忠臣蔵の嘘
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デンマンさん。。。 今日は忠臣蔵の嘘を取り上げるのでござ〜ますかァ~?
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そうです。。。卑弥子さんは不満そうですねぇ〜。。。
だってぇ〜、忠臣蔵は、日本人ならば知らない人がいないほど有名な事件ではありませんか! それなのに、忠臣蔵のお話には虚があるのでござ〜ますかァ〜?
あのねぇ〜。。。あの事件は江戸時代に起こった衝撃的な事件だったのですよ。。。なぜなら、江戸時代中期の元禄14年3月14日(1701年4月21日)に事件が起こった。。。当時は、もう戦国時代から100年が経過して、民衆は平和ボケしていたのですよ。。。戦争や、騒乱や、反乱は全く無くなっている。。。だから、武士道とか、敵討ちなんてものは、民衆には現実離れしたことのように思われた。。。そういう時に、江戸城殿中松之大廊下で赤穂藩藩主・浅野長矩(内匠頭)が高家肝煎・吉良義央(上野介)に切りつけたのですよ。。。
確かに、平和に馴れきっている民衆には、現代で言えば、三島由紀夫が時代錯誤の切腹をして亡くなったような衝撃を与えたでしょうねぇ〜。。。
そういうことですよ。。。浅野は即日切腹となり、被害者とされた吉良はお咎めなしとなった。その結果を不服とする赤穂藩国家老・大石良雄(内蔵助)をはじめとする赤穂浪士(赤穂藩の旧藩士)47名、いわゆる「赤穂四十七士」は、紆余曲折のすえ元禄15年12月14日(1703年1月30日)未明に本所・吉良邸への討ち入りに及び武林隆重が吉良を討ち取り、間光興が首をはねたのですよ。。。三島由紀夫は一人で切腹したのだけれど、この事件では47人が切腹したことになっている。。。
すごいですわねぇ〜。。。47倍の衝撃ですわねぇ〜。。。
1701年4月21日の浅野長矩の切腹から、討ち入りまでの1703年1月30日までの一連の事件を総称して、今日の史家は「赤穂事件」と呼んでいる。。。その事件が脚色や創作によって伝承され「忠臣蔵」への演劇化による脚色も手伝って逸話や伝承の類が多く残っているのですよ。。。だから、有名な逸話がたくさんある。。。でも、嘘と言うのが言い過ぎならば、伝承の域を出ていないものが たくさんあるのです。。。
つまり、その逸話には、史実ではないものが含まれているということですかァ〜?
そういうことです。。。例えば、「山鹿送り」という逸話が伝わっています。
山鹿送り
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山鹿素行は独自の軍学山鹿流を興し、様々な大名に兵学を教えていたが、著書の一つ「聖教要録」が幕府の忌諱に触れ、播州赤穂にお預かりになった。
22歳の内蔵助は山鹿素行を赤穂まで護送する任務にあたったが、山鹿素行の門下の者がこれに反発して襲撃してくる。
しかし内蔵助は門下の者たちに、「ここで素行を奪い返すは幕府に弓を引くも同然」と道理を説いて説得し、無事山鹿素行を赤穂まで連れてくる。
講談ではこの後、内蔵助は山鹿素行から軍学を学ぶことになるとしている。
史実では、万治3年(1660年)に大石内蔵助は1歳、寛文5年(1665年)でも、わずか6歳である。
山鹿素行は大石良雄についてまったく記していない。
さらに、山鹿流には「仇討ちは、天下の大道にて目のある場(衆人環視)で討ち果たすが手柄と云うべし。敵が家中に居るを、人知れず踏み込むは悪しき下策なり。是れ夜盗と大差なし」とある。
また、山鹿流を藩学とする津軽氏と松浦氏は、『山鹿語類』に「中道にして廃す、道のとぐべき処なし。故に勤行を以て士の勇とする也」とあるを以って、勅使饗応を私恨により中途放棄した浅野長矩と、それに続く元禄赤穂事件を批判している(両家は近現代には天皇家の姻戚となる)。
松之大廊下の刃傷に関する逸話
浅野長矩の動機は?
