神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

自らの意志で泥沼へ嵌まっていく人々。

2019年01月22日 | キリスト教
【キリスト昇架】ピーテル・パウル・ルーベンス


 >>私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
 どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
 私はあなたの仰せを忘れません。

(詩篇119編、176節)


 旧約聖書を要約すると、神さまに選ばれた民イスラエルの、その選んでくださった神に対する背信史といっていいのではないでしょうか

 もちろん、中には神さまの言葉を預かった預言者の言葉に聞き従い、神さまからの祝福を受けた王やその時代の民衆たちもいましたが、それよりも圧倒的に多いのが、神さまからの言葉があったにも関わらず、自分自身の行きたい道へ進んでいって滅びるというパターンなんですよね

 こう書くと、普通思いますよね(^^;)それが「真実本当の神からの」メッセージであるなら、自分ならその通りにして聞き従うなあ……みたいに。。。

 でも、旧約聖書全体を読むと、奴隷とされていたエジプトの国から脱出したその後の経過を見ても――自分自身とこの時代を生きた人々とを置き換えた場合、「わたしも聞き従えない側の人間だったんじゃないだろうか」と思いますし、イスラエルに立てられた王の多くが、神さまの言葉を預かった預言者の言葉に聞き従えないで終わったように……わたしがその時代の王さまでもそうだったかもしれないな……と思ったりするのです(^^;)

 こうして最後、イスラエルの民(ユダヤ人)は、他の国に征服され、最終的に世界中に散り散りにされてしまうのですが、それもまた聖書の預言の通りであり、このユダヤ人の人々は、新約聖書後の時代においては、「主イエス・キリストを十字架にかけた民族」として、あらゆる国で迫害されるという運命を辿ります。

 けれど、旧約聖書にはこの「はなはだしい民の不信の罪」に対するこうした裁きののち、回復の時が来ると言われていて、それもまた1948年イスラエルの国が建国された時、旧約聖書に書き記されているとおり成就したと言っていいのではないでしょうか。

 ところで、今回のタイトルは「自らの意志で泥沼に嵌まっていく人々」なのですが、旧約聖書というのは遥か昔から続くイスラエルの歴史書というだけでなく、読んでいて「現代のわたしたちにも十二分に当てはまる、生きた歴史書」でもあると思います。

 神さまの言葉があっても、聞き従うことが出来なかったイスラエルの国の王さまや民の指導者たち、また、こうした人々の子孫である新約時代のユダヤの人々がイエスさまのことを十字架にかけたように(彼らは「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい」(マタイの福音書、第27章25節)とその時言ったのですが、事実そのように歴史は動いていきました)、わたしたちも自ら選んだ道によって、つまりは自らの意志によって人生の泥沼に嵌まっていくということがありますよね(^^;)

 そして、そのわたしたちがおのおの自分自身の勝手な罪の道へ進んでいくのを……救ってくださるために、イエス・キリストはこの地上へやって来られました。


 >>わたしたちの聞いたことを、だれが信じたか。
 主の御腕は、だれに現われたのか。

 彼は主の前に若枝のように芽生え、
 砂漠の地から出る根のように育った。
 彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。

 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病いを知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。

 まことに、彼は私たちの病を負い、
 私たちの痛みをになった。
 だが、私たちは思った。
 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

 しかし、彼は、
 私たちのそむきの罪のために刺し通され、
 私たちの咎のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

 私たちはみな、羊のようにさまよい、
 おのおの、自分かってな道に向かって行った。
 しかし、主は、私たちのすべての咎を
 彼に負わせた。

(イザヤ書、第53章1~3節)


 このように、イエスさまがわたしたちの罪咎のすべてを背負ってくださったからこそ……わたしたちにも神さまの愛がわかったのです。十字架の刑罰というと、手足を紐で括られ木の十字架に磔にされているといったイメージがあるかもしれません。ですがこれは、映画などの描写にもあるとおり、手足を釘で打ち抜かれ、十字架に<上げられる>という非常に残酷な刑罰なのです。

 まず、全体重をその釘で打ち抜かれた手足で支えるわけですから、体はどうにか上へ上がろう、上がろうとする……この過程により、まずは両肩が脱臼します。そして、次には呼吸がより一層苦しくなり(こうした形で手足を固定され、吊るされると息を吸ったり吐いたりすることが難しくなる)、最後は呼吸困難になって死へと至るわけです(窒息死)。(※参考記事=「赤毛のアン-【3】-」)

 この十字架刑はあまりに残酷すぎるということで、のちに廃止されたそうですが……イエスさまがこの地上へやって来てくださったのは何より、この苦しみを経験されるためでした。そして、イエスさまがこの苦しみの極みを経験されたからこそ、イエスさまの十字架の血潮を信じるすべての者が天国へ行けるという道、父なる神のご計画の道が開かれることになったのです。


 >>彼は痛めつけられた。
 彼は苦しんだが、口を開かない。
 ほふり場に引かれて行く小羊のように、
 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
 彼は口を開かない。

