菊ちゃんと忍藩主(PART 1)
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デンマンさん。。。、 どういうわけで 菊ちゃんと忍藩主 を取り上げるのですか?
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ちょっと次のリストを見てください。。。
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■『拡大する』
■『リチャード3世』(PART 1)
■『製鉄が下った』
■『菊ちゃんと阿部忠秋』(PART 1 OF 3)
■『菊ちゃんと阿部忠秋』(全文)
この上のリストはGOOの僕の『デンマンのブログ』の1月17日の午前5時4分から午前11時4分まで6時間の「リアルタイム アクセス解析」のリストなのですよ。。。 アクセス元ページ の4番に注目して欲しい。。。
あらっ。。。 阿部忠秋 大長寺 毘沙門堂 を入れてGOOGLEで検索して 菊ちゃんと阿部忠秋(PART 1 OF 3) を読んだネット市民がいたのですわねぇ~。。。
そういうことです。。。
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ところで、午前9時から9時半までに 293人がアクセスしてますけれど、これはどういうことですか?
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あのねぇ~、 293人がアクセスしていることになっているけれど、実は一人の可能性が強いのですよ。。。
どういうことですか?
URL をクリックすると次の画面が出てくるのです。。。
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■『拡大する』
■『実際のページ』
上のページのどこを探しても 僕の「デンマンのブログ」へのリンクが無いのですよ!
それなのに、デンマンさんのブログにアクセスしたということは どういうことですか?
GOOのスタッフが GOOの辞書を使うようにと 宣伝目的で飛ばした リファラスパム だと思うのです。。。
HTTPリファラ
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HTTPリファラ あるいは単にリファラは、HTTPヘッダの1つで、インターネット上の1つのウェブページまたはリソースから見て、それにリンクしているウェブページやリソースのアドレスを指す。
リファラを参照することで、どこからそのページに要求が来たのかを知ることができる。
リファラをログすることでウェブサイトやウェブサーバで訪問者がどこから来ているかを把握でき、プロモーションやセキュリティの目的に使うことができる。
リファラの活用はクロスサイトリクエストフォージェリ対策としても一般的だが、リファラが無効化されているとそのようなセキュリティ機構は働かない。
リファラは一般に統計的用途に使われている。
デリファラとは、要求を起こすべくクリックされたページを目標ウェブサイトが識別できなくするため、要求から元のページ(サイト)の詳細を除去する手段である。
詳細
あるページにあるリンクをクリックして別のウェブページを訪れるとき、リファラはそのリンクが置かれているウェブページのURLである。
より一般化すると、リファラはその要求を発生させる原因となったアイテムのURLである。
例えば、或るウェブページ内に画像を表示するとき、リファラはそのHTMLページのURLとなる。
ウェブブラウザからウェブサーバへのHTTP要求の仕様上、リファラフィールドはオプションである。
ほとんどのウェブサーバには全トラフィックのログがあり、ブラウザが要求毎に送信したHTTPリファラを記録している。
ウェブログ解析ソフトの多くはこの情報を処理できる。
リファラ情報はユーザーのプライバシーに関わる場合があるため、リファラ情報を送信しないよう設定できるブラウザもある。
プロキシやファイアウォールソフトウェアにもリファラ情報をフィルタで除去できるものもあり、外部に公開していないロケーション情報を漏らさないようにできる。
このことは問題を発生する要因ともなる。
Webサーバはサイトの一部について、正しいリファラを送ってこないブラウザに対してアクセスをブロックしていることがある。
これはディープリンクを防いだり、画像の不正使用(直リンク)を防ぐためである。
プロキシソフトウェアの中にはそのサイトのトップレベルのアドレスをリファラとして与えるものがあり、ユーザーが最後に訪問したサイトを暴露することなく問題を回避できる。
最近では多くのブログはリファラ情報を公表し、あるブログにリンクしているサイトにブログ側からもリンクすることで会話を広げようとしている。
これを悪用し、スパマーのサイトへのリンクを大量に貼らせるリファラスパムが登場している。
アダルトサイトなどの有料サイトの多くはコンテンツを守る目的でリファラ情報を利用している。
すなわち、ログインしないと参照できないなどの極少数のページからのアクセスのみを許可するのである。
これにより、協力関係にあるアダルトサイト間での素材の共有が容易になる。
このようなサイトへのフリーなアクセスを実現する手段としてリファラスプーフィングがある。
出典: 「HTTPリファラ」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
GOOのスタッフが そういうことをするのですか?
