親

 


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デンマンさんには、母親が二人いるのですかァ〜?


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普通、母親は一人でしょう?

でも、産みの母親と、育ての母親がいる場合があるではありませんかァ〜。。。

僕の母親は僕を産んで、僕を育てました。。。だから、僕の母親は一人だけです。。。

それなのに、どういうわけで 二人の母親 というタイトルにしたのですかァ〜?

実は、バンクーバー市立図書館でDVDを借りて次の映画を観たのですよ。。。

 


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『拡大する』

『実際のページ』


 



 



この映画は旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエル(イスラエル王国)の第3代のソロモン王(在位紀元前971年 - 紀元前931年頃)の人生を描いているのですよ。。。父は先代のダビデ王。母はバト・シェバ。。。当時エジプトは強国だったので、ソロモン王はエジプトに臣下の礼をとり、ファラオの娘を嫁に貰い受けることで戦争を避けたのです。。。その効果があって、ソロモン王は古代イスラエルの最盛期を築いたのですよ。。。



この映画の中にソロモン王の二人の母親が登場するのですか?

いや。。。ソロモン王の母親は、義理の母親を数えれば二人ばかりじゃない。。。父親のダビデ王は、たくさんの側妻(そばめ)を侍(はべ)らせていたから、少なくとも5,6人は居たはずです。。。

じゃあ、二人の母親というのは、いったい誰の母親のことですか?

あのねぇ〜、一人の赤ちゃんを二人の母親が、自分の赤ちゃんだと主張したので、本当の母親を決めるために、ソロモン王の宮廷で裁判が行われたのですよ。。。その裁判が次のクリップの中に出てきます。。。

 


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この上の写真の二人の女は売春婦なのですよ。。。二人共、同じ時期に男の子を産んだのです。。。残念ながら子供のうちの1人は、すぐに死んでしまった。。。それで、二人共、生きているのが自分の子供だと主張した。



つまり、一人の母親は、自分の子供が死んだのに、嘘をついて生きているのが自分の子供だと主張しているのですねぇ〜。。。

そういうことです。。。

でも、生きている男の子の母親は、なぜその子を手放したのですか?

ちょっと目を離している時に、死んだ子とすり替えられてしまったと言うのです。。。

つまり、二人の母親は、お互いに相手が嘘をついていると言い張っているのですねぇ〜。。。

そういうことです。。。だから、誰も確証を持って、生きている赤ちゃんの母親を突き止めることができないのですよ。。。

それで、二人の母親はソロモン王に決めてもらおうと宮廷に出頭したわけですかァ〜?

そういうことです。。。

。。。で、ソロモン王はどのような判決を出したのですか?

「オマエたち二人が、その生きている赤ちゃんをシェアしなさい」と言ったのですよ。。。

どうやってシェアするのですか?

ソロモン王は臣下に言いつけたのです。。。「その生きている赤ちゃんを2つに等分に斬って、二人の母親が半分づつ受け取れるようにしろ」

 


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この赤ちゃんを斬って2等分するのですか?



そうです。。。

じゃあ、赤ちゃんは死んでしまうじゃありませんかア!

だから、それがソロモン王の策略なのですよ。。。生きている赤ちゃんの本当の母親であれば、赤ちゃんが半分に斬られて殺されるのを見ていられないだろう。。。

それで、生きている赤ちゃんの本当の母親はどうしたのですか?

臣下が剣を振り下ろそうとした時に、身を投げ出して赤ちゃんが斬られないように守ったのですよ。。。

 


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つまり、自分の身を犠牲にしてまで赤ちゃんをかばった。。。この上の写真の女が赤ちゃんの本当の母親だと、ソロモンは判断して生きている赤ちゃんを彼女に与えたのですよ。。。



なるほどォ〜。。。

ジュンコさんは、この話を聞いて何か他に思い当たることがありませんかァ〜?

ソロモン王が機転を利かせて難問を解決したのですわねぇ〜。。。

そうです。。。他に何か思い当たることは。。。?

道徳の教科書に載るようなお話ですわねぇ〜。。。

そうです。。。あのねぇ〜、僕は、上の映画のこのシーンを見終えた時に、すぐに大岡越前の裁判を思い出したのですよ。。。

どういう裁判ですか?

