神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

舟の右側に網をおろしなさい。

2025年02月01日 | キリスト教

【奇跡の漁り】(コンラート・ヴィッツ)

 

 >>イエスは彼らに言われた。

「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」

 そこで、彼らは網をおろした。

 すると、おびただしい魚のために、

 網を引き上げることができなかった。

 

(ヨハネの福音書、第21章6節)

 

 聖書のこの箇所については、大体違う牧師さんより、同じ解釈のお話を聞いたような記憶があります

 

 つまり、ペテロといった弟子たちは漁師で、ガリラヤ湖というのは彼らが普段から漁をしている縄張りのような場所であり……漁師のプロである彼らがそれまで漁をしていて一匹も取れなかったということは、もう一度舟を出して「右側に網を下ろした」ところで魚なんて取れるはずがないわけです。

 

 けれど、ペテロたちがイエスさまの言ったとおりにした時、網は引き上げることが出来ないほどの魚で満たされました。昔もそうだったでしょうが、実際のところ今でも漁師をされている方にはそれぞれ自分なりのやり方があって、そこへ漁の素人としか思えない人がふらっとやって来て「こうこうこうしてみろ」なんて言ったら――絶対と言ってもいいくらい聞かないと思うんですよね(^^;)

 

 ペテロたちがイエスさまに聞き従えたのは、そもそもイエスさまが「普通の人でない特別な何か」をお持ちであるように感じたせいもあったのかもしれません。そしてわたしたちも大体、特に自分が「得意分野だ」と感じることに関して、自分なりのやり方があって、たとえば「~~大学の教授」であるとか、その道の権威の人の言うことであればそれでも聞き従えるかもしれませんが、そうでもない限り……「なんでこんな素人のいうことをまともに取り合わにゃならんの」といったような感じになるのではないでしょうか。

 

 そしてこの時問題だったのは――この「~~大学の教授」の立ち位置にあるのがおそらく、イエスさまに最後まで聞き従えなかったパリサイ人といった宗教権威者たちだったと思うわけです。

 

 >>まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。

 

 良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。

 

 わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。

 

 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。

 

 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。

 

「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです」

 

 しかし、イエスは答えて言われた。

 

「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。

 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです」

 

(マタイの福音書、第12章34~40節)

 

 簡単にいえば彼らは、ペテロたちイエスさまに聞き従うことが出来た弟子たちとは違い、「ずっと左側に網を下ろすことにこだわり続けた」人々でした。その結果、その後も魚が本当の意味で一匹も取れなくとも、自分たちが宗教権威者として偉く見えることのほうを大切にしたという、非常に不幸な人々でもありました。

 

 イエスさまは彼らを「まむしのすえ」と呼びつつ、聖書に書かれたことが成就するためにはこのような自分の教えに逆らう人々も必要だということをよく理解しておられました。そして、彼らのせいで十字架にかかることになったにも関わらず、>>「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカの福音書、第23章33~34節)と言って、お赦しになられたのでした

 

 >>神の賜物と召命とは変わることがありません。

 ちょうどあなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は、彼らの不従順のゆえに、あわれみを受けているのと同様に、彼らも、今は不従順になっていますが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです。

 なぜなら、神は、すべての人をあわれもうとして、すべての人を不従順のうちに閉じ込められたからです。

 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。

 なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。

 また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。

 

(ローマ人への手紙、第11章29~36節)

 

 わたしも、「左側に網を下ろすのがこの場合常識でしょ」とか、「まわりの人の目もあるし、みんなと同じように左側に網を下ろそう」といった価値観のほうが勝ることもありますが、でもイエスさまが語られた時に右側に網を下ろすには間違いなく「時とタイミング」があるんですよね(^^;)

 

 つまり、イエスさまが語られていない時に「右側に網を下ろす」ことをしても何も取れないことというのはあるわけで、ペテロたち弟子にしても、イエスさまが語られた時にすぐ言うとおりにしたからこそ、はちきれんばかり網に魚が取れたわけです。けれど、その時すぐ行動を起こすでもなく、三日とか一週間経ってから「やっぱりあの方の言葉が気になる」として「右側に網を下ろ」しても何も起きなかった――という、自分で「時やタイミング」を逃すという失敗をすることは誰しもあると思います

 

 けれど、イエスさまにそのことを祈ると、第二案と言いますか、第一案に聞き従えなくても、そのことを悔い改めて再び聞き従う時、イエスさまは必ず道を開いてくださいます。わたしはこの種の失敗がすごく多いタイプの人間(信仰者)ですが、今までにもしわたしが百回くらいこういった間違いを繰り返していたとしても、イエスさまはまたもう一度最初からやり直すことを……辛抱強く導いてくださる、本当に愛と恵みに満ちた方だと思います

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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