■長矩夫人の阿久里に義央が横恋慕した。
■義央が皇位継承問題に絡んだため、長矩が怒った。義央の悪名を聞いた長矩が、天誅を下そうと思った。
■長矩の美少年な児小姓を吉良が望んだが、長矩が断った(『誠忠武鑑』)
■浅野家秘蔵の茶器を吉良が望んだが、長矩が断った(『聴雨窓雑纂』)
■ある茶会で披露された書画について吉良は「一休宗純の真筆」と鑑定したが、長矩が「贋作だ」と述べた(赤穂精義参考内侍所)
柳沢吉保の関与
忠臣蔵のドラマでは、当時将軍の側用人として権勢をふるった柳沢吉保が、いわば事件の黒幕として振る舞っていたように描くものがあり、例えば大佛次郎の『赤穂浪士』では柳沢は吉良に「聞き分けのない浅野はいじめてしまえ」という趣旨のことを言う。
史実でも『多門伝八郎筆記』には柳沢の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった旨が書いてあり、事件への柳沢の関与をにおわせるが、この文献の記述には創作が多い。
脇坂淡路守が吉良を殴打
殿中刃傷があった直後、播磨龍野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良義央とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。
諸大夫の五位が四品の高家に暴行に及んだ咎で脇坂は老中に罰せられ、赤穂城は与えられる可能性のあった脇坂家でなく永井家のものとなる。
この話は1912年の浪曲の筆記本に見えるが、史実としての確認はできず、伝承・巷談の域を出ない。
史実において脇坂安照は、赤穂城受け取りの時の正使であった。
切腹を迫られる吉良
柳沢吉保が吉良上野介に切腹を申しつけたという風聞が『浅吉一乱記』に記されている。
一方、初期の実録本『赤穂鍾秀記』には吉良上野介が妻の富子から切腹するように言われたとか、上杉家の家老からもし吉良が切腹すれば追い腹を斬ると言われたとあるし、『江赤見聞記』の七巻も上杉綱憲の近習から吉良が存命だと上杉家に災いがあるかもしれないから切腹するよう勧められたという風聞を記している。
浅野内匠頭の切腹に関する逸話
浅野内匠頭の切腹に立ち会った多門伝八郎は、その時のことを記した『多門伝八郎筆記』を残しており、そこに書かれた逸話が忠臣蔵のドラマなどで描かれることも多い。
以下、『多門伝八郎筆記』に記載された逸話を紹介するが、この筆記は他の資料との比較により、創作が多分に含まれていることが判明しているので、以下の逸話の信憑性は不明である。
■(多門が浅野を慰める)多門が浅野に殿中で刃傷におよんだ理由を聞いてみたところ、浅野は「私の遺恨」ゆえに刃傷におよんだものの、吉良に負わせた傷が浅手だったのが残念だと答えた。そこで多門が武士の情けで「相手は高齢だから養生はおぼつかないだろう」と慰めたところ、浅野は喜んだ表情を見せた。
■(多門が幕府の裁定に抗議)柳沢吉保の指示により浅野の即日切腹と吉良の無罪放免が決まった。これに憤慨した多門が裁定は「片落ち」である旨を抗議したところ、多門は柳沢の怒りを買い、目付部屋に軟禁された。
■(多門が庭先での切腹に抗議)浅野の切腹場所を庭先の白洲にて行うよう庄田下総守が指示したものの、これに不満を持った多門は「庭先での切腹など一城の主にはあるまじき事」だという趣旨の抗議をし、立腹した庄田と掴み合いになりかけた。
■(多門が片岡源五右衛門の今生の別れを許可)浅野の切腹の直前、赤穂藩士の片岡源五右衛門が今生の別れをするために会いに来た。多門は「明日は退役と覚悟いたし」て片岡を浅野に会わせた。しかしこの逸話の信憑性は疑わしく、切腹を行った田村家の記録にはそのようなことは記載されていないうえ、『杢助手控』にはその期間は誰も立ち入りさせないよう厳命があったと記載されている。さらに赤穂側の資料にもこの件は記載されていない。
切腹の翌日にあたる3月15日に片岡源五右衛門が多門を訪ねて上記の件の礼を言い、同年11月23日にも城内の「中の口」で多門に会って「もはや二君に交えず、この春から町人になる」という趣旨のことを言った。しかし一塊の浪人にすぎない片岡が中の口に入るつてはない。
■(浅野内匠頭の辞世の句)浅野は切腹に際して辞世の句を詠み、その内容は「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残りをいかにとか(や)せん」というものであった。この逸話も田村邸の記録や赤穂藩の記録になく、信憑性は疑わしい。
■(浅野本家の抗議)3月15日に広島藩浅野本家の松平安芸守は切腹の場所が不当であると松平陸奥守と田村右京大夫に厳重に抗議した。この逸話は『冷光君御伝記』にすら記録がなく、信憑性は疑わしい。
ドラマなどでは、上述した片岡源五右衛門のエピソードに関して、浅野内匠頭と口をきかないことを条件として片岡を浅野に会わせるものも多い。
赤穂藩の改易で領民が大喜びして餅をついた
