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今読んでいる本の中に、「紙切れでちょっと手を切った程度では人はそれをそう深刻な傷とは考えない。けれど、その小さな傷が全身に千もの傷を作っていたら、靴を履くにも歯を磨くにも、その他何をするのにも、生活に支障が出てくるだろう」……みたいな文章がありました
それで、この文章から連想的に、「そうだよねえ。ひとつひとつのストレス自体は紙でちょっと切った程度のものでも、それが十も二十も三十も一度に積み重なったら、『自分はなんて不幸で惨めな人間だろう』みたいに感じるものなんじゃないかなって思ったんですよね。
たとえば、朝起きて小指をタンスの角にぶつける、昨今高い卵を焼いてたら、ちょっと目を離した隙に焦げた
、外出先で雨がザーザー降ってきたけど、こんな時に限って傘がない
、上司に叱られたあと、偶然給湯室で同僚が自分の悪口を言っているのを小耳に挟んだ
……などなど、ひとつひとつはなんか小さなストレス。でも、百や千とまでは言わなくても、一日にこんなことが連続して十回も起きたとすれば、猫背になりつつどよ~んと暗い顔して家路に着こうというものです。。。
でも、最低でも一年に一回とか、たま~にそんな運の悪い日はあるような気がするし、その逆に「今日はなんか調子いいなあ。るんるん♪」なんて思える日も、バッドディの代わりに存在してそうな気もします。
まあ、ここはマーリン・キャロザース先生の「(神さまに)いいことも悪いことも感謝する」ことを実践していると、最初は悪いと思ったことも最後には良きことへと変えられていき、益となる……みたいなことを何度も書いてきてるので、対処法としてはそうしたことなんですけど、実は今回書きたかったのはそちらではなく(^^;)。
わたしも過去に、千の小さな切り傷を受け、そんなストレスに耐えつつ、自分をカワイソウとか感じて生きていた時期があったような気がします。まあ、こんな書き方をすると自分の感じ方や考え方次第で「千の切り傷をもものともしない人間性が練り上げられることこそ大切なのだ」という結論が連想されそうなんですけど……わたしの割と身近にいらっしゃるのです。本人がまったく悪いわけでもないのに、ある種の運の悪さによって、周囲のありとあらゆる人々のストレスの害を受けまくって千の切り傷にもみくちゃにされてるような、そんな方が。。。
水は低きに流れると言いますか、善良で優しい人ほど、上からストレスという毒を流してくる人の害を受けやすい。しかも本人が善良なので、その毒水の濾し方みたいなものを覚えるのにも時間がかかり、案外このあたりは本人よりも周囲の人のほうがそれと気づいて、毒の害を受けないためにこうしたほうがいいと教えてくれたり、堤防みたいなものを害を与える人との間に築いてでもくれない限り、その方は決して救われない……ということが本当にあるんですよね。
少し知的障害のある方や、身体障害のある方などで、悪意ある後見人のような人に捕まってしまい、実はお金を絞り取られている……でも御本人が相手を信頼しきっているのでなかなか難しいといったケースを見たことが昔ありました。また、他に両親や旦那さんなど、割と身近にいる人が毎日ちょっとずつ毒を水に混ぜてくるような人たちだった――ということに、随分あとになってから気づくであるとか、あると思うんですよね。。。
毎日、受ける傷は紙で切った程度のものでも、それが百にも二百にも蓄積されるといずれは満身創痍ということになります。しかも、ひとつひとつの傷は小さなものなので、本人は「このくらい耐えなくちゃ」といったような、間違った対処法を実践しており、さらに周囲の人々も「そんくらい努力でなんとか出来るって!!
