甲斐姫の母親
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デンマンさん。。。、どういうわけで 甲斐姫の母親 を取り上げたのですか?
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実は、「青空文庫」で山本周五郎の次の作品を読んだのです。。。
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靱負之助(ゆきえのすけ)がみまわっていると、婦人たちのあるひと組が仕事の手をやすめて、なにかひそひそ囁(ささや)きあっているのをみとめた。
近寄ってなにをしているかとたずねると、ひとりが手に持っていた笄(こうがい)をさしだして、「このような品が壕のなかに落ちていましたので」とふしんそうに云った。
「そのもとたちの持場だ、笄が落ちているのにふしぎはあるまい」
「なみなみの品なればふしんはござりませぬが、これはわたくしどもの用うるものではござりませぬ」
「そればかりではなく」とそばにいたひとりが云った。
「わたくしそのお笄には見おぼえがござります、わたくしは数年まえまで奥へあがっておりました、そのおりたしかに見おぼえております、それはおかた様が日常お用いなされる品でございました」
「これが、この笄が、おかた様の……」
靱負之助は婦人の手から笄をうけ取った、或ることがふとかれの頭にひらめいた。
「いずれにもせよ」とかれは笄を懐紙に包みながら云った、「かような品の詮議をするいとまはない、領民たちにおくれをとらぬよう、一日も早く壕を掘りあげなければならぬ、しっかりたのむぞ」
やはりおかた様だ、おかた様がおしのびで、自分たちと一緒に壕を掘っていらっしゃったのだ。
婦人たちがそう囁き合うこえを聞きながら、靱負之助はそのあしで本丸へあがった。
広書院へ伺候すると、いつものとおり甲冑をつけた真名女が、ちゃんと上段の床几しょうぎにかけていた。
靱負之助は内密の言上だからといって、侍女たちの遠慮をねがった、真名女は手をあげて侍女たちをさがらせた。
「今日かような品が、壕つくりの場所よりみいだされました」
靱負之助は笄をさしだしながら、上段のきわまで膝をすすめた。
「かれらのなかに、かつておそば近く仕えた者がおり、おかたさま御用の品と申しております、その者のおぼえ違いでござりましょうや、それともおかたさま御用のお品にござりましょうや」
「…………」
「もし御用の品なれば、家臣どもと苦労をおわかちあそばすおぼしめしでござりましょうが、それはいささかお考え違いと申さねばなりませぬ、おかた様は忍城のおんあるじ、さようなかるがるしいおふるまいは」
そこまで云いかけて、靱負之助はあっと眼をみはった、兜の眉庇のかげにみえたのは真名女ではなかった、真名女によく似たうるわしい面ざしではあるがそれは甲斐姫であった。
姫が母に代って甲冑をつけていたのであった、
「これは……」
靱負之助はつぐべき言葉を知らなかった。
そしてかれには今、家臣の妻たちといっしょに土まみれになって、壕を掘っている夫人の姿がみえるように思えた。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
笄堀 『日本婦道記』
著者: 山本周五郎
発行所: 青空文庫
上の引用箇所は『笄堀(こうがいぼり)』という話の一部だけれど、石田三成が忍城を水攻めにした時の話ですよ。。。丸墓山に陣取って三成は水攻めの指揮をとったのです。。。小百合さんと一緒にあの丸墓山に登ったけれど、あの同じ地点に石田三成が450年ほど前に立ったということを考えると、考え深い事です。
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■『謙信と軽井沢タリアセン夫人』
小百合さんが女子校を卒業するまで過ごした実家のある館林も出てきます。。。水攻めが始まる前に、館林藩では忍藩に使者を送って、300人あまりの兵士では忍城を守りきれないから館林の城にぜひやってきてくれ、と誘ったのです。
でも、応じなかったのですわねぇ~。。。
そうです。。。忍城主の留守を守る奥方は、上の作品の中では「真名女」として出てくる人だけれど、300人で城を守る決断をしたのです。
勇ましい女性だったのですわねぇ~。。。
そう言うことになっているのですよ。。。館林藩には6000人ほどが集まってきたけれど、結局3日間戦って破れてしまった。。。
どうして忍城には300人しか武士がいなかったのですか?
