4万年前の日本文明
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デンマンさん。。。 4万年も前に 日本文明 と呼ばれるものがマジであったのでござ~♪~ますかァ~?
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僕はあったと思います。
でも、4万年も前に、そういう文明が日本にあったなどとは「日本史」の授業で教わりませんでしたわァ〜。。。
あのねぇ〜、歴史は、新たな発見により新しい事実が掘り出されるのですよ。。。卑弥子さんが女学生時代の日本史は、今では使い物にならないほど古い遺物と化してしまったのです。。。それ以来、発掘により新しい事実が教科書にも盛り込まれるようになったのです。。。
デンマンさんは、4万年前の日本文明 をいつ知ったのでござ〜ますかァ〜?
僕が編集したビデオクリップをユーチューブにアップロードしようと思って投稿ページを観ていたら、次の動画が同じページの右サイドのコラムに表示されたのです。。。
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あたくしは源氏物語の研究者で、考古学は全くの門外漢でよく解りませんけれど、ひらがなやカタカナ以前に、漢字が中国から朝鮮半島を経由して日本に入ってくる前に日本固有の文字があったなんて、眉唾物(まゆつばもの)に聞こえますわァ〜。。。
確かに、卑弥子さんがそう感じるのは無理もりません。。。僕が小学生や中学生時代にも、縄文時代の日本には文字はなかったと教わりましたからねぇ〜。。。でも、新たな文献が遺跡の中から発見されるかもしれませんよ。。。
日本列島の旧石器時代
日本列島の旧石器時代は、人類が日本列島へ移住してきた時に始まり、終わりは1万6500年前とされ、ヨーロッパの考古学時代区分の後期旧石器時代におおむね相当する。無土器時代、先土器時代、岩宿時代(いわじゅくじだい)とも呼称される。
この時代に属する遺跡は、日本列島全体で1万箇所以上発見されている。
地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭までである。
始期については、人類が日本列島へ初めて流入した時期にあたり、その年代について多くの議論が行われている。
5万年前あるいは8-9万年前に遡るとされる岩手県遠野市の金取遺跡出土石器や、2009年(平成21年)に同志社大学等により発掘調査された島根県出雲市の砂原遺跡出土石器の分析結果から、12万年前に遡るとする松藤和人(同志社大学教授)らの見解もあれば、現世人類(ホモ・サピエンス)以前の人類による列島への渡航能力と時期の問題や、石器の出土した土層の年代測定上の問題などから、4万年前(後期旧石器時代)以前に遡る可能性に否定的な堤隆(明治大学研究員)の見解などがあり、2020年代となった今日でも意見が分かれている。
少なくとも現状では、4万年前以前とされる遺跡で、全ての旧石器時代研究者が肯定するものは存在していないとされる。
終期については、青森県東津軽郡外ヶ浜町の大平山元I遺跡で出土した土器に付着した炭化物の年代が、加速器質量分析法(AMS法)による暦年較正年代で14,920-16,520BPと出たことにより、当時期に位置付けられている。
したがって、4万年以上前から15000年前にいたる旧石器時代は日本列島の歴史区分のうちで最も長い時代であり、日本列島に人類が出現してから現代にいたるまでの半分以上は旧石器時代だったことになる。
日本列島の形成
日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ1500万年前で、現在のテクトニクスは約300万年前にほぼ出来上がり、更新世の氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こったと考えられている。
地質学的には、ユーラシアプレートの東端および北アメリカプレートの南西端に位置する。 これら2つの大陸プレートの下に太平洋プレートとフィリピン海プレートの2つの海洋プレートが沈み込む運動によって、大陸から切り離された弧状列島になったと考えられている。
しかしながら、従来の学説では氷期に日本列島はユーラシア大陸と陸続きになり日本人の祖先は獲物を追って日本列島にやってきたとされてきたが、近年の研究では氷期の最寒期でも津軽海峡、対馬海峡には海が残り陸続きにならなかったことが分かってきた。
また舟を使わないと往来できない伊豆諸島・神津島産の黒曜石が関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見されていることなどから、「日本人の祖先は舟に乗って日本列島にやってきた」という研究者の発言も新聞で報道されている。
しかし、この時期には船の遺物は発見されていない。
一方、約4万年前の後期旧石器時代早期から黒曜石の採掘が続けられた栃木県の高原山黒曜石原産地遺跡群では知的で効率的な作業の痕跡も確認されている。
さらに黒曜石が見つかった。
石器
日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前期・中期旧石器時代の遺跡とされるものは発見が難しい。