文化3年(1806年)に刊行された伴蒿蹊の『閑田次筆』に、浅野が起こした事件によって赤穂藩が改易となり、それを聞いた領民が大喜びして餅をついたという話が載っている。
『閑田次筆』に書かれている領民が喜んだという記述については以下の通りである。
「或人曰く、赤穂の政務、大野氏上席にして、よろづはからひしほどに、民その聚斂にたへず、しかる間、事おこりて城を除せらるるに及びしかば、民大いに喜び、餅などつきて賑はひし大石氏出て来て事をはかり、近時、不時に借りとられし金銀など、皆それぞれに返弁せられしかば、大いに驚きて、この城中にかやうのはからひする人もありしやと、面(おもて)をあらためしとかや云々…」
(現代語訳)
「ある人が言っています。赤穂の政治を大野九郎兵衛が上席で全てを仕切ったので、赤穂の庶民は税のとりたてに耐えなかったと言います。そうこうしている間に刃傷事件がおきて、城を没収されるにことになったので、赤穂の庶民は大いに喜んで餅などをついて大賑いをしました。そこへ大石内蔵助が出てきて政務を行うようになり、困った時に赤穂藩が借りていた金銀を皆に返済したので赤穂の人は、大変驚いて赤穂藩にこのような立派なことをする人もいたのか、と考えを改めたということです」
ただ、この『閑田次筆』は、浅野が殿中刃傷を起こした元禄14年(1701年)からおよそ100年後の文化3年(1806年)に刊行されたものである。
菅茶山は真筆が国の重要文化財に指定された『筆のすさび』において、「亡国幣政」で「浅野家が潰れて、土地の者は悪政がやんだと言って喜んだ」と書いている。
また、浅野が切腹した後の当時の赤穂城とその城下町の様子を伝えるものとしては、赤穂城の受け取りの正使を務めた脇坂安照の家臣で、赤穂城で受け取りと在番の実質的指揮をとった龍野藩家老の脇坂民部の日記『赤穂城在番日記』が現存している。
この『赤穂城在番日記』には、当時の赤穂城の受け取りから脇坂民部らの在番が終わるまでの仔細が書かれている。
日記には城の受け取りが終わり、脇坂民部らが在番となってから、赤穂の子供が赤穂城の堀で釣りを行っていることなどは書かれているが、赤穂の領民が改易となって喜んでいる様子などは書かれておらず、そうした様子が当時の赤穂で見られなかったことがわかっている。
大石の遊興
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『仮名手本忠臣蔵』七段目で大星由良助(史実の大石内蔵助)が遊んでいる祇園の一力茶屋のモデルになったとされる万亭。
「万」の字を上と下に分割して「一力」にしたという。
現在では『仮名手本忠臣蔵』に合わせて「一力亭」という名前である。
人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』をはじめとして元禄赤穂事件を描いたドラマでは山科で暮らしていた頃の大石が花街で派手に遊ぶ様子が描かれることが多い。
この遊興により、大石に仇なすものはもちろん、大石が吉良を仇討ちすると信じていた者も愛想を尽かし始める。
例えば講談では大石が吉良の仇討ちをしてくれるものとかたく信じる薩摩武士の宇都宮重兵衛が、大石のあまりの姿に呆れ果てている。
多くのドラマでは大石は敵の目を欺くためにあえて遊び呆けたのだとされ、たとえば『仮名手本忠臣蔵』でも、遊興により斧九太夫(史実の大野九郎兵衛)の目を欺いている。
一方、仇討ちの重圧から逃れるために遊んでいたとするドラマもあり、例えば芥川龍之介の『或日の大石内蔵助』では大石は単に仇討ちを忘れて楽しんでいただけでありながら、周囲がそれを誤解して敵を欺く計略なのだと賞賛する場面が描かれている。
大石の遊興に絡んで、大石が妾を作るエピソードが入ることもある。
例えば『仮名手本忠臣蔵』では、大星(史実の大石)は一文字屋の「お軽」を身請けしようとする(ただしこれは、仇討ちに関する密書を盗み見たお軽を亡き者にするための口実)。
講談でも大石の遊興をおさめるために、小山源五左衛門と進藤源四郎が二文字屋次郎左衛門の娘「お軽」を妾として差し出す。
また大石は狐との間に子があり、討ち入り後の養育を荷田春満に託した。この狐の子を祀るのが東丸神社であるとなっている。
池宮彰一郎の『四十七人の刺客』および『最後の忠臣蔵』においては、大石は一文字屋の可留に手をつけ、可留との間に娘の可音をつくっている。
大石は放蕩のすえ、遊女を妻にすると言い出し、本妻と離縁して実家に帰す。
大石の子供と実母もこれに付き従った。
しかし討ち入り後、寺坂吉右衛門が現れて、妻子らに大石の真意を伝える(講談「忠臣二度目の清書」、「山科妻子の別れ」など)。
史実では大石の母はこの時すでに死亡しているし、妻との離縁状にもこのような経緯は載っていない。
史実では、大石の遊蕩は山科会議の頃か妻子を実家に帰した頃から始まったとされるが、それを直接証拠づける史料は何もない。