当時、豊臣秀吉が小田原城を攻めており、忍城からも援軍を差し向けたからですよ。。。城主を始め、壮年や青年の武士は小田原に駆けつけていて、忍城には老人や女子や子供たちだけだったのです。
武士と言っても かなり年をとった人たちばっかりだったのですね。。。
そうです。。。忍城では老兵がたったの300人でしたが、上の話からも分かるように城主の妻が 下々の者たちと一緒になって外堀を掘ったことが口コミで伝わり、城内にいる者たちが一丸となって決死の覚悟で果敢に戦ったのです。。。上の話は、その時のものです。
つまり、城主の奥方が娘(甲斐姫)に自分の身代わりになってもらって鎧兜(よろいかぶと)を着てもらい自分は武士の妻や城内にやって来た町人のおかみさんたちと、外堀を一緒に掘たということですか?
そういうことです。。。そのとき髪に付けていた笄(こうがい)を落としてしまうのです。それを ある奥方付きの女中が見つけ「これは、奥方様の笄だわ」ということになり、奥方が変装をして女中や武士のカミさんたちと一緒に外堀を掘っていたことが知れるのです。
それで、留守を守っていた城代家老が、そのようなはしたないことをしてもらっては困ると奥方に会いにゆくのですか?
そうです。。。娘の甲斐姫が鎧兜(よろいかぶと)を着ているのだということを発見して驚いてしまう。。。でも、そういうことが知れたので、城内の者は心を一つにして決死で戦うことを心に誓った。。。石田三成の部下は3万人もいたけれど、寄せ集めの統制の取れてない武士たちだったので、結局、石田三成は地上戦では埒(らち)が開かないと考えて水攻めを決めたのですよ。。。僕の祖先も、この時に城内に入って一緒に戦ったはずです。
。。。で、デンマンさんは、どういうわけで上のエピソードを取り上げたのですか?
上の話は、とてもいい話なのですよ。。。実に読む人を感動させるようなすばらしい話です。。。物語では、甲斐姫は奥方にとても似ているので、初めのうちは誰も気づかなかったということになっている。。。
歴史的事実は、そうではないのですか?
あのねぇ~、この時の真名女は甲斐姫の実の母親ではないのですよ。。。甲斐姫の母親は、彼女がまだ2歳の時に離婚させられていた。。。だから、甲斐姫は真名女とは顔も体格も全く似ていなかった。。。
マジで。。。? どういうわけで甲斐姫の母親は離婚させられたのですか?
現代ならば、「性格の不一致」で離婚されるのが普通だけれど、その当時は武家の間では政治的な理由で離婚させられるのが普通だった。。。当時の忍城城主・成田氏長の正妻、つまり、甲斐姫の母親は、上野国金山城城主・由良成繁の娘だった。。。
。。。で、何が起こったのですか?
詳しことはわからないけれど、天正元年(1573年)、成田氏と由良氏の関係が悪化した。。。それで甲斐姫の母親は、甲斐姫が2歳の時に離別させられたのですよ。。。その後は太田資正の娘を後妻としてもらった。。。
その後妻が上のエピソーでは真名女なのですねぇ~?
そういうことです。。。でも、二人は似ているはずがない。。。
どうしてですか?
あのねぇ~。。。甲斐姫のおばあさん(実母の母親)という人は、甲斐姫を上回る女傑だった。。。夫が亡くなってから尼になって妙印尼と名乗るのだけれど、天正12年(1584年)に金山城が北条氏の軍勢に襲撃された際、71歳という高齢にも拘らず籠城戦を指揮したのですよ。。。甲斐姫の実母も武芸に秀でていたのです。。。だから、甲斐姫もその血筋を受けつでいたので、おしとやかというような女性ではなかったと思われる。。。男で言うならば武骨者とでも言うようなところがあったに違いない。。。
作者は、その事実を知らなかったのでしょうか?