おそらく管理人は知らないのでしょう。。。 でも、スタッフの中には、暇つぶしに悪さをする愚か者がいるのです。。。 僕は、かつてGOO で日記(2009年にサービス終了)を書いていた時に、そういうスタッフの愚か者が暇つぶしに僕の日記に下らないコメントを書いたことがあったのです。。。
マジで。。。?
Nobody is perfect! ですからねぇ~。。。 いい奴もいる代わりに、悪い奴もいるのですよ。。。
。。。で、菊ちゃんの記事を読んだネット市民は、どのようにして検索したのですか?
次のようにして検索したのです。。。
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■『拡大する』
■『現時点での検索結果』
あらっ。。。 阿部忠秋 大長寺 毘沙門堂 と入れて検索したのですわねぇ~。。。
そうです。。。 実は、「かな丸」さんというネット市民が読んだのです。。。
どうして「かな丸」さんが読んだと判るのですか? またIPアドレスを調べたのですか?
いや。。。 次のようなコメントを書いてくれたのですよ。。。
はじめまして。 (かな丸)
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2020-01-18 04:34:22
はじめまして。
忍藩の藩主だった阿部忠秋の事を調べています。
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阿部家の菩提寺だった大長寺の毘沙門堂の事を調べるうちにこちらのブログに辿り着きました。
古い本には毘沙門堂のみアップの写真しか載っていなかったので、大仏の後ろに毘沙門堂がある写真は初めて見ました。
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大きな木があったり今のコンクリートの多い大長寺とはだいぶ雰囲気が違うように見えます。
また、毘沙門天像が京都の方にあったやつかもという事に驚きです。
詳しく毘沙門堂について書かれていて興味深い内容でした。
『菊ちゃんと阿部忠秋』(PART 1 OF 3)のコメント欄より
(2015-01-15)
毘沙門堂は、京都市にありますよねぇ~。。。
そうです。。。 京都の毘沙門堂が いわば本家ですよ。。。
毘沙門堂
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毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都市山科区にある天台宗の寺院。
山号は護法山。正式名は護法山安国院出雲寺。
本尊は毘沙門天。天台宗京都五門跡の一つであり、山科毘沙門堂、毘沙門堂門跡とも呼ばれる。
統合前の歴史(1195年以前)
寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、大宝3年(703年)行基が開いたという。
平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、建久6年(1195年)、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を統合し、出雲路に五間堂3棟を建てたという(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。
こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継ぎ、建久6年(1195年)に塔ノ垣にあった旧出雲寺の地に護法山出雲寺として建立され、最澄自刻の毘沙門天像を本尊とした。
なお、比叡山延暦寺の根本中堂に倣い、西に平等寺、東に尊重寺、中心に護法寺を据える配置となった。
出雲寺
前身寺院である出雲寺は、京都市上京区の相国寺の北、上御霊神社付近にあったと推定される。
付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平安京遷都以前にさかのぼる寺院のあったことがわかる。
また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されている。
この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われる。
また、中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』や、『沙石集』(無住道暁編)にも言及されている。
平等寺
置文によれば、平等寺は桓武天皇の皇子で桓武平氏の祖である葛原親王(786年 – 853年)の創建で、太秦(現京都市右京区)に所在。
護法寺
護法寺は平親範の父・平範家が伏見(京都市伏見区)に創建したもので、応保元年(1161年)北石蔵(京都市左京区岩倉)に移転するが、長寛元年(1163年)に焼失し、最澄(伝教大師)自作と伝える毘沙門天の本尊だけが大原(京都市左京区大原)来迎院に移されていたという。
統合後の歴史(1195年以降)
室町時代の応仁元年(1467年)、応仁の乱によって焼失するが、文明元年(1469年)には再建される。
しかし、元亀2年(1571年)再び焼失した。
江戸時代の慶長年間(17世紀初頭)に至り、天台宗の僧で徳川家康の側近であった天海によって復興が開始された。
江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、現在地に移転・復興される。
天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、寛文5年(1665年)に完成した。
後西天皇皇子の公弁法親王(1669年 – 1716年)は当寺で受戒し、晩年には当寺に隠棲している。
以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、天台宗京都五門跡の一つ「毘沙門堂門跡」と称されるようになった。
出典: 「毘沙門堂」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
。。。で、大長寺の毘沙門堂は本家とはどういう関連があるのですか?