次のような裁判です。。。

 



本当の親はどちらか?

 


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この事件は江戸時代に起きたのです。。。ある男が妻を離縁したところから始まります。。。別に妻に悪い所があったわけではありません。好きな女ができたのです。。。その後、かねて言い交わしていた女を後妻にめとりました。



その男は、ずいぶんと身勝手ですわねぇ〜。。。

離縁された前妻は、親元に帰りましたが、すでに妊娠していました。。。やがて女の子を産んだのです。。。10年ほどたったある日、後妻が、この子を見て、うらやましくなりました。。。「なんて器量のよい娘だろうか。しかも頭もいい。これならば、どこへ奉公に出しても役に立つ」。。。早速、「この娘を引き取りたい」と、前妻の元へ交渉に来たのです。

あらっ。。。主人も身勝手ならば、後妻も身勝手ですわねぇ〜。。。

もちろん、前妻は、とても承服できる話ではありません。。。前妻と後妻は激しく言い争い、ついに、奉行所へ訴えることになったのです。。。おかしなことに、この時、二人とも、「この子を産んだのは、私に間違いありません。私が実の母です」と言い張るのでした。

DNA鑑定はなかったので、この裁判は難しいですわねぇ〜。。。大岡忠相越前守(おおおか ただすけ えちぜんのかみ)はどのように裁いたのですか?

次のように言ったのです。。。

「そこまで言うならしかたがない。2人の真ん中に、子どもを置いて、双方から左右の手を引っ張りなさい。勝ったほうに、その子を与えよう」

 


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白州で、前妻と後妻が、子どもの手を引き始めた。真ん中に置かれた娘は、「痛いよう!」と大粒の涙を流して泣きだした。。。その瞬間、先妻は、ハッと驚いたように手を放した。。。最後まで、子どもの手を引き続けた後妻は、「私の勝ちだわ。この子は私のものよ」と喜んだ。



大岡越前守は女の子を後妻に与えたのですか?

いや、越前守は「待て待て、そこの女。控えよ」と大喝した。。。「おまえこそ、ニセモノだ。誠の母ならば、わが子が苦しんでいる姿を見ておれるはずがない。子どもの涙は、胸が張り裂けるほどの苦しみを親に与えるものだ。先妻は、母だからこそ、とっさに手を放したのだ。おまえは他人だから、子どもの苦しみより勝負のことしか頭になかったのだ」

なるほどォ〜。。。わが子が苦しんでいる姿を見ていられないのが実の母親の人情ですわねぇ〜。。。

奉行に、にらみつけられ、後妻は、ただひれ伏すばかりだった。。。一切の悪だくみを白状し、娘は、晴れて本当の母親の元へ戻ったのでした。


 



なるほどォ〜。。。ソロモン王の裁判と実によく似てますわねぇ〜。。。



。。。でしょう!?

でも、3500年前のソロモン王の話がどうやって江戸時代の日本に伝わったのですか?

シルクロード伝いに、ユダヤ人、ペルシャ人、アラビア人、中国人、韓国人の商人の口を通して日本に伝わったのですよ。。。でもねぇ〜、実際には、大岡越前守はこの裁判には関わってなかったというのです。。。

 



大岡忠相

 


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大岡忠相は、江戸時代中期の幕臣、大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。
生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。

大岡忠房家の第4代当主で、9代将軍徳川家重の御側御用人として幕政においても活躍した大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。

8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛や寺社奉行を務めた。
越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大岡越前守または大岡越前守忠相公として知られている。
通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。諱は忠義、のち忠相。

 

町奉行時代の活躍

吉宗は享保の改革と呼ばれる幕政改革に着手するが、忠相は諸改革のうち町奉行として江戸の都市政策に携わることになり、評定所一座にも加わり司法にも携わった。

このころ奉行所体制の機構改革が行われており、中町奉行が廃止され両町奉行所の支配領域が拡大し、忠相の就任時には町奉行の権限が強化されていた。

享保4年(1719年)には本所奉行を廃止して本所深川地域を編入し、奉行所の機構改革も行う。
享保8年(1723年)には相役中山時春が辞任し、跡役は諏訪頼篤となる。

市政においては、町代の廃止(享保6年)や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、享保3年(1718年)には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、享保5年(1720年)にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成した。