遊興に関する史料で最も信頼できるのは『江赤見聞記』だが、ここには「遊山見物等の事に付き(中略)金銀等もおしまず遣い捨て候」とあるのみで、この「遊山見物」が誇張されて派手な遊興というイメージができあがったのかもしれない。
また祇園や伏見に出かけたという記録もあるものの、息子の主税も一緒であった。
伝説によると大石は伏見の笹屋で夕霧と親しくなり、「浮さま」と呼ばれたとされ、その証拠として大石がつくったとされる「里げしき」という唄が残っているが、これは伝説的なものにすぎない。(なお、大石は「里げしき」の最後は「うきつとめ」で終わるが、内蔵助が「うきさま」と呼ばれたとされるのはこの「うきつとめ」からきたものであろう)。
遊興にふけった動機に関してドラマなどでは大石は敵の目を欺くためにあえて遊興にふけったとするものがあるが、『江赤見聞記』は大石の遊興に関してはっきりと「宜しからざる行跡」と書いており、敵の目を欺くために遊んだとする説には与していない。
『江赤見聞記』には、吉良側の間者が大石の姿を見てもはや仇討ちの「意趣」なしと判断して引き上げたという風説が書き記されているのみである。
また大石の親類の小山と進藤がいくら諫めても聞かないので、不快に思い離反したとも記している。
しかし『赤穂鍾秀記』ではすでに大石の遊蕩が吉良方の警戒を解き、仇討ちを成功に導いたとあるし、初期の実録本である『浅吉一乱記』では千坂兵部の間者の目をごまかすために大石が替え玉に悪所通いさせた旨が記されているなど、大石の遊興を策謀とする説は早くからあった。
人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』でも大星(史実の大石)が敵をだますために、あえて遊興にふける。
なお『仮名手本忠臣蔵』における大星(史実の大石)遊興の場面は、同じく赤穂事件に題材を得た歌舞伎の『大矢数四十七本』における初代澤村宗十郎の演技を真似たものである。
以上のように大石の遊興に関しては伝説的な部分が多いが、史実でも大石は妻を実家に帰してから身の回りの世話を頼んだ京都の二条京極坊二文字屋の娘可留(かる)という妾に手を出し、孕ませている。
可留は元禄15年当時は18歳だと伝えられるが、生まれてきた子供は性別すら分かっていない。
大石は赤穂藩の藩医の寺井玄渓に可留の子供を養子に出すよう頼んでいる。
また大石は、赤穂時代にもやはり妾を孕ませていた。
村上喜剣の逸話
泉岳寺の「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた供養塔。
俗名が書いてないので誰のものか不明だが寺坂吉右衛門か萱野三平のものだといわれている。
薩摩の剣客村上喜剣は、京都の一力茶屋で放蕩を尽くす大石良雄をみつけると、「亡君の恨みも晴らさず、この腰抜け、恥じ知らず、犬侍」と罵倒の限りを尽くし、最後に大石の顔につばを吐きかけて去っていった。
しかしその後、大石が吉良義央を討ったことを知ると、村上は無礼な態度を取ったことを恥じて大石が眠る泉岳寺で切腹した。
泉岳寺には明和4年(1767年)に作られた「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓(寺坂吉右衛門か萱野三平のものだといわれている)があり、村上喜剣はこの戒名などから作られた人物だと思われる。
村上喜剣の話は江戸後期の儒者・林靏梁の『烈士喜剣伝』によって喧伝されたため、事実のごとく伝わった。
これが原因で、前述の「刃道喜剣信士」という戒名が彫られた墓はこの村上喜剣のものであると広く信じられた。
1899年には幸田露伴が村上喜剣を主人公にした小説『奇男児』を書いている。
この小説では喜剣は文弱な方向に流れる元禄の世を憂い進んで浪人する。
そして復讐もせずに腐れ死んでいる赤穂浪士に憤慨し、彼らに「神国の風俗、義に勇む人心」の回復を期待する。
垣見五郎兵衛(もしくは立花左近)の逸話
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大石内蔵助は(第二次)東下りの際に「垣見五郎兵衛」(もしくは立花左近)という変名を名乗り、江戸へと向かっていた。
しかしその途中で、本物の垣見五郎兵衛と鉢合わせする。
絶体絶命の窮地に陥った大石であったが、垣見五郎兵衛は目の前にいるのが吉良を討とうと人目を忍んでいる大石内蔵助であることを察し、大石に助力するため、垣見五郎兵衛としての通行手形を渡す。
史実では、大石内蔵助は江戸に入った際、実際に「垣見五郎兵衛」という変名を名乗っており、息子の主税には「垣見左内」という変名を名乗らせている。
しかし上述したエピソードは史実ではない。
戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、この逸話はマキノ省三監督が1912年の映画『実物応用活動写真忠臣蔵』を撮るときに歌舞伎の勧進帳を基にして役者の嵐橘楽のために作り上げたものであり、この時は「立花左近」の名称であった。