大澤さんの本には次のように書いてあります。。。
大露仏と毘沙門堂
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行田で唯一つの露坐の大仏で、「丈六の仏」といわれていたが、昭和19年、鉄の供出を強調され、大仏と半跏(片足だけくみ、片足は下におろす)の地蔵と金鐘とを戦争の為に、供出してしまった。
せめて、この大仏だけは、行田町の文化財として出したくはなかった。
『忍名所図会』には座像高さ“1丈2尺余”と書いてある。
今もその台石は残っているが、その上に1丈2尺の大仏であるから、子供心にすごく大きいものだと思った。
この大仏の由来について、何らの手がかりがないので、大長寺に何か記録がないかと探して貰ったが、住職が替わったばかりで、なんらの引き継ぎもなかった由である。
不思議なことには『忍名所図会』『北武八志』その他にも、何ら建立由来がない。
大仏に後背銘があったように覚えているが、今では致し方ない。
せめて拓本しておいて貰いたかった。
『忍名所図会』に「浄土宗沙門信阿和奉納す」とある。
大仏の後方、東に、西方を向いて、彫刻の沢山あった毘沙門堂があった。
昭和40年代、国道拡張の折、移築を余儀なくされた。
しかし、そのまま移転することもできないほどの荒廃で、戦中、戦後、乞食の棲家になって、失火しなかったのがせめてもの幸せという位、所々がこげていて、廃屋そのものであった。
教育委員会と交渉し、ついに取り壊し以外ない事になり、その彫刻をいかし、浅草の古物商(百万弗)に売却し、今は、奥日光の金精峠に、そのおもかげを留めている。
そもそもこの毘沙門堂は、藩主阿部豊後守忠秋が、念珠仏毘沙門天を江戸屋敷より移し、立派なお堂を菩提寺大長寺に建立寄進した。
像高37糎の毘沙門天である。
(中略)
この毘沙門堂は寛文7年(1667年)の建立なので、京都出雲寺の最澄の作った毘沙門天を江戸に移し、寛文年代、法親王が住持となり、毘沙門堂門跡というようになったという事が記録にあるから、筆頭老中が阿部忠秋であるから、時代が合うので、その故事にゆかりある毘沙門の分身ではなかろうか。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
20-22ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社
でも。。、でも。。。、この上の毘沙門堂と菊ちゃんがマジで関係あるのですか?
関係ありますよ。。。 小百合さんも僕と菊ちゃんのエピソードを読んだでしょう! 改めて読んでみてください。。。
それで、どうしてこの毘沙門堂と菊ちゃんが関わりがあるのですか?
実はねぇ~、僕が小学生の頃、菊ちゃんは僕のお袋になついて、よく遊びに来たのですよ。
その頃から菊ちゃんはデンマンさんのお嫁さんになりたかったのですか?
当時の菊ちゃんは20歳を出ているか出ていないか。。。とにかく子供の僕の目には、もう大人でしたよ。
でも、精神年齢は7つぐらいだったのですか?
そうなんですよ。 でもねぇ、いくらなんでも、まだ小学生の小さな僕を見て僕のお嫁さんになろうとは思わなかったでしょうね。 菊ちゃんが僕のお嫁さんになりたくて、お母さんに頼みに帰ったのは僕が中学生の時のエピソードですよ。
それで、デンマンさんが小学生の頃、どのようなエピソードがあったのでござ~♪~ますか?
時々、僕の家に興奮して駆け込んで来たのですよ。
一体何があったのですか?
