神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

健康について。

2024年12月14日 | キリスト教


 先日、とあるラジオで次のようなお話を小耳に挟みました。

「健康っていうのは、健康な時にはそのことを有難いともなんとも思わないでしょ?でも、体のどこかに常に痛みがあるとわかる。その今まで当たり前のこと、普通と思ってきたことが、いかに当たり前でなく有難いことか……」

 確かに、そうなんですよね。しかも、自分の体のどこにも痛みがない時の「比較」においても、精神的に自分がよりみじめだと感じたり……とはいえ、手術などを通してこの痛みや不快な何がしかが遠ざかり、「よし、これからは健康に気をつけるぞ!!」という大いなる決意をしてさえ――人間というのは喉元すぎればなんとやら、再び暴飲暴食とまではいかなくとも、カップラーメンやスナック菓子、カロリーの高い脂ぎったハンバーグ定食を夜中に食べるような生活へ戻ったりと、こうしたことは周囲の家族や友人が何か言って止めるというのは難しかったりするんですよね(^^;)。

 こうしたことは時に「生きるか死ぬかの経験をしたにも関わらず」、人がそうした生活に逆戻りし、「これからはお酒は控えるって言ってたじゃないの」とやんわり言っても「あ~、わかってるわかってる」といったような、ほとんど馬耳東風というか、本人の決意次第なので家族にもどうにも出来ない部分があると思います。

 もちろん、クリスチャンの方は身近な人の病気からの快復などについて、おそらくほとんど誰かしらのことについて日常的に祈ってる場合が多いと思います。「お父さんが食べるだけ食べても太りませんように」とか、「お母さんがカップラーメンやポテトチップスばかり毎日食べてても、血圧が上がりませんように」など、かなりのところ無理なお願いをイエスさまにしていることすらあるかもしれません。

 いえ、それどころか、「△□さんの末期がんが癒されますように」とか、「左半身麻痺が癒されますように」とか、「白血病から完全に解放されますように」など、たぶんお医者さんが聞いたら「いや、現代医学というものにも限界というものがあってですね……」とまごつくこと間違いなしの無茶なお祈りというのもよくしているものだと思います。

 イエスさまに祈る場合において、「流石にそこまでのことを祈るのは図々しいのでは?」というくらい、大胆に毎日お祈りしていても、何ひとつとして一切問題ありません。もちろん、ウクライナやイスラエルにおける紛争が最善の形によって終結しますようにとか、わたしがもしひとりで祈っていても、ひしゃく一杯分の水がごうごうと燃え盛る炎にほんのちょっとかかったくらいのものだと思います。それどころか、害さえ受けることさえあります。「せめても祈って援護しよう!!」との心意気によって祈っているにも関わらず、むしろこちらの衣服に火が飛んできて火傷するなど、実際信仰あるあると思います。

 にも関わらず、クリスチャンという連中はしつこいので、やはり継続して祈り続けようとするのです。むしろ、向こうがやり返してきたということは、「これは御心の祈りであればこそ我々は攻撃されたのだ」ということで、より祈りその他の行動においても熱心になったりと、悪魔(サタン)は人間を不幸にするという領域においてやはりしつこいですから、「秘儀!しつこい返し!!」とばかり、やはり祈り続けるわけです。


 >>悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
 足には平和の福音の備えをはきなさい。
 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

(エペソ人への手紙、第6章11~18節)

 

 さて、健康についてですが、肉体的にも精神的にも「人間、何で癒されるかわからない」と思ったりします。もちろん、病気や病気に対する疑いがある時、わたしたちはみんな基本的に病院へ行きます。また、事なきをえた場合でも、「適切な食事と適度な運動」が必要とわかっていても――わたし自身、とても難しいなあと感じることが多かったり

 

 人間は習慣の動物とはよく言ったもので、わたし、朝はパン食な人なんですけど、「健康のことを考えたらごはんにすべき!」とは一応わかってはいるわけです。他に、食品を選ぶ時に以前はあまりチェックして来なかったこと、塩分がどの程度かなども必ず見るようになりましたし、同じチョコレートでも「チョコレート効果」みたいなちょっと高めのを買うとか、あくまでちょっとした変化によってそれでも結構変わった……くらいのことをしているに過ぎなかったするんですよね

 

 でも、こうして文字に書いてもみたことだし、「食べるものでこんなに変わる!」といったように感じてもいるので、もう一段階何か食生活を変えねば……と思ってもいたり(^^;)

 

 やっぱり、まずは祈りの中でイエスさまにお願いするのが一番でしょうか。とりあえず、エコー検査で二年前に病気がわかった時と横ばい状態で悪化はしていない――ということだったので、それだけでも神さまに大いに感謝&賛美です

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


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