史実に合わせて「垣見五郎兵衛」の名前を用いたのは松竹の1932年版の『忠臣蔵』がはじめである。
一方宮澤誠一は大正13年発行の『講談落語今昔譚』(関根黙庵著、雄山閣)を引き、この話は講釈師の伊東燕尾(えんび)の「持ちネタ」で、のちに芝居にも脚色されたのだとしている。
燕尾は明治33年(1900年)に亡くなっているので、燕尾の講釈の方がマキノ省三の映画よりも早いことになる。
燕尾の講釈では、近衛家雑掌・垣見左内の変名を名乗る内蔵助が川崎の宿で本物の垣見左内に出くわす。
仕方なく内蔵助は本名を書いた詫書を左内に渡すが、そこに内蔵助の名を見た左内は事情を察し、詫書を内蔵助に返してこの件を不問に付す。
恋の絵図面取り
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絵図面を見る岡野金右衛門
四十七士の一人である岡野金右衛門は吉良邸の絵図面を手に入れるため、吉良上野介の屋敷の普請を請け負っていた大工の棟梁の娘である「お艶」と恋人になる。
しかし岡野はやがて本当にお艶に恋するようになり、彼女を騙して絵図面を手に入れたことに自責の念を感じ、忠義と恋慕の間で苦しむ。
討ち入り後、泉岳寺へ向かう赤穂浪士を見守る人々の中に涙を流しながら岡野を見送る大工の父娘がいた。
この話は何の根拠もなく史実ではない。
史実では堀部安兵衛、大石瀬左衛門が1つ、潮田又之丞が1つ絵図面を手に入れているが、いずれも古いのが難点であった。
浪士たちはさらに毛利小平太を吉良邸に送り込み、中を調査させている。
風説では吉良邸は討ち入りに備えて改造していたというが、小平太が調べた限りでは普通の作りだった。
この話は『赤穂精義参考内侍所』にすでに載っており、ここでは艶は吉良の用人鳥居利右衛門の娘で、その伯父が吉良邸の普請をしたので岡野は計略のために艶と親しくなり伯父に金子を渡して吉良邸の絵図面を得る。
討ち入りのあと、艶は岡野の素性を知って病気になり、岡野が切腹するとそのまま死んだ。
『赤穂義士伝一夕話』や『正史実伝いろは文庫』にもこの話は登場する。
天明8年(1788年)3月大坂北堀江市ノ側芝居で公開された『義臣伝読切講釈』(通称『忠臣連理廼鉢植』、『植木屋』)では千崎弥五郎(史実の神崎与五郎)が絵図面を取る話を伝えている。
本作では千崎弥五郎が植木屋に扮して高師直(史実の吉良)の屋敷に潜入して、女中のお高という娘と親しくなる。
お高は千崎の正体を見抜き絵図面を取る手助けをしようとするも、女中の身分では絵図面を取ることはできない。
そこでお高は変装して高師直の妾になり絵図面を手に入れる。
そして絵図面を千崎に渡したあと自害する。
なお、その前年の天明7年に義士を描いた人形浄瑠璃『廓景色雪の茶会』の第5に、おさみ(小紫)が操を犠牲に敵の屋敷から絵図面を得る場面があり、『義臣伝読切講釈』の原拠になっている。
天野屋利兵衛の逸話
仮名手本忠臣蔵十段目。三代目歌川豊国画。天川屋義平(八代目片岡仁左衛門)、矢間十太郎(五代目市川雷蔵)
町人・天野屋利兵衛は赤穂浪士に肩入れし、浪士達が討ち入りに使うための武器を調達して長持ちに保管していた。
このことが奉行の耳に入ると、奉行は利兵衛を拷問し、武器の入った長持ちの鍵を渡すように言った。
しかし利兵衛は拷問に耐え抜き、利兵衛の態度に感心した奉行は、武器の準備の件を不問に付す。
天野屋利兵衛は、大坂の惣年寄を勤めた実在の人物「天野屋理兵衛」のことだとする説もある。
しかしこの人物は赤穂藩とは無関係であるため、上記の話は史実としては疑問が残る。
松島栄一は、天野屋利兵衛が芝居で扱われたのはあるいは芝居と特別な関係にあるスポンサーだったのではないかと想像している。
また京都一条大宮鏡石町の呉服屋で、赤穂浪士を援護した綿屋善右衛門をモデルにしているとも言われる。
討ち入りのあった年である元禄15年12月に出た『赤穗鐘秀記』には町名主の「天野屋次郎右衛門」について書かれている。
次郎右衛門は赤穂浪士のために槍二十本を鍛冶に鍛えさせたことが、町奉行の耳に入り詰問されたが、白状せず牢に入れられる。
そして赤穂浪士の討ち入りの話を聞くと、初めて事実を自白したという。
その後『忠誠後鑑録或説』や『參考大石記』でもこの話は書かれ、前者では名前が既に「天野屋理兵衛」になっている。
寛延元年(1748年)8月には人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』の十段目としてこの物語は描かれている。
当時は実在の人物を芝居にするのに規制があったため、作中では「天河屋義平」という名前で登場する。
本作では捕り手たちが天河屋の息子を人質に取り、息子の喉元に刀を置いて天河屋を脅迫する。
しかし天河屋は 「天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を、存じたとは得申さゆ」といい、これを突っぱねる。