また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行う。
これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化された。

享保10年(1725年)9月には2,000石を加増され3,920石となる。
風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化する。

享保6年(1721年)12月には吉宗が設置していた目安箱に小川笙船から施薬院設置を嘆願する投書があった。
吉宗は有馬氏倫に施薬院の設立を命じ、北町奉行の中山時春とともに小石川養生所の設置に尽力している。

下層民対策では、このほか与力の加藤枝直(又左衛門)を通じて紹介された青木昆陽(文蔵)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモの栽培を助成する。

将軍吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言している。

現在では、書籍の最終ページに「奥付」が記載されるが、これは、少数ながら自発的に奥付を付けている書籍はあったものを、享保6年(1721年)に大岡越前が奥付を義務化させたことにより一般化した。

また、在任中の享保7年(1722年)には弛緩していた江戸近郊の秩序再建のため、地方御用を拝命して農政にも携わり、役人集団を率いて武蔵野新田や上総国新田の支配、小田原藩領の酒匂川普請などに携わっており、さらに儒教思想を浸透させるため忠孝者への褒賞も積極的に行っている。

元文元年(1736年)5月12日、幕府は町奉行の大岡忠相と勘定奉行の細田時以を最高責任者とした貨幣改鋳を実施する。
当日、大岡により発せられた町触には、通貨不足の状況を解決するため、貨幣の質を落とす改鋳を実施したと明言されている。

改鋳直後、商人らによる良質の旧銀の退蔵によって銀が高騰したため、同年6月26日、大岡は銀高となった理由を問うべく本両替町と駿河町の両替商10人を奉行所に呼び出した。

しかし、病気や他国へ出かけているなどの理由で、手代が主人の名代として出向いた。
忠相は主人らの代わりに手代らを詰問したが満足な回答を得られなかったため、彼らを全員伝馬町の牢屋へ投獄した。

これに慌てた両替商や町家主たちの数十回にわたる嘆願も忠相は聞き入れなかった。
同年8月12日に忠相が突然寺社奉行に転任し、もう1人の町奉行(北町奉行)の稲生正武が8月19日に出牢を許可するまで、手代らは53日もの間牢屋に留め置かれた。

 

寺社奉行時代から晩年

元文元年(1736年)8月12日、寺社奉行となり、評定所一座も引き続き務める。
寺社奉行時代には、元文3年(1738年)に仮完成した公事方御定書の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書の収集整理、青木昆陽に命じて旧徳川家領の古文書を収集させ、これも分類整理する。

寺社奉行時代には2,000石を加増され5,920石となり、足高分を加え1万石の大名格となった。
寺社奉行職(定員およそ4名)は本来は大名の役職であり、奏者番(定員20〜30名)を兼帯することが通例であるが、足高の制により就任した忠相の場合は依然として正式身分は旗本であり、大名でなければなれない奏者番を兼帯しなかったため、奏者番を兼帯する寺社奉行の同役の大名達や奏者番達から虐げられたという話が残る。

そもそも江戸城内において、奏者番には伺候する詰所(伺候席・詰席。いわゆる控室)が指定されていたが、寺社奉行職単独の詰所は用意されていなかった。
通例では寺社奉行は奏者番と兼帯であるので、奏者番の席に伺候していればよかったが忠相はそうではないため、奏者番の面々は「ここは(大名の格式である)奏者番の詰所である。」として、旗本格のため奏者番ではない忠相の立ち入りを禁じた。

このため数年に渡り忠相は、江戸城内で固有の詰所を持たないままに寺社奉行を務めていた。
数年後にこの事態にようやく気がついた将軍吉宗により、“寺社奉行の専用の詰め所”が制定されて忠相にも控室が与えられることとなり、さらに寛延元年(1748年)10月、奏者番を兼任と同時に足高分が正式に加増として与えられ、三河国西大平(現岡崎市)1万石を領することとなり正式に大名となる。

町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみである

 

大岡政談

江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で人々に広がった。

「徳川天一坊」、「村井長庵」、「越後伝吉」、「畔倉重四郎」、「後藤半四郎」、「小間物屋彦兵衛」、「煙草屋喜八」、「縛られ地蔵」、「五貫裁き」、「三方一両損」などのエピソードがある。