近年の考古学調査により、数は少ないものの、岩手県遠野市の金取遺跡で9〜8万年前の中期旧石器とされるものや、島根県出雲市の砂原遺跡で約12万年前の前期旧石器とされる遺物が発見され、その存否について議論が続いている。
日本では縄文時代より前の時代を先土器時代、または無土器時代と呼んでおり、土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。
ところが、1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、岩宿(群馬県新田郡笠懸村、現・同県みどり市笠懸町阿左美地内)で関東ローム層中から旧石器を発見した。
同年の発掘調査により日本列島に旧石器時代が存在したことが証明され、日本における旧石器時代研究が始まることとなった。
現在までに、日本列島全域で4000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1.2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。
後期旧石器時代が証明されるとさらに古い時代の発掘が試みられた。
1960年代から大分県丹生・早水台、栃木県星野遺跡、岩宿D地点などが調査され、前期旧石器存否論争が行われたが、多くの研究者の賛同を得られなかった。
これらの論争は「丹生論争」、「珪岩製前期旧石器論争」などとして知られている。
1970年代にはいると前期旧石器の探索は薄らぎ、層位編年研究や遺跡構造の解明へ傾斜していった。
旧石器捏造事件
1980年代から、東北地方を中心に、前期旧石器時代・中期旧石器時代が日本に存在したという証拠が次々に「発見」された。
発見の中心人物は藤村新一で、従来の常識を覆す「成果」とされ、日本の旧石器時代は約70万年前まで遡るとされた。
しかし、2000年(平成12年)11月に、藤村が宮城県上高森の発掘現場で石器を埋めるところを毎日新聞取材班が撮影し、同年11月5日に旧石器発掘捏造を報じた。
その後、日本考古学協会の調査で藤村が関与した33か所の遺跡のすべてが疑わしいものとされ、今のところ、前・中期旧石器時代の確実な遺跡は日本には存在しないと理解されている。
中期旧石器時代から後期旧石器時代
長野県飯田市で竹佐中原遺跡が発掘調査された。この遺跡の4カ所の石器集中地点から800余点の遺物が出土した。石器包含層の堆積年代を自然科学分析(火山灰分析、植物珪酸体分析、炭素14年代測定法、光ルミネッセンス年代測定など)した結果、3万年より古く、5万年より新しいことが分かった。4か所から出土した石器は2グループに分けることができ、一つは3万年〜3万数千年前(後期旧石器時代の初め頃)、もう一つは3万数千年前〜5万年前のものであること推測されている。
つまり中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変わる時期の遺跡であると考えられている。
生活・居住
日本列島の旧石器時代の遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にあることが多く、日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡(キルサイト)、石器製作場遺跡などがある。
当時代の遺跡は、多くの場合1万年以上前に堆積したローム層中から検出される。
関東地方広域に広がる関東ローム層などのような、火山噴出物由来の風成ローム層では、強い酸性土壌の影響で当時使われていた皮製品や木製品・骨製品などの有機質の遺物はほとんど分解されてしまい検出されることが極めて少ない。
また地面への掘り込みを伴う遺構(建物等)もあまり形成されなかったため、発掘調査では多くの場合、石器や剥片・石核などの「石のカケラ」ばかりが検出される状態となる。
ただしこれらの石片は、ただ無秩序に散乱しているのではなく、一定範囲での平面的なまとまり(集中域)をもって分布しており、石片同士が接合して母岩を復原出来るものもあるため、旧石器時代人がその場で石器製作や加工をしながら、簡易な家を建てて生活していた痕跡であると理解されている。
生活の場における石器製作場は、石核と飛散した剥片の剥離面同士を接合させることで、同一の母岩から打ち出された石片の集中を把握出来るが、この同一母岩による最小単位の石片集中を「スポット」と呼ぶ。
1つの石器製作場は、複数の母岩を用いた石器製作痕跡、すなわち複数スポットの集合で構成されており、これは「ブロック」と呼ばれている。
ブロックもまた複数で集合しており、各ブロック間で同じ母岩を共有しながら石器製作を行っている。
同一母岩を共有するブロックの集合体が「ブロック群」または「ユニット」と呼ばれるもので、十数個のブロックが直径30~50メートルほどの円形を成したものは環状ブロック群(または環状ユニット)と呼ばれる。
これは、後期旧石器時代でも初期にあたる、4万年前~3万年の時期に見られる特徴的な生活遺構である。
