>>後年、ダーウィンは自分が打ち立てた理論によって、神をまったく信じなくなった。自伝には次のように書いている。「不信感は至ってゆっくりと忍びこんできたが、最後には心をすべて覆い尽くした。その速さはごく緩やかだったので、私は何ら心痛を覚えなかったし、それ以来、自分の結論が正しいことを一秒たりとも疑ったことはない」
ダーウィンに信仰をとうとう捨てることを促したのは、多くの人と同じく、「悪の問題」――神がいるのなら、なぜこの世に悪があるのか――だった。ダーウィンにとって特に辛かったのが、愛娘が結核と思われる病気により10歳で短い生涯を閉じたことだ。ダーウィンはまた、どうして全知全能とされている神が、「何百万という下等動物が、ほとんど尽きることなく苦痛を受けること」を見過ごすのか、とも問うた。友人に宛てた手紙には、こう書かれている。「私には、ほかの人びとと同じように、神の意図や恩恵を示す証拠がどこにも見当たりません。この世界には、あまりにも苦悩が多いように思えます」
最終的にダーウィンは、世界創造のプロセスに対する神の関与も認めることができず、次のような結論にたどり着いた。「嵐がどの方向に吹くのかに意図がないのと同じように、生物の多様性や自然選択の働きに意図はないようだ」
(「神は、脳がつくった」E.フラー・トリーさん著、寺町朋子さん訳/ダイヤモンド社)
わたしたちが、自分の身のまわりに起きるすべてのことにおいて「意味がある」と思いたがる傾向の延長線上に神がいる……というのはつまり、ある意味、わたしたちの脳がわたしたちの生存のためにそう思いこませるウソである――おそらく、そうした言い方も出来るのではないでしょうか(あ、「神は脳がつくった」の中にはそんなふうに書いてないので、これは本を読んだわたしの印象です^^;)。
つまり、わたしたち人間のみならず、この地球に生を受けた動物はすべて、「とにかく生きる」ことを本能的に最優先させるものですよね。それで、この地球上に生きる動物の中で、唯一人間だけが「いつか自分は必ず死ぬ」ということを理解している……もし、わたしたち人間の脳が、身のまわりすべてのものに<意味がある>と思いたがる傾向になかったとしたら、そのように脳が配線されていなかったとすれば、「あれをするのもこれをするのも無意味」ということになり、明日生きていく理由のようなものすら、まるで見出せないことでしょう。
しかも、どんなに素晴らしい人生を生きた人も、最後には<死>が待ち受けているのです。そこで、わたしたち人間の進化した脳は、合理的なウソをわたしたちにつくようになった。「あれもこれもそれも意味があるよ」、「最後に待ち受けているのが<死>でも、天国という名の来世があるよ」……うまく、そのようにわたしたちの意識を丸めこむことが出来れば、わたしたちは一個の生命体として、明日も一生懸命生きていこうという気力が湧いてくる。
また、「神などいないし、死後に天国もない」と否定する無神論の方もいるわけですが、そうした方でも「生きている間に一生懸命生きること、生命を燃焼させ尽くすことこそすべてだ」という信念の元生きている、幸せな人生を送っている方もいらっしゃいますから――必ずしも、「あれもこれも意味がある」、「我々の死後には天国という、さらなるもっと良い霊魂だけの世界が待ち受けているのだ」……そのような考え方をしなくても、全然平気で生きていかれる方もおられるわけです。
けれども、人間とは弱い生き物なので、どう考えても比率としては、「生きていることには意味がある」、また、特段あるひとつの宗教を強く信仰してなくても「死後に天国はある」とか、「神さまって、いないようでいて、本当はいるんじゃないかなあ」くらいにふんわり、グレーゾーンな感じで信じていたほうが――「生きやすい」という方のほうがおそらく人間全体の比率としてはかなりのところ多いはずでないかと想像します。
それで、「神学的深遠」のところでも書いた「悪の問題」ですが、こうした科学的な考察から推察するに、つまりそれは、わたしたちの脳が「合理的なウソをうまく生み出せない」状況だ、とも言えるのではないでしょうか。
わたしたちの脳は、基本的に、「あれもこれもあなたに関係があるよ」と囁きます。今日天気がいいのは、「わたしやあなたの日頃の行いが良いから」だし、商店街でクジが当たったのも、「あなたが頑張って毎日生きているのを神さまが見ておられたからなのよ」……また、雨の日に道を歩いていて、ビショオッ!!とトラックに泥水をかけられても――わたしたちの脳は「このことに何かいい意味はないか」と探します。もちろん、そんな理由が思いつかず、「なんだよ、クソオッ!!」と叫び、その後はずっとイライラして一日を過ごすという方もおられるかもしれません。けれども、「嫌なことあったけど、きっと今日嫌な思いをした分、また別の日にはいいことがあるわ」と思って自分を合理的に納得させる……そうした方もおられるでしょう。