この話の落ちは、実は捕り手は大星由良助(史実の大石内蔵助)率いる四十七士がなりすましたもので、天河屋を試すためにこのようなことをしたのだという。
大星は天河屋の忠義に礼をし、討ち入りの際の合い言葉を天河屋にちなんで「天」、「河」にする。
(デンマン注:1938年製作の上の映画『忠臣蔵 (天の巻・地の巻)』では、 討ち入りの際の合い言葉は「山」、「河」である。)
俵星玄蕃の逸話
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四十七士のひとり杉野十平次は「夜泣き蕎麦屋の十助」として吉良邸の動向を探っていた。
やがて俵星玄蕃という常連客と親しくなった。
かねてより浅野贔屓であった玄蕃は、12月14日、赤穂浪士たちが吉良邸へ向けて出陣したことを知ると、ぜひ助太刀しようと吉良邸へ向かった。
両国橋で赤穂浪士たちと遭遇したが、大石には同道を断られた。
しかしその中に蕎麦屋の十助がいる。
そして二人は今生の別れを交わした。その後玄蕃はせめて赤穂浪士たちが本懐を遂げるまでこの両国橋で守りにつこうと仁王立ちになった。
文化2年(1805年)の『江戸名釈看板』の中の「雪の曙 誉の槍」に俵星玄蕃の名前が出ており、当時からこの話は有名になっていたものと思われる。
「俵星」の名は槍で米俵も突き上げるという話と「仮名手本忠臣蔵」の主人公大星由良助(大石良雄がモデル)の「星」を組み合わせたものであろう。
またこの話は講釈師大玄斎蕃格により語られており、大玄斎蕃格が創作したとされる。
大石と瑤泉院の別れの逸話
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元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』にはすでに大石と瑤泉院の別れの場面が描かれている。
『赤穂鍾秀記』によれば、瑤泉院のもとに内蔵助がやってきて「近々遠国へ行くために御暇乞いの挨拶に来た」と言い、昔のことを話して帰っていった。
去り際に内蔵助は瑤泉院お付きの侍に歌書が入っていると称する一封を渡していった。
12月15日、まだ討ち入りについて知らないうちに封書をあけると、中には瑤泉院から預かった金子七千両の使い道を書いた書類が入っていた。
天保7年 - 明治5年(1836年 - 1872年)に書かれた為永春水の『正史実伝いろは文庫』の第七回にもすでにこの話が載っている。
また明治4年(1871年)10月16日守田座初演の左団次一座による河竹黙阿弥作『四十七石忠箭計(しじゅうしちこくちゅうやどけい)』でもこの場面は描かれている。
『南部坂雪の別れ』はその後桃中軒雲右衛門の口演により浪花節の人気演目をになり、明治45年(1912年)には口演の筆記本も出ている。
さらに同じく明治45年(1912年)には立川文庫の本にもこの話は収録され、 1910 - 1917年の尾上松之助による忠臣蔵の映画にもこの場面は登場する。
また昭和13年(1938年)11月には、今日でも上演される真山青果の元禄忠臣蔵の一編として『南部坂雪の別れ』が歌舞伎座で上演されている。
戦後の忠臣蔵映画を調査した谷川建司によると、映画やドラマにおける「南部坂雪の別れ」の瑤泉院の描写は時代により変化しているという。
今日のドラマでは、瑤泉院は大石が本心を偽っていることに気づかずに大石を罵るいわば「浅はかな女」という「ネガティブな」描かれ方をされるが、これは映画忠臣蔵黄金期末期にあたる1962年に公開された『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』以降、忠臣蔵の主力がテレビドラマに移ってからの描かれ方で、それ以前の映画では、口には出さずとも大石の真意に気付く映画もあり、本心に気付かなかった詫びに討ち入り後の内蔵助に会いに雪の中を駆けつけるものもある。
今日のドラマでは大石は瑤泉院に「他家に仕官が決まった(から最後の別れにきた)」と嘘をつくものが多い。
しかし古くは町人になる(『正史実伝いろは文庫』、『四十七石忠箭計』)、大阪で小間物屋を始める(桃中軒雲右衛門の浪花節)という嘘であった。
瑤泉院に仕える「戸田の局」が登場することもあり、大石は瑤泉院にはもちろん彼女にも真意を秘密にする。
『正史実伝いろは文庫』では女中は「松島」という名前だが、『四十七石忠箭計』や桃中軒雲右衛門の浪花節ではすでに「戸田の局」という名前になっている。
また彼女が小野寺十内の妹だという設定も後者に出ている。
大石は最後に亡き殿に御焼香したいと願い出るが、激昂した瑤泉院はそれすら許さない。
すでに『元禄忠臣蔵』にこのエピソードが見える。
大石は激昂した瑤泉院から文鎮(『正史実伝いろは文庫』)や亡き殿の位牌(『四十七石忠箭計』)で叩かれる。
大石は去り際に何らかの書類をおいて帰る。
それを女中に扮して潜り込んだ吉良の間者が奪い去ろうとするも家人に見つかり、曲者として捕らえられる。