なお「1つの環状ブロック群=1つのユニット」ではなく、幾つかのブロックからなるユニットが、さらに複数で集合した大規模なものが環状ブロック群であるとされる。
例えば、1983年(昭和58年)にこの遺構が初めて発見された群馬県伊勢崎市(旧佐波郡赤堀町)の下触牛伏遺跡(しもふれうしぶせいせき)では、26のブロックが環状に検出されているが、同じ母石を共有するユニット単位では、10ユニット前後に分割される。
なお、3万年前以降の旧石器時代遺跡でもブロック群(ユニット)は形成されるが、環状を呈する大規模なものは見られなくなる。
これらの遺物検出状況から、スポット(1つの石器製作を行った個人)→ブロック(数人で石器製作の作業場を構成する1家族)→ユニット(母岩を共有し共に生活・移動する数家族からなる小単位集団)→環状ブロック群等大遺跡(仲間意識のある小集団が一堂に会した大単位集団)という旧石器人の社会と構造が推定されている。
後期旧石器時代全般を通じての集落や社会構造については不明な点も多いが、環状ブロック群では50人から100人ほど、国内最大規模をもつ千葉県印旛郡酒々井町の墨古沢遺跡の例では、100人から150人ほどの人間が一堂に会していたと推定されている。
これらの遺跡からは、調理・暖房・採光のための罐焚き窓(石囲炉、地床炉、土坑炉)や礫群も検出されることがあり、熱のために赤色化していたことで火が使われていたことが分かる。
礫群は、こぶし大前後の川原石が一定範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設と考えられている。
一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。
土坑の形態は多様で、用途のわかっていないものも多いが、新潟県長岡市の荒屋遺跡で検出された土坑からは、内部から食用と見られるオニグルミやミズキの種子が検出され、静岡県磐田市の広野北遺跡の土坑でもオニグルミが検出されており、貯蔵穴と考えられている。
また、静岡県三島市の初音ヶ原遺跡や、同県駿東郡長泉町の東野遺跡、神奈川県横須賀市の打木原遺跡では、狩猟用の落とし穴と見られる土坑が検出されている。
建物遺構の検出
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田名向原遺跡の旧石器時代平地建物の復元模型
(旧石器ハテナ館内)
全国で1万箇所以上発見されているこれら当時代の遺跡から、縄文時代のような数本の木柱を建てて屋根を葺いた定住可能な建物(竪穴建物や平地建物)が検出される事例は極めて稀で、確実に建物(住居)とみて良いものでは約2万年前に遡る神奈川県相模原市の田名向原遺跡(国の史跡)の平地建物や、大阪府藤井寺市はさみ山遺跡の竪穴建物など、10例程度しか発見されていない。
はさみ山遺跡の建物跡は、約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆ったもので、形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴建物である。
外周に柱穴をもち、径10センチメートルぐらいの木材を20本近く斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。
この建物跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト製のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点出土している。
これは、当時の人々が定住的な集落を造って長期間留まらず、テントのような簡易な住まいで寝泊まりしながら狩猟採集をし、移動を繰り返す「遊動生活」 をしており、大きな柱穴(ピット)や地面への掘込みを伴う構造物をあまり建築しなかったためと考えられている。
1998年(平成10年)時点の集成では、旧石器時代の建物跡、あるいはその可能性をもつ遺構(縄文時代草創期を除く)は、全国で27基あげられている。
ただし、これらの中には建物跡と見なせるか疑問視されるものも含まれており、ほぼ確実に建物と考えられているものは、上述のはさみ山遺跡や田名向原遺跡を含めた10例程度しかないとされる。
神奈川県相模原市の小保戸遺跡では、2007年(平成19年)~2009年(平成21年)の調査で2万3千年前の環状礫集中(ブロック)が検出され、建物跡と考えられている。
このほか、洞穴や岩陰を住みかとして利用していたことが知られているが(洞窟遺跡・岩陰遺跡)、日本列島における遺跡数は平場のブロック群に比べて少ないとされる。
土器の出現
2013年現在、日本で最古の土器は青森県の大平山元I遺跡から出土したもので、付着する炭化物の放射性炭素年代測定によって約16000年前のものとされている。
土器の出現をもって旧石器時代と縄文時代を区分する場合、これが旧石器時代の終わり(縄文時代の開始)ということになる。
人類学的見地から
現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前に出アフリカを果たし、それ以前にはアフリカ外には分布していなかった。
