地方公設試験研究職を勤めあげ?、70歳ころまで溶接技能検定にタッチすることができました。間質性肺炎に悩まさる欲張りです。
ゆうゆう職場



父によると祖母は養蚕が巧かった。そのおかげで貧農の家には十分な副収入となったらしい。私が小学校にあがるか上がらない頃まで、祖母と一緒に寝る(お婆さんっ子だった)仏間の隣の南の間には蚕が居た。棚のお蚕さんが桑の葉を巡る(あるいは食する)にザザザッと低い音を立てたのを覚えている。ただし、布団の中で耳にしたのか昼間のことか定かでない。保温に焚く練炭の匂い・ホルマリン消毒の匂いは脳裏に残っている。練炭の一酸化中毒にならんほどに隙間があったのかしら・・・蚕棚、蚕さんが育つ丸く平らな笊?や桑の葉を入れたブリキ底の木枠 などなどがあったが、とおぉの昔に全てをうっちゃた。今も残るのは、60年以上も前に桑の葉を摘んだ畑の耕作を繰り返しても、丈夫なゆえに残る黄土色の根から桑の若木が生えだすこと。
 ここで父の言葉を想い出した。笊から落ちる蚕さんの生育は駄目だったらしく、愛らしい燕の雛と似ておるなぁ と。

 BS放送で養蚕の歴史が紹介されたのを観、以上の記憶を書いた。以下、放送内容を含めほぼコピペ。かいつまんでいえば二つの戦役に勝利するほどの明治日本の近代化に養蚕の発達は大きく寄与した。
 シルクロードが示すとおり、中国では古くから生糸の生産が行われた。日本産の品質は中国産に遠く及ばず、江戸期中期?頃まで高級絹製品は中国からの輸入に頼るしかなく、八代将軍吉宗は貿易収支改善のために国内での生糸生産を推奨した。そのころ兵庫・養父郡で育った上垣守国が養蚕発展の志を立て、各地を巡り福島に優れた蚕種(蚕さんの卵・・・扱い店は種屋と呼ばれた)を見つけ、各地の優れた養蚕法を調べ上げ、のちにシーボルトが持ち帰り例えば仏語訳本にまでなった「養蚕秘録」を公開した。図解が豊富でたちまち広まったとのことである。広めたのが養父郡だけでないのがエライ。

 ただ、養蚕室の温度管理はお蚕の生育に極大切で、蚕室を適温に保つ必要があった。福島・伊達郡の中村善右衛門 が江戸末期、寒暖計の原形を菜種油を使って造り上げた。風邪で臥した中村に医者が用いた体温計からヒントを得たと放映された。拝借写真は明治初年頃に蚕当計(さんとうけい)と呼ばれた寒暖計。このようにし養蚕技術が着々と発展し、ついには明治5年の渋沢栄一による富岡製糸工場へと繋がり、1909年には生産高世界一を達成するにまでなった。ただ、第二次大戦以前から我が国の養蚕業は衰退し始めたようで、私の記憶の蚕さんは末期だったのですなぁ~おばあさん、ありがとう。
 (付記)我が市内には元製糸工場が残っており、幼い私も連れられて湯の中に泳ぐ繭玉を見せられた記憶がある。工場を興し財を成したT氏は、市中に数多くの道標石碑を建てられた。里山散策でも思いもかけず見かけることがあった。彼の孫は県議、市長に就いた。ここまで書いてまた思い出した。父が自分の祖父を語るに、繭を入れた籠を担いで四日市西部の八王子地区にあった製糸工場まで歩いたとのことである。20kmは越えるであろう。ありがたし、ご先祖様。






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