 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
 彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
 彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
 生ける者の地から絶たれたことを。

 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
 彼は富む者とともに葬られた。
 彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。

 しかし、彼を砕いて、痛めることは
 主のみこころであった。
 もし彼が、自分のいのちを
 罪過のためのにけにえとするなら、
 彼は末長く、子孫を見ることができ、
 主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 彼は、自分のいのちの
 激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう。

 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、
 彼は強者たちかを分捕り物としてわかちとる。
 彼が自分のいのちを死に明け渡し、
 そむいた人たちとともに数えられたからである。
 彼は多くの人の罪を負い、
 そむいた人たちのためにとりなしをする。

(イザヤ書、第53章1~12節)


 イエス・キリストは、きのうも今日も明日も一緒であり、また神さまの愛も永遠不変のものです。

 そして、自分勝手な道へ向かってさまよい、その心が暗くなっている人々を、主イエスは常に求めておられます。あなたが今嵌まっている人生の沼が何かありますか?また、そのような泥沼に嵌まっていたとして、それは足の膝あたりまで漬かっているくらいのものか、それともまだ自分の力でどうにか出来るくらいのものでしょうか?それとも、いまや胸のあたりまでどっぷり漬かって、いずれ頭の上まで来るとわかっているがために絶望しているくらい深いものですか?

 もしそのような苦しみの最中にあるとしたら、どうか主イエスに救っていただいてください。>>「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれた」(ローマ人への手紙、第5章20節)と聖書にあるとおり、イエスさまはそのような方を救うためにこそ地上にやってこられ、あれほどの苦しみを受け、耐え抜いてくださったのですから。この方に自分の苦しみ・つらさ・苦難のすべてを預ける時――魂に安らぎのくるのを体験することが出来ます。


 >>すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

(マタイの福音書、第11章29~30節)


 >>彼のむさぼりの罪のために、
 わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
 しかし、彼はなおそむいて、
 自分の思う道を行った。

 わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。
 わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
 慰めを報いよう。

(イザヤ書、第57章17~18節)


 また、神さまは人間の本性といったものをよくよくご存じでもあられました。


 >>人の心は何よりも陰険で、
 それは直らない。
 だれが、それを知ることができよう。

 わたし、主が心を探り、思いを調べ、
 それぞれの生き方により、
 行ないの結ぶ実によって報いる。

(エレミヤ書、第17章9~10節)


 けれども、このような人間の罪という罪を知り抜いていればこそ、神さまは御自身の愛の計画として、御子イエスを地上に遣わしてくださったのです。

 ただし、このエレミヤ書の少し前の箇所には実におっそろしー御言葉があってですね、そこにはこうあります(^^;)


 >>主はこう仰せられる。

「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、
 心が主から離れる者はのろわれよ。

 そのような者は荒地のむろの木のように、
 しあわせが訪れても会うことはなく、
 荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

 主に信頼し、
 主を頼みとする者に
 祝福があるように。

 その人は、水のほとりに植わった木のように、
 流れのほとりに根を伸ばし、
 暑さが来ても暑さを知らず、
 葉は茂って、
 日照りの年にも心配なく、
 いつまでも実をみのらせる」
 
(エレミヤ書、第17章5~8節)


 申命記などを読むと、神に聞き従った時の祝福、聞き従わなかった時の呪いの言葉がそれぞれ語られているわけですけれども、悔い改めることなく神さまへの不従順の罪の道をあくまで選び続けるなら――>>幸せが訪れても会うことはない。という、実に苦しく厳しい道を通らされることになるわけです。

 けれども、悔い改めて主イエスが十字架で流してくださった血潮の力を信じるなら、こうした罪の泥沼に口許まで溺れていても……イエスさまがその泥沼から救いだし、御自身の永遠のいのちの水によって清め、洗ってくださるのです。


 >>私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。

「あなたのために、私たちは一日中、
 死に定められている。
 私たちは、ほふられる羊とみなされた」

 と書いてあるとおりです。

 しかし、私たちは、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

(ローマ人への手紙、第8章35~37節)


 主イエスは、泥沼に嵌まってあとは沈んで死ぬばかりとなっている滅びる羊のためにこそ、この地上へ来られ、その十字架の御業をわたしたちのために成し遂げてくださいました。

 それはわたしたちが悔い改め、どこにも傷のない、清い者として神の御前に立たせてくださるためでした。本来なら、わたしたちはこのような主の愛に相応しい者ではありませんでした。けれども、わたしたちが何か善行を積み上げたからそれに応じてそれなりの物を与えよう……というのではなく、神さまは御自身の愛に相応しくない者や、小さくて弱く罪に溺れやすい者、自暴自棄になっている者、暴力を振るい、人をののしる者――そうしたすべての人に御自身の愛が及ぶようにしてくださったのです。

 主の愛の網に捕えられましょう。そして、そのように泥沼から救われたあとは……神さまの愛があなたを待ち受けているのですから!

 それではまた~!!





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