従って、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人である。
日本列島に現生人類が現れるのは4〜3.5万年前と考えられており、これは日本固有のハプログループD1a2a (Y染色体)の起源年代とおおむね一致する。
出典: 「日本列島の旧石器時代」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
あのねぇ〜、かつて日本の旧石器時代は70万年前に遡ると言われたのですよ。。。
でも、それは上の説明にも書いてあるように藤村さんが証拠を捏造したのですわァ〜。。。
(fujimura8)
それに上の説明にもあるように現生人類(ホモ・サピエンス)は7〜6万年前に出アフリカを果たしたのですわァ。。。つまり、それ以前にはアフリカ外には分布していなかったのでござ〜ますゥ。。。ということは現生人類が4万年前に日本に文明を築いたなんてありえないのですわァ〜。。。
6万年前に現生人類がアフリカを出発したとしても2万年あれば、現生人類は充分に日本列島に到達できます。
そうだとしても、すぐに文明が芽生えるわけではござ〜ません。。。更に2万年ほどかかるかもしれませんわァ〜。。。
でもねぇ〜、日本列島最古の石器(砂原遺跡の12万年前)を遺したのはデニソワ人などの旧人と書いてある。。。要するに、旧人が4年前に日本に文明をもたらしたということだって考えられるのですよ。。。
文明をもたらすのは現生人類(ホモ・サピエンス)だと あたくしは信じております。。。旧人では無理ですわァ〜。。。日本列島に現生人類が現れるのは4〜3.5万年前と考えられております。。。だから、4万年前に日本に文明が築かれたということはありえませんのですわァ〜。。。文明が築かれたとしても日本列島に現生人類が到着してから2万年か、3万年が経たないと文明が生まれませんわァ〜。。。
でも、旧人が文明をもたらして、それを縄文人が引き継いだということだって考えられるのですよ。。。
旧人では無理でござ〜ますゥ。。。縄文時代以前に文字をもたらしたという馬鹿バカしいお話は幻想以外の何物でもござ〜ませんわァ。。。
卑弥子さんは、何が何でも日本に古代文明があったということは信じたくないのですねぇ〜。。。
信じるも信じないも、上の説明をジックリと読めば明らかなことでござ〜ますゥ。。。
でもねぇ〜。。。北陸地方や秋田県の沿岸には、縄文時代の頃には大陸から船で渡ってきた人たちがたくさんいた。。。その中には継体天皇の祖先もまじっていたのです。。。しかし、その土地の遺跡の発掘はまだ10%も進んでいないと僕は信じているのですよ。。。何も北九州だけに大陸から人が渡ってきたわけじゃない。。。そういうわけで、今後 北陸地方や秋田県の沿岸の遺跡の発掘が進むと、4万年前に日本に文明が築かれたという証拠が見つかるかもしれないのです。。。
それは、まずありえません。。。
卑弥子さんは、古代文明に対する夢とロマンを持ち合わせてないのですねぇ〜。。。
あたくしは、いたって現実的な女でござ〜ますゥ。。。夢とロマンを食べていても生きてはゆけませんわァ〜。。。
(foolw.gif)
【卑弥子の独り言】
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ですってぇ~。。。
あなたは、どう思いますかァ〜?
4万年前に日本に文明があったと思いますか?
ええっ。。。 「そんな事は、どうでもいいから、もっと他に面白い話をしろ!」
あなたは、そのように あたくしにご命令なさるのでござ~ますか?
いけすかないお方ァ~。。。
分かりましたわ。
では、話題を変えて 天の川の不思議に迫るクリップを お目にかけますわ。。。
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どうでした?
ええっ。。。 「夜眠れなくなるから、そういう動画は見せるな! 気分直しに何か他に もっと面白いことを話せ!」
あなたは、あたくしに向かって、更にご命令なさるのでござ~ますか?
いけすかないお方ァ~。。。!
分かりましたわァ。。。 あなたが、そうおっしゃるのだったら、まずジューンさんの次の写真をご覧になってくださいまし。。。
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千夜一夜物語の衣装を着たジューンさんに魅せられて、女性に成りすます男性が たくさん居るのでござ~ますわァ!
ええっ。。。 信じられないのですかァ?
じゃあ、ちょっと次のYouTubeのクリップを見てくださいまし。。。
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いかがでござ~ますかァ~?
男性が女装していると思いますかァ?
あたくしは、素直に信じることができませんわァ~。。。
どうですかァ~? けっこうなものでしょう!?
いつまでも見とれていても仕方がありませんわよゥ。
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では。。。
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