いや。。。山本周五郎は、その事実も知っていたはずです。。。でも、物語を作る上で、奥方が継母だと、母と娘が似ていることにならないので、わざと継母だとは書かなかったのですよ。。。
本当は、上の話はどうだったのでしょうか?
もし、上の話のような出来事があったとしたら、笄を落としたのは、奥方ではなく甲斐姫だったと思うのですよ。。。継母は意地悪をするような人ではなかったらしいけれど、本人は継母と居るよりは、兵士の妻や、町人のカミさんたちと一緒に外堀を掘るほうが気が楽だったでしょうからね。。。
やっぱり、継母とはうまくゆかなかったのでしょうか?
表面上は知らない人が見れば、仲の良い母と娘のように見えたでしょう。。。でも、甲斐姫はトラウマを抱えていたのです。。。
それはどうしてですか?
小百合さんがゼリーフライ買う“かねつき堂”の近所を拡大した地図を見てください。
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■『拡大する』
“かねつき堂”のすぐ近くに“縁切橋” と “涙橋”という知る人ぞ知る 涙をそそる有名な橋があったのですよ。
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この二つの橋が「甲斐姫のトラウマ」と関係あるのですか?
あるのですよ。 次のエピソードを読んでみてください。
“縁切橋” と “涙橋”
栗原医院の所にあった二重櫓の西に門と橋があり、今の城西1丁目1番地の間の道を西に出ると門と橋があった。
その橋を“縁切橋”といった。
今の1番地 2番地、4番地の地内が上荒井曲輪で囲まれていた。
その西側、今の矢場1丁目5番地は“片矢場”といい、今の西側小川に沿ってやはり曲輪に囲まれていた。
矢場2丁目4番、5番の南に川があって、ここにも門と橋があって“涙橋”といった。
今は川がなくなってしまったので、古老以外は知らないと思うが、大正初期頃までは橋の名が悪いので、若い男女は二人でこの橋二つを渡るものではないとされていた。
橋名の因縁は天正元年(1573年)の四百年も前の事である。
館林城主の長尾但馬守入道景朴は古河公方の旗下となり、足利義輝将軍の御供衆になって娘を近隣の大家忍城成田氏長にやり、北関東に覇をとなえようとした。
しかし意の如くならず、政略結婚の常として氏長に破談をせまった。
そこで氏長は妻女を大裏門から送り出し、この橋で別れを惜しんだ。
即ち“縁切橋”の名となったという。
別れを惜しんだ妻は次の橋で振り返り、涙を流して皿尾門から出て行ったといわれる。
即ち“涙橋”といい後世までの語り草となった。
その時、忍城に残された一粒種の甲斐姫は2歳であった。
それから16年後の天承18年(1590年)石田三成の2万の大軍が忍城を攻め、有名な“忍の水攻め”となった。
芳紀正に18歳の長刀の名手の美少女甲斐姫が、大手門外や大宮口御門に大奮戦して城兵を鼓舞し、忍城を不落の城として守り通した話は『成田記』にくわしい。
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(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真と地図はデンマン・ライブラリーより)
182-183ページ 『行田史跡物語』
著者: 大澤俊吉
1979(昭和54)年12月20日 初版発行
発行所: 歴史図書社
僕が子供の頃には、“縁切橋” と “涙橋”のエピソードは聞いたことがなかった。 でもねぇ~、四百年も前の悲話が大正時代まで語り継がれてきたというのは すごいと思いますよ。 現在でも郷土史に関心のある行田市民は知っています。。。
つまり、甲斐姫の実母が離婚させられて、2歳足らずの我が娘を置いて涙ながらに去っていったということが後年の甲斐姫にトラウマになって心の隅に巣くっていたのですか?
そういうことですよ。。。とにかく、現代まで語り継がれてきたほどですからね。。。城内で箝口令(かんこうれい)を布(し)こうとも、その悲しい事実は 必ず誰かの口から甲斐姫の耳に入ってしまったはずです。。。
それで甲斐姫は、その忍城での合戦の時に、亡くなった母のところへ逝くつもりで、死を覚悟して華々しく戦ったのですわねぇ~。。。
そういうことです。。。死ぬつもりで戦ったのだから強いはずですよ。。。
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【卑弥子の独り言】
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ですってぇ~
貴方も“縁切橋” と “涙橋”にからむ切ないお話を聞いて甲斐姫のトラウマが理解できましたか?