大事件が持ち上がった訳ではないのですよ。 実は、菊ちゃんは言葉がはっきりと話せないのですよ。 確か“お嫁さん”のことを“いーやん”と言っていたように思うのですよ。 毘沙門堂の方を指差して、息を切らせながら“いーやんがきたぁ~。。。いーやんがきたのよゥ”。。。そう言いながら、アイドル歌手がやって来たように、うれしそうにはしゃぎ回ったのですよ。
それで、お嫁さんが毘沙門堂にやって来たのでござ~♪~ますか?
そうなんです。 “お宮参り”なんでしょうね。 上の説明にある通り、毘沙門天は七福神の一つですからね、縁起のいい神様ですよね。 それで、大長寺の檀家の娘さんが末永く婚家で幸せで居られるようにと願(がん)をかけるために毘沙門天にお参りにやって来るのだと思いますよ。
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上の写真には男が写っているけれど、やって来るのは決まってお嫁さんだけなんですよ。 花婿が一緒に来たのを見たことがありませんでしたね。 ほぼ間違いなく付き添いの中年婦人と一緒に二人でやってくるのですよ。 多分その中年婦人は仲人さんだと思うのですよ。
それで、菊ちゃんは必ずデンマンさんの家まで知らせに飛んでゆくのですか?
そうなんです。 お袋だって忙しい時がありますからね。 菊ちゃんが来るたびに一緒に見に行けませんよ。 だから、お袋が忙しい時には、せっかく知らせに来たのだから僕に一緒に見に行くようにと言うのですよ。
それで、デンマンさんは菊ちゃんと一緒に見に行ったのでござ~♪~ますか?
小学生で暇をもてあましている事が多いからねぇ、付き合いましたよ。うへへへへ。。。1年に4,5回そう言うことがありました。 菊ちゃんは、もう、アイドル歌手がやって来たように嬉しそうにはしゃぐのですよ。“ちれいねぇ~、ちれいねぇ~” 感に耐えないような声を上げながら、うらやましそうにはしゃぎ回るのですよ。 よっぽど白無垢の衣装が素晴しいものに見えたのでしょうね。 だから、お嫁さんになる事がいつの間にか菊ちゃんの夢と言うかロマンになったのですよ。 いつか、自分もあのような白無垢の衣装を着て毘沙門堂にお参りしよう! そう思っていたのでしょうね。
そう言う“お宮参り”の風習が行田にはあるのですか?
実は、この記事を書くまで僕は良く知らなかったのですよ。 それで、ちょっと調べてみました。 つまり、“仏壇参り”の延長ですよ。 この毘沙門堂は大長寺にありますからね。 ご先祖様のお墓にお参りするついでに毘沙門天に願いをかけるのでしょう。
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でも、菊ちゃんは白無垢の衣装を着ることもなく あの世の人になってしまったのでござ~♪~ますか?
そうなんですよ。 可哀想だけれど。。。奇病にかかってねぇ、40代で亡くなってしまったのですよ。 でもねぇ、エピソードはそれだけで終わりじゃないのですよ。“馬鹿の一つ覚え”という言葉があるでしょう?
ええ。。。よく聞きますわ。うふふふふ。。。
この菊ちゃんは、同じ事を切りもなく話すのですよゥ。お嫁さんがやって来てから1週間ばかりは、その話を飽きること無く繰り返すのですよ。“いーやんがちれいなおべべを着てきたにィ~”。。。で始まって、お宮参りの様子を何べんも何べんも話すのですよ。もちろん僕だけに話すのではなく、顔見知りの人には誰にでも話すのですよ。僕はお袋から「7才のバカ」 じゃなく、「7才の女性」として付き合うのですよ、と言われているから、よほどの事が無い限り、適当に相槌を打って、うん、うん、うん。。。そうだったねぇ~。。。と聞き役になるのですよ。
子供の頃からデンマンさんは話を聞くのが好きだったのでござ~♪~ますわね?
聞き上手になったのは菊ちゃんと付き合うことが多かったからでしょうね。うしししし。。。でもねぇ、他の子供は正直ですよゥ。きりもなく同じ事を繰り返すから。。。“バカァ~!同じ事を何度も何度も言うなア!あっちへ行ってろォ~!” たいていの子供や中学生ぐらいまでは、このように怒鳴りつけますよ。大人は無視して歩き去りますよ。そうすると最後には僕のところにやってくるのですよ。
デンマンさんは、菊ちゃんの話を聞いてあげるのですか?