騒ぎに駆けつけた瑤泉院はこの時初めて書類を見て大石の真意を知り、先の行動を後悔する。
今日のドラマでは書類の中身は同志の連判状とするものが多い。
今日のドラマでは間者の名前は「お梅」、「紅梅」など。『四十七石忠箭計』ではすでに「お梅」の名になっている。
『四十七石忠箭計』には清水大学(史実の清水一学)が登場する。
間者のお梅は清水に大星(史実の大石)には仇討ちする気がない旨を報告し、清水は大星に直接会ってその腑抜けぶりを確認する。
南部坂雪の別れは創作である。
史実では11月29日に大石は「『金銀請払帳』を届け、討ち入りのことを瑤泉院の用人、落合与左衛門には伝えている。
ただしこれは手紙を送っただけで直接には言っていない。
また、当時瑤泉院がいた三次藩浅野家の藩邸は南部坂ではなく、赤坂今井町(現在の赤坂氷川神社)にあった。
なお、笠間藩(その前は盛岡藩。南部坂の由来)以来あった南部坂の大名屋敷は当時更地になっている。
討ち入りの際の逸話
討ち入り蕎麦
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元禄15年12月14日の深夜に四十七士が両国の蕎麦屋の二階に全員集結し、蕎麦を肴に最後の宴を開いてから討ち入りにでかけたという話。
『泉岳寺書上』には討ち入りの日に楠屋十兵衛というものに手打ち蕎麦五十人前を作らせ、義士たちが皆で泉岳寺を詣でたあとに楠屋に集結したと書かれている。
しかしこの文献は浅野内匠頭の亡霊が登場するなど怪しげな内容のものであり、偽書とされる。
また『泉岳寺書上』には「手打ち蕎麦」を食べたとあるが、「手打ち蕎麦」という言葉は宝暦以後のもので、元禄の頃は「蕎麦切り」といっていたはずである。
したがってドラマなどで見られる浪士たちが吉良を「手打ち」にする蕎麦を食べてげんを担いだとする話は史実ではない。
元禄16年3月に書かれた『易水連袂録』の「ウドン屋久兵衛口上書の事」には「ウドン屋久兵衛」の店に皆で集まりうどん、そば切り、酒肴を食べたとある。
また創作物ではあるが、『正史実伝いろは文庫』の第二十一回には、赤穂浪士二十四、五人が饂飩屋久兵衛の店に集まり蕎麦きりを食べたとある。
史実においても討ち入り前日の12月13日の夕方には同志たちで酒肴を用意して今生の暇乞いの盃を交わした。
討ち入り当日の14日は吉田忠左衛門、原惣右衛門、吉田澤右衛門ら6、7人が両国橋向川岸町の亀田屋という茶屋でそば切りなどを注文してゆっくり休息したと『寺坂信行筆記』にある。
当日の天気
忠臣蔵もののドラマでは雪が降りしきるなか討ち入りに行くものが多いが、史実では数日前に降った雪が積もっていたものの、討ち入り当日は晴れていた。
また空には月が輝いていた。
月は満月に近いが、討ち入りの時刻には月は大分西の空の低い場所にあったため、月齢から考えるほど明るくはなかった。
山鹿流陣太鼓
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山鹿流陣太鼓 (赤穂市大石神社)
討ち入りの際、大石内蔵助が「一打ち三流れ」(ひとうちみながれ)の山鹿流陣太鼓(越後流の働事太鼓)を打ち鳴らす、というもの。
討ち入りの際太鼓を打ち鳴らしたという俗説は、浪士切腹後二か月で世に出た『易水連快録』にすでに載っており、他にも『浅野仇討記』や『泉岳寺書上』にもこの話は載っている。
「仮名手本忠臣蔵」は暦応元年(1338年)の設定なので、当然、室町時代に山鹿流は出現しておらず「陣太鼓」の記述はない。
四十七士側の史料である『人々心覚』、『寺坂信行筆記』、『富森筆記』には、笛や鉦を持参した話は載っているが、太鼓を用意したとは書かれていない。
現実問題として、太鼓を叩いては奇襲が意味をなさなくなるので、浪士たちは太鼓を叩いていないであろう。
しかし吉良義周の口上書には赤穂浪士が「火事装束」で「太鼓」などを叩いて切り込んできたとあるし、上杉家の資料や『桑名藩所伝覚書』、『浅野浪人敵打聞書』などにも太鼓について触れられている。
当時太鼓といえば火事を連想するものであったので、火事装束のような姿で侵入した浪士たちに気が動転する吉良側が扉を打ち壊す際の音を火事太鼓と聞き間違えたのではないかと宮澤誠一は推測している。
史実としては山鹿素行の山鹿流は朱子学を基礎に哲学を主とし政治学や陰陽思想を加えたもので、実際の兵法は二次的なものにすぎないという意見もある。
また、押太鼓というのは広い戦場での合図のために用いるため、川中島絵巻や屏風(山鹿流では「車懸りは敵方の備え立て三段四段なるに用ふれば功大なり」と記す)に描かれているような「長胴太鼓」で非常に大きい。
とても一人の人間が左手だけでぶら下げて持てるものではない。
また、実践では大将は指図はするが、自分で太鼓を叩いたりはしない(「旗本や諸手の可作法の事」)。
赤穂義士側の史料では討ち入りでは「太鼓はなく鉦が鳴らされた」と書かれている。