ええ。。。? 「そんな事はどうでもいいから、もっと面白い話をしろ!」
あなたは、あたくしに そのような強い口調でご命令なさるのでござ~ますかァ~?
分かりましたわァ。。。 あなたがそのようにおっしゃるのであれば、
元旦にバンクーバーで第100回寒中水泳があったのでござ~ますわよう。
その模様をお見せしますわねぇ~。。。
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ええっ。。。 「寒中水泳など つまらんから、もっと面白い話をしろ!」
あなたは、さらに、そのような強い口調で あたくしにご命令なさるのですかァ~?
分かりましたわァ~。。。
個人的なお話ではありますけれど、
次の検索結果を見てくださいまし。。。
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■『拡大する』
■『現時点での検索結果』
「卑弥子 ヴィーナスのえくぼ」と入れてGOOGLEで検索する殿方が多いのでござ~ますわァ。
つまり、あたくしの“ヴィーナスのえくぼ”を目当てにやって来るのですわよう。
うふふふふふふ。。。
あなたも、ビックリするでしょう?
ジムに毎日通って“ヴィーナスのえくぼ”をゲットしたのですわァ。
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どうでござ~ますかァ?
ええっ。。。 あたくしのお尻だとは思えないのでござ~ますかァ~?
どうしてよう?
ええっ。。。 スタイルがよすぎると、おっしゃるのござ~ますかァ~?
あたくしが十二単を一枚、一枚脱いでゆくと、
最後には上のようなおヌードになるのですわよう。
信じてくださいましなァ~。。。
ところで、小百合さんが なぜ「軽井沢タリアセン夫人」と呼ばれているのか?
ご存知でござ~♪~ましょうか?
なぜ。。。?
実は簡単な事なのですわよう。
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小百合さんは軽井沢に別荘を持ったのですわ。
小さな頃から軽井沢に住むことが夢だったのですってぇ~。。。
分からない事ではござ~ませんわァ。
そもそも小百合さんが軽井沢に興味を持ったのは、朝吹登水子のエッセーなどを読んだことがきっかけだったとか。。。
現在、朝吹登水子の山荘、睡鳩荘(すいきゅうそう)は軽井沢タリアセンに移築されて公開されています。
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それで、小百合さんは軽井沢タリアセンを訪れては睡鳩荘に足を運んで少女の頃の事を思い出すのが楽しみなんですってよ。
そういう訳で、デンマンさんが小百合さんのことを「軽井沢タリアセン夫人」と呼ぶようになったのですわ。
軽井沢・雲場池の紅葉
軽井沢のイルミネーション
秋の旧軽井沢銀座ぶらり散歩
とにかく、明日もデンマンさんが興味深い記事を書くと思いますわ。
だから、あなたも、お暇なら、また読みに戻ってきてくださいまし。
じゃあねぇ~~。
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ィ~ハァ~♪~!
メチャ面白い、
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普通、ローズヒップティーと呼ばれます。
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バラ科バラ属の植物の果実。
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ローズヒップ生産のため、バラの特定品種、
特にRosa canina(ドッグ・ローズ)が栽培されています。
ハイビスカスとブレンドしたハーブティとして飲用されることもあります。
また、ローズヒップオイルは食用油として、
ジャム、ジェリー、マーマレードにも用いられるほか、
スキンケアにも用いられます。
こんなエピソードがありました。
第二次世界大戦中、
イギリスはドイツ海軍Uボートの海上封鎖により
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(rosehip.jpg)
なんだか信じられないようなお話ですよね。
ところで、英語の面白い話を集めました。
時間があったら覗いてみてください。
■ 『あなたのための愉快で面白い英語』
では、今日も一日楽しく愉快に
ネットサーフィンしましょう。
じゃあね。
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