もちろん、内心では“んも~~ またかよウ!?”。。。と思いますよゥ。でもねぇ、菊ちゃんが怒鳴り散らされたのを知っていますからねぇ~、なんとなく可哀想じゃないですかァ~。。。だから、半分上の空(うわのそら)で相槌打ってやるのですよ。
つまり、そう言う訳で菊ちゃんに好かれるようになった訳でござ~♪~ますわね?
多分、そうだと思うのですよ。まともに相手になってあげるのはお袋を除くと僕ぐらいでしたからね。。。
納得しましたわ。 それで菊ちゃんはデンマンさんのお嫁さんになりたかったのですわね?
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おそらくそうでしょう。。。
でも、小百合さんのお話にどうして菊ちゃんのことを持ち出したのでござ~♪~ますか?
実は、大仏の前で小百合さんと会った時に白い椅子に座りながら、この話をしようと思ったのですよ。
。。。んで、お話になったのでござ~♪~ますか?
いや、途中で気が変わりましたよ。
どうしてでござ~♪~ますか?
毘沙門堂は日光に移築されて影も形も残っていないのですよ。今では、そのあたりは更地(さらち)になって駐車場になっていますよ。
それで、どうしたのでござ~♪~ますか?
上の毘沙門堂の写真をよく見てください。
上の写真がどうだとおっしゃるのですか?
よく見ると毘沙門堂の向かって左側に小さなお堂があって、その中に石像が見えるでしょう?
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ええ、ええ。。。見えますわ。。。
これはお地蔵さんなんですよ。“塩なめ地蔵”と言うのですよ。このお地蔵さんが白い椅子のすぐそばに移されたのですよ。だからねぇ、僕はそこへ小百合さんを連れて行って、“僕が小学生の頃は、このお地蔵さんがアソコにあったのですよ。” そう言って毘沙門堂がある辺りを指差したものですよ。
それで。。。?
なんだか菊ちゃんの姿が思い出されてきましてねぇ~。。。それ以上話すのがつらくなって、話題を変えましたよ。
小百合さんはデンマンさんのその時の微妙な気持ちが分かったでしょうか?
菊ちゃんの事は一言も話しませんでしたからねぇ、小百合さんは何も分からなかったでしょうね。僕は、ただ、全く関係ない話を長々と続けましたから。。。
いつものようにでござ~♪~ますか。。。?
そうですよ。。。。でもね、おそらく、この記事を小百合さんが読めば、“塩なめ地蔵”の事をなつかしく思い出すと思うのですよ。
『毘沙門堂と菊ちゃん』より
(2008年1月7日)
でも、上のエピソードは大長寺の毘沙門堂が建てられたこととは全く関係ないじゃありませんかァ!
あのねぇ~、菊ちゃんの祖先の「お菊さん」が捨てられているのを拾って育てたのが藩主の阿部忠秋さんですよ。。。 小百合さんも PART2 を読めば理解できますよ。。。
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■『菊ちゃんと阿部忠秋』(PART 2 OF 3)
つまり、「お菊さん」のような捨て子の未来が明るいようにと祈願して忍藩主の阿部忠秋さんが建立したのが大長寺の毘沙門堂ですか?。。。
その通りです。。。
ちょっと信じられませんわ。。。
あのねぇ~。。。 昔の人は “信じる者は救われる!” と言ったのですよ。。。 だから、小百合さんも僕の言うことを信じて、幸せな人生を送ってねぇ~。。。
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(すぐ下のページへ続く)
以前のコメントは上の記事のために使わせてもらいました。ありがとう!
このブログには、まともなコメントはほとんどつかないのですよ。
子供の頃、大長寺の境内で、よく遊んだので、今でも懐かしいです。
現在のきれいなお寺も、また新築前の古いお寺のイメージも、今でもはっきりと想い浮かびます。
ふるさとの一部になっています。
大澤さんの書いた本は、行田の昔のことが興味深く書かれています。
何度も何度も読みましたが、実に興味深い本です。
図書館で借りて読んでみるといいと思います。