装束
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討ち入り装束に身を包む箭田五郎左ェ門(史実の矢田五郎右衛門)。歌川国芳画
討ち入りの際、四十七士は全員、服装を黒地に白の山形模様のついた火事場装束のような羽織に統一した、というもの。
史実では11月初めの覚書ですでに「黒い小袖」に「モヽ引、脚半、わらし」に決まっており、あとは思い思いの服装でよかった。
全員が一様であったのは定紋つきの黒小袖と両袖をおおった合印の白晒くらいである。
衣類の要所要所には鎖を入れて防備を固めた。
全体として火消装束に近いスタイルであったが、人生最期の晴れ舞台であったこともあり、火事装束よりはもっと派手だった。
火事羽織からの連想からか元禄16年に書かれた『赤穂鍾秀記』ではすでに「黒い小袖」が「黒い羽織」に代わっている。
黒地に白の入山形は宝永7年(1710年)6月の『鬼鹿無佐志鐙』に原型があり、『仮名手本忠臣蔵』で広く知られるようになった。
浪士の名前を書いた左右の白襟は片島武矩の『義士伝』に端を発し、幕末の浮世絵師の一勇斎国芳画『誠忠義士伝』で形作られ、明治にかけて一般化した。
大野九郎兵衛
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誠忠大星一代話九。下は大星(史実の大石内蔵助)、上は小野九太夫(史実の大野九郎兵衛)。左上の説明よれば、「臆病の首魁」である小野は城引き取りの際、藩の用金を多く受け取り銀札引き換えで町人から余金を受け取ったが、「不忠の天罰」で乞食になり果てた。
芝居などで悪名高い大野九郎兵衛は実は逃げたわけではなく、大石が吉良を討ち漏らした場合に備え、米沢藩へ逃げ込むであろう吉良を待ちうけて山形県の板谷峠に潜伏していたという逸話がある。
明和6年(1769年)にたてられた板谷峠近くの馬場の平に残る大野九郎兵衛の供養碑にその旨を記載されている。
峠に隠れ棲むも「吉良方に斬殺された」、あるいは「討ち入り後に自害した」など複数の由来伝承がある。
また群馬県安中市には、その周辺にある吉良家の飛び領地に上野介が逃れてくると予想して、大野が手習い師匠をしながら潜伏していたという伝説がある。
山梨県甲府市東光寺町の能成寺には、大野九郎兵衛が甲府藩主である柳沢吉保を頼って甲斐に移り住んだという伝説がある。
伴蒿蹊の『閑田次筆』に次のような逸話が収められている。
大野九郎兵衛は赤穂を出奔するとき、娘を置いて逃げた。
置いていかれた娘は、父・九郎兵衛が出奔したのは、敵を欺くための計略だろうと信じていた。
しかし赤穂浪士たちの討ち入りについて記した瓦版を読んでも父の名はなく、打ちひしがれて寝込んだ。
この娘の夫・梶浦は事態を知り、「九郎兵衛の娘と連れ添っているのは武士の道にもとるので、お前とは縁を切る。
行くところもないだろうから裏の隠居所で暮らせ」と言う。
娘に罪があるわけではないので、夫の梶浦は妾を持つこともなく、やもめとして一生を終えた。
『赤穂義士伝一夕話』にも同じ話が載っている。
史実においても大野九郎兵衛は出奔の際娘や荷物を置いていった。
荷物は没収されたが困窮した九郎兵衛の申し出により後で返還された。
その後の九郎兵衛の消息は不明だが、名を変えて世を忍んでいたという伝承がある。
梶川与惣兵衛
梶川与惣兵衛は浅野内匠頭の刃傷に立ち会い、吉良に斬りかかる浅野内匠頭を抱きとめ、それがために内匠頭は吉良を仕留めそこなった。
これは神妙ということで公儀は与惣兵衛に加増した。
一方、やはり刃傷に立ち会った坊主の関久和(せききゅうわ)は内匠頭の小刀を奪い取ったとしてやはり公儀から加増を仰せつけられたが、久和はこれを断った。
あとで考えてみれば内匠頭の無念を慮って吉良を討たせるべきだったと久和は後悔していたのだ。
こうした久和を見た周囲は久和のことをほめたたえたが、一方の与惣兵衛の名は地に落ちた。
浅野内匠頭の不幸が原因で加増されたのに、これを断らなかったからである。
皆は与惣兵衛、が家にくると、仇討ちで有名な『曽我物語』の富士の巻狩りの場面を描いた掛け軸をかけ、与惣兵衛を説教した。
富士の巻狩りの掛け軸攻めに懲りた与惣兵衛は、早々に隠居した。
隠居後、与惣兵衛は、隣家の下僕に化けた四十七士の一人大石瀬左衛門に討たれて最期を遂げる。
出典: 「忠臣蔵」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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この話は、とにかく映画や、講談、歌舞伎、人形浄瑠璃、義太夫、浪曲としてこれまで伝えられてきたので、面白くするために、いろいろな脚色がなされ、作り話が入りこんできたのですよ。。。
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