これらは日本におけるサスペンス小説の原初的形態を示すものと言える。
忠相の没後から講釈師による原型が作られると、幕末から明治にかけて発展し、歌舞伎などの素材などに使われ、また現代にいたってもTVドラマ化されている。

史学的検証では、数ある物語のうち忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみであることが指摘されている。

現代に「大岡裁き」として伝えられているものの多くは、関東郡代や忠相の同僚である北町奉行・中山時春の裁定したもの(「直助・権兵衛」)や忠相没後の事件も含まれている。

また尾佐竹猛は、旧約聖書の列王記にあるソロモン王の英知として、互いに実子と主張し1人の子を取り合う2人の母親に対する調停の伝承など、聖書などに記される裁判物語がイスラム圏を経由し、北宋の名判官包拯の故事(「縛られ地蔵」と同様の逸話)になった後、エピソードに翻案され含まれたとする説を提唱。

永禄3年(1560年)に、豊後でイエズス会の宣教師がクリスマスにソロモン裁判劇を行なったという記録もあり、木村毅は『比較文学新視界』「ソロモン裁判と大岡政談」(昭和50年(1975年))でチベットの伝説や釈尊(釈迦)の伝説が日本のキリシタンの影響で紛れ込んだとする。

中東系(インド系では釈迦前世物語)では、実子を取り合う母親のうち一人は人食い鬼としている。

通常、大岡は庶民の味方、正義の武士として物語に登場する。

だが、学習院大学名誉教授の大石慎三郎は、大岡に関する伝記史料として信ずるに足りるのは『大岡忠相日記』がほとんど唯一のものである、とする。

この日記は、私生活を記したいわゆる日記ではなく、公人としての忠相の職務日録であり、行政官僚としての町奉行を活写しており、大岡政談とほとんど関係ないことが示されている。




出典: 「大岡忠相」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


 



数ある裁判のうち大岡忠相が町奉行時代に実際に裁いたのは享保12年(1727年)の「白子屋お熊事件」のみであるというのですよ。。。



あらっ。。。「二人の母親」の裁判をしたのは、いったいどなただったのですか?

おそらく、同僚の北町奉行・中山時春の裁定したものだったのでしょう。。。

どうして大岡忠相越前守が裁定したことになったのですか?

あのねぇ〜、町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみだったのですよ。。。しかも、庶民の間でも名奉行、人情味あふれる庶民の味方として人気があった。。。「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」という諺があるけれど、その裏返しですよ。。。大岡忠相越前守が人気があったために、名裁判は、全て越前守が裁定したことになってしまったのですよ。。。

じゃあ、ソロモン王の有名な裁判も、他の王様が裁定したものだったかもしれませんわねぇ〜。。。

その可能性も十分にありますよ。。。ある晩、神がソロモンの夢枕に立ち、「何でも願うものを与えよう」と言ったというのです。。。ソロモンは知恵を求めたのですよ。。。神はこれを喜び、多くのものを与えることを約束した。。。ここからソロモンは知恵者のシンボルとなったというのです。。。この逸話からもわかるように、ソロモン王は人気があったに違いない。。。

それで、人気者の大岡忠相越前守のように、名裁判はソロモン王が裁定したことになって後世に伝えられたのですわねぇ〜。。。

そういうことだろうと思います。。。



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【ジューンの独り言】


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ですってぇ~。。。

あたなたも、デンマンさんが説明したように、ソロモン王も、「二人の母親」の裁判には立ち合っていなかったと思いますかァ〜?

ええっ。。。 「そんなことは どうでもいいから、他に何か面白いことを話せ!」

あなたは、そのように わたしにご命令なさるのですかァ~?

分かりましたわ。。。 じゃあ、面白い動画をお目にかけますわァ。。。

ワンワンちゃんが人間の言葉をしゃべります!

 


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ええっ。。。? 「そんな馬鹿バカしい動画など、どうでもいいから、何か他に面白い話をしろ!」

あなたは、また そのような命令口調で わたしに強要するのですか?

わかりましたわァ。。。

では、たまには日本の歴史の話も読んでみてくださいなァ。

日本の古代史にも、興味深い不思議な、面白いお話がありますわァ。

次の記事から興味があるものをお読みくださいねぇ~。。。


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