」と間違った励まし方をすることさえある。
こうした種類のご本人にしか決してわからない苦しみや悩みといったものがあり、そうした時に宗教に縋ってまた騙された……といったことが、本当にあるのだろうと思っています。ここはキリスト教について何か書くといったブログなので、その時点でちょっと問題あるような気もしますが(汗)、とにかくわたし自身はイエス・キリストと出会って色々な意味で解放されたと思っています。
ええと、キリスト教を名乗る色々な宗教がありますので、そのあたりは間違いなく見分けが必要なのですが(教会と呼ばれる場所であればどこも健全で問題はない、ということはないという意味で)、「千の深刻な魂の切り傷をも癒してくださる癒し主」という意味で、イエスさまの御名は偉大であると信じています。
>>私をいやしてください。主よ。
そうすれば、私はいえましょう。
私をお救いください。
そうすれば、私は救われます。
あなたこそ、私の賛美だからです。
ああ、彼らは私に言っています。
「主のことばはどこへ行ったのか。
さあ、それを来させよ」
しかし、私は、あなたに従う牧者となることを、
避けたことはありません。
あなたは、私のくちびるから出るものは、
あなたの御前にあるのをご存じです。
私を恐れさせないでください。
あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。
私に追い迫る者たちが恥を見、
私が恥を見ないようにしてください。
彼らがうろたえ、
私がうろたえないようにしてください。
彼らの上にわざわいの日を来たらせ、
破れを倍にして、彼らを打ち破ってください。
(エレミヤ書、第17章14~18節)
>>今、見よ。わたしこそ、それなのだ。
わたしのほかに神はいない。
わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出せる者はいない。
まことに、わたしは誓って言う。
『わたしは永遠に生きる。
わたしがきらめく剣をとぎ、
手にさばきを握るとき、
わたしは仇に復讐をし、
わたしを憎む者たちに報いよう。
わたしの矢を血に酔わせ、
わたしの剣に肉を食わせよう。
刺し殺された者や捕われた者の血を飲ませ、
髪を乱している敵の頭を食わせよう』
(申命記、第32章39~42節)
この文脈でいくと、傷つけるのも癒すのも神である……ということになってしまうとは思うのですが、明らかに他の誰かが悪くて傷ついたという場合もあれば、なんらかの人間関係の誤解やすれ違いによってそうなったこともあるでしょうし、リストカットといった自傷行為でなくても精神的に自分を傷つけるのをやめられない、色々な運の悪さ、自分ではどうにも出来ない運命の坩堝に放り込まれ、そこをぐるぐる回り続けるしかない――などなど、救い得るとしたら、癒しうるとしたら、それは神以外にはありえない……ということが、人生には本当にあるものだと思っています。
また、日々の千の切り傷に対しても、それが千ほどでなくても、「一日に最低二~三回は、精神的に紙で手を切ったような思いはするもんだし、みんなそんなもんなんじゃないの?」といったことがある場合、イエスさまを愛し感謝し、恵みを注いでいただけることには本当に意味があります。
そうした時に「こんなの掠り傷だ」と思うでもなく、変に自己憐憫に陥るでもなく、「イエスさま、今こんな嫌な思いをさせられました!でも感謝します。この傷のゆえにあなたを愛します」と信仰告白していくと、人生が本当に変わっていくと思います。
それがどんな小さな、人の目には「馬鹿ばかしい」ように見える小さな傷でも、一回一回イエスさまの元に持っていく時、聖霊さまが働いてくださって、必ず助けてくださいます。「ひとつひとつは紙で切ったような小さな傷ですが、こうしたことで自分は困っています。助けてください」とありのままを神さまに申し上げましょう。
わたしたちがもし「自分ひとりだけで我慢しよう」とか「耐えよう」と思う時にも、聖霊さまがそれと察して働いてくださることもよくありますが、それ以上に「具体的に信仰を使う」ことのほうをイエスさまは喜ばれると思います。そのひとつが祈りの中の「告白」ということで、キリスト教で「告白」と聞くと、罪の告白や懺悔といったことがまず連想されますが、そうしたことの他に「自分はこう思っていてああでこうでそうなんですうっ!ぴえ~ん!!」的なこともどんどん告白していって大丈夫なのです。
イエスさまは御自身を信じる者に恵み深くあられ、「タンスの角に足ぶつけただって?朝っぱらからこの私にそんなくだんないこと祈ってんじゃないよ」とか、「卵を出来るだけ安く手に入れたいだって?そんなもん、農家さんのほうがおまえなんかよりよっぽど困ってるよ。おまえのどうでもいい願いごとより、他に困ってる人から順番に癒していかないとね
」……といったようにではなく、神さまの真に偉大なところは、祈るなら、信仰を使うなら、どちらも同時に癒してくださり、農家さんも助かれば、わたしたち消費者も同時に助かる――何かそうした形で取り計らってくださるということなのです。
でも、これはちょっとたとえが悪かったかもしれません。何故といって、スーパーなどで卵を売っているあたりでニワトリさんが「高くてごめんね」みたいにあるのを見たとしたら、「いや、ニワトリさんは何も悪くないから
」と誰もが思うようなことだと思うので(^^;)。
それではまた~!!
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