けれども、こうした日々の「小さな幸・不幸」ではなく、決定的な不幸どころでない悲劇に人が遭遇すると――「脳はウソを作りだせない」行き止まりに行き当たるのではないでしょうか。たとえば、地震や津波といった災害や、戦争による被害など……わたしたちは自分たちの脳の中を検索して、どんな合理的な答えを導きだそうとしても、そこに答えを見出すことは出来ない。
そして、「世界が<ある>ということには意味がある」、「生きていることには意味がある」、「きっと神さまや天国ってあるんじゃないかしら」といった希望的観測のようなものは、根底から覆されてしまうわけです。
でもわたしたちは、どんなに心が傷つき痛み、悩もうとも……やはり、「この世界が存在する意味などない」、「生きていることに意味などない」、「神はなんて意地悪なのだろう。いや、そもそも神など存在しないに違いない」――といった思考を長く続けることには、おそらくわたしたちの脳や心は耐えられないのです。そこでやはり、戻ってくるわけですよね。時間がどれほどかかろうとも、「やはりこの世界に意味はあるのではないか(きっと、人間の有限な知識によってでは理解できない秘密がそこにはあるのだ)」、「生きていることに意味があるかどうかが問題なのではない。自殺する勇気がない以上、我々は明日も生きていかなくてはならない。だったら、よりよき人生をポジティヴな心持ちで生きていったほうがよい」、「神が存在せず、天国などなくともいい。いや、わからない。それに、神がおらず天国もないなら、わたしの死んだ家族は今どこにいることになるのだろう。いや、死後に天国はある。だが、神がいるなら何故こんなことを許したのかはどう考えてもわからない」……こうして、わたしたち人間の心と脳の悩みは深まってゆきます。
また、ダーウィンもこの世の悪や不幸、悲惨といったことが、神を信じなくなった理由なのでしょうけれども、ダーウィンの奥さんは信仰深い方だったと言いますから、きっとこの結核によって亡くなった娘さんは、神さまや天国や天使を信じながら亡くなったのではないでしょうか(このあたりは、ダーウィンの伝記などで確かめてみないとわからないのですが)。
もっと簡単な言い方をするなら……わたしがもし今からどこかの病院の小児病棟へ行った場合、そこから帰る頃には号泣していると思います。どう考えても罪のない存在が、何故存在しているのかわからない病いのために痛み苦しむところを目撃するのみならず、看病するご家族の涙や、「これ以上どうすることも出来ない」と苦悩するお医者さんや看護婦さんの姿を目にすることになるからです。
でも、子供たちにもし<死>が差し迫ってきた時、わたしは自分が神さまのことを語ったり、天国や天使のことを話すのを、一切ためらわないと思います。何故なら、わたしの場合はそのことを心から信じているからですし、そのことを「人間の脳が生みだした、ただの気休め」とはまったく思っていないからです。
わたしは何も、神さまがいたり、死後に天国があってそこには天使がいるというのは、神も天国も天使もいないよりは、「いる」と信じたほうが心が豊かになって素晴らしいとか、子供の喜びそうなファンタジーを語りたいと思っているわけではありません。
日本では、エ○バやモ○モン教といった、キリスト教を名乗る異端が幅を利かせているので、キリスト教に関する何かを子供に話すということ自体、病室から追い出される理由になりかねないわけですが……子供というのは、親世代の大人が想像している以上に、「神さまとか天国とか天使」に関係したような話をものすごく好みます(また、そうした綺麗な絵を見るのも大好きです)。
そうした時に見せる、びっくりするような心からの笑顔とか、そうしたことを思うと――「神さまがいてよかった」、「天国があってよかった」と、誰もが心からそう信じてやまないのではないでしょうか。
ダーウィンが、元は信仰深かったのに、己の科学的信念のために神を信じられなくなったのは非常に残念なことですが、次回は、これだけの神を否定するに足る科学的事実があるにも関わらず、わたしがイエス・キリストを信じている理由について